人間賛歌・もっちゃん4649

豊かな実りの秋を

(2010年10月15日の自分史)


シュウメイギク




シュウメイギク




タカネハンショウヅル




ウメバチソウ




爽やかな秋晴れの下、トランペットエンゼルスやダリア・コスモスなどが秋風に優しく揺れて、豊かな実りの秋を喜んでいます(*^_^*)

こちらでは今、3日ほど前から稲刈りが始まりました。

早速新米を昨日の夕方届けてもらえましたので、日記をアップしたらお待ちかねの贈り物をしようとわくわくしているところです。

豊かな実りの秋に相応しく、私の第2の人生も豊かな収穫の秋の日を楽しませていただけています。

5月末に母の介護の正念場だと身構えたころは、腰痛を激しく意識しすぎて慌てて磁器ベルトを用意したり健康に留意しなければ!と我が身を守ることに真剣でした。

「のんびりと過ごし頑張らないでいいのよ♪自然体で良いのだから(*^_^*)」
と言い聞かせている間に、気がつくと良い季候となり、ゆったりと幸せな二人三脚を続けている母娘でした。

何も案ずることはありませんでした。

今朝も生ゴミを橋の袂に出しに行って、お墓参りをしてきました。

お願い事など何もありません。

ただ、ありがとうございます!とお礼の心を伝えるだけで充分なのです。

こんな豊かな毎日をいただいているのに、なんにもこれ以上の願い事なんてありませんよねえ(*^^)v

今、弾むような嬉しい気持ちにあふれているのは朝一のブログに大きな訳があったのです。

リンク集に”人間賛歌”というブログがあります。

自分史を一冊の本に纏めたいと一年半前の日記を綴っているのですが、今朝は「波乱万丈の私の進路」という日記をアップする日でした。

読み返していくうちに原点を再確認できて、悦びいっぱいの私ができあがりました!

半月に一度の日記になっていますので、少々長くなりますが、全文を引用したいと思いました(*^_^*)

元気いっぱいにこれからの日々を歩み続けるために(@^^)/~~~ね!

人間賛歌より

波乱万丈の私の進路

平穏な日々火曜の夜は歌謡コンサートを楽しむのが母との定番となっています。

夜9時の消灯の前に母の身の回りのお世話を済ませようといつものように動いていました。

秋元順子さんの”愛のままで”は私の心の真実の叫びだと手を止めて聞き入っていました。

5年前の私は高らかに毎日”愛のままで”の世界にいたし、その気持ちのままで一生が終わると微塵も疑うことなく過ごしていたと断言できます。

”手紙”という初めて聞く歌を番組の終わりに聞きました。

介護を必要とする父親からの子供たちへ宛てた手紙の内容でした。

旅立ちの準備を始めた私に少しの間寄り添って欲しいという切々とした気持ちが込められていました。

母親の気持ちの代弁だと思いながら重ねて聞き入っていました。

終焉になると誰かの手を借りないと人は生きてはいけません。

歩くこともできなくなって、起きることも寝返りも、食べることも・・・

言葉も忘れていくのです。

母は今ではあれほど好きだった歌も歌えなくなっています。

「ここはお国を何百里~♪」と枕元で私が歌い始めると、途中から唱和できています。

とても得意な顔をしながら嬉しそうに歌うのです。

戦友と言う軍歌は14番まである悲痛なギリギリの悲しい情のドラマです。

生死を語り合い、どうせこの身はないものと覚悟しあった戦友の最期を親御に知らせる手紙を綴る場面まで続いていますから、若い頃の母の心の一番奥に焼きついた一曲だったのでしょう。

母の最期に寄り添う使命を与えられている私だという信念を堅く持っているのですが、連れ合いとの5年という介護に専念する期間の区切りが10月の終わりでやってくる事実を意識し始めたのが5月でした。

5月になって失語症になってしまったような言いたいことが言えなくなってしまった悶々とした重苦しい気分は介護の疲れからくるのだろうとぼんやりと思っていましたが、焦りにも似た焦燥感はここにあったと気づきました。

昨夜は嫌な夢を見ました。

連れ合いにお見合いの話が進んでいるのです。

身の回りの世話をする人が必要だという周りの人の配慮からですが、相手の女性はマサエさんの若い頃なのです。

一瞬驚きましたが、しかたないなあ~とも思い黙って事態の経過を見守っていました。

女性の方は乗り気です。

連れ合いの気持ちを聞きただしていました。

彼は気持ちの整理がつかないよ~と答えていました。

そこで目が覚め、水分補給をする時間でした。
午前4時です。

他愛無い夢の話ですが、ぐるぐると思い返しながら、眠れずに、ブログをアップしようと人間賛歌を開けました。

私の原点が回り合わせの不思議というように巡ってきていました。

さてさて~?

波乱万丈の私の道はどこへ通じていくのでしょう~?

これでよかった~\(~o~)/といつも喜べる路が開けてきましたから、運命の不思議を思い、誠心誠意努めるのみです。

取り越し苦労は大嫌いだし、他力本願も望みません。

毎日をこつこつと積み重ねた先に人生の路は大きく明るく開けます。

悔いのない人生を力強く生きようと願っている朝です(@^^)/~~~

(2008年2月11日の自分史を参考までに)


今日は建国記念日で、一年の中で一番奈良のことを思い出す日です。

昨日の夕方くらいからそんな感情が湧き起こっていました。

橿原神宮の近くに家族は住んでいます。
長男や次男の結婚式も、孫のお宮参りも橿原神宮でお祓いをしていただいていました。

私にはもっと前の大学2年の夏に強烈な思い出のある場所だったのです。

私の居場所を見つけた場所でした。

必要とされるところで生きていきたいというのは今も変わりない考えですが、プロポーズを思いがけず余命3ヶ月と聞く難病を発病した同級生から受けました。

再生不良性貧血は血液癌です。

助かる人は1万人に1人という不治の病と当時言われていたものでした。

現在でも骨髄移植でドナーが見つかれば・・という難しい病気です。

生きていたい・元気になりたいと願うのは私と共に将来もいたいからなんだと~

簡単に言うとそんな命がけの決意を聞かされました。

橿原神宮の森の昼なお暗い古池のほとりで、睡眠薬百錠入りの瓶を片手に必死に病気と闘う気力を持ち続けさせてほしいと懇願されました。

ドラマの中の一場面のようで、そこにはあれ以来一度も行っていません。

不思議な力で迷い込んでしまったような深い森の奥だったと言う印象なんです。

入院していた病院から一時外出の許可をもらっての距離なので、そんなに遠くではないはずなんだけど、1人では行けそうもない古池のある森でした。

私の存在を生きる力にしたいと願う彼を見て、傍にいることだけで人を助けて上げられるのならばと、ただそれだけで簡単に承諾していました。

10月末まで生きられるかと言う余命宣告をされたと彼の姉に前日呼び出しを受けて聞いていましたし、本気の結婚までに考え及ばなかったのが事実でした。

11月末に復学してきました。

満面ムーンフェイスとなり、赤ん坊のようにピンク色の顔でした。

プレドニンという抗生物質の新薬がとてもうまく適合したので、赤血球がぐんぐん増えたから退院できたと言うことでした。

そこから彼の人並みはずれた頑張りが見え始めます。

大学2年の前期の試験を受けていないし、留年することは間違いないだろうと私は思っていましたが、彼はそれをレポートの課題を出してもらうことで専門の全科目の点数を獲得しました。

徹夜は駄目
薬は一生手放せない
力仕事は出来ない

よくよく注意するようにと言い含められての退院でしたが、幸せにしてやれない俺なら死んだ方がいいとあえて気力で病と闘いました。

薬も捨てました。
徹夜もしました。

会社に勤めるようになって人より5分早く出社し、人より5分遅く退社すると言うポリシーで企業戦士を駆け抜けてきました。

現在は二つの会社のトップで現役で、武勇伝がいっぱい詰まっているはずです。

明日の命は分からないから、今やれることを全力で気迫を込めてぶつかるのです。

そんな46年を過ごしています。

私は息子や彼に毎日の様子が分かればいいと日記を更新しています。

介護に専念するために離婚してくれました。

奈良の義母も91歳です。
毎月半々の移動介護はつぶれてしまうから、自分の親はそれぞれで看ようと話し合ったのでした。

還暦を過ぎた後の人生は自分の思い通りに生きて良いから~と許可が下りたのです。

息子3人を集めて、旅立ちの前に、
「父さんのお墓の横は空いているから、母さんを入れてやってくれよ~」と話していました。

波乱万丈の楽しい武勇伝にあふれた人生を私も彼も歩んでここまできたし、これからも続く道なのだと振り返っている朝です。

3人の妹や奈良の家族や教え子たち・ネットで出会った素晴しい魂の持ち主に私の思いを少しでも多く理解していただけたら幸いです。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「平穏な日々」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事