地理B 2016年センター試験解説 赤本より詳しい解説 

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地理B 2012年センター試験第4問問5【23】

2016年03月22日 | 受験

ヨーロッパの工業

 

 


 

解答
第4問問5【23】③
解説
サ:ドイツ-西ドイツと東ドイツは1990年併合。社会主義国東ドイツは消滅した。
シ:イタリア-イタリア南部では官民合同による工業化が進められた。
ス:ベルギー-南部フランス語圏(ワロン地区)は重工業偏重により経済が停滞した。
解説の解説
サ:東西ドイツ統合(1990年)
東西ドイツの併合は、ソ連と東ドイツの社会主義経済の破綻が原因である。歴史的には、1945年のソ連のドイツ占領地域は「ドイツ民主共和国」(東ドイツ。首都ベルリン)、一方の米英仏の占領地域は「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ。首都ボン)として独立した。ドイツは冷戦による分割となったのだが、東ドイツの経済力は著しく劣り、西ドイツとの経済較差は大きかった。東ドイツ市民は生活苦が深刻であり、ベルリンの東西境界線を越えて西ドイツ側へ脱出する市民が大量に発生した。1961年8月、東ドイツ政府は突然、東西ベルリン境界線上に「ベルリンの壁」を建築し、脱走者を武力で押さえ込んだ。しかし、ソ連と東ドイツの経済の落ち込みはひどく、アメリカの援助なしでは一般市民の生活が困難であった。1985年にソ連にゴルバチョフが登場して東西緩和が進み、1989年11月10日にはベルリンの壁がベルリン市民の手で崩された。東西ドイツの併合がスタートした。東西ドイツの併合をソ連と東ドイツ政府が認め、東西ドイツは1990年10月3日に統合された。統合前の東ドイツは統合前は工業国であり、工業製品も高度な技術の製品と思われていたのだが、東西ドイツ併合後に、西ドイツの技術よりも半世紀以上遅れていて、東ドイツ地域の経済は壊滅した。西ドイツは、東ドイツ市民を同程度の生活水準に引き上げるために、大きな努力と犠牲を払わなくてはならなかった。
シ:イタリア南部開発
第2次大戦後、イタリア北部は工業・農業が高度に進む一方、南部は経済的に遅れたままであり、イタリアの南北問題といわれた。南部の経済的後進性が南部の政治的不安定につながっていたため、官民共同による南部工業化政策としてバノーニ計画が進められた(1955~64年)。南部に高速道路が建設されたり、タラントに鉄鋼コンビナートが建設された。しかし、雇用能力が小さく、多くの南部イタリア人への恩恵はなかった。経済の南北格差の解消も、南部の政治経済の安定も実現も、期待外れであった。なお、タラントのアウトストラーダA14は1975年開通である。

ス:ベルギーの南北問題
ベルギーの人口は約1,000万人である。オランダ語を使う者700万人、フランス語を使う者300万人である。1962年に言語境界線が確定され、1993年には2言語地域連邦制に移行した。現在では、
オランダ語圏(北部)=フランドル地域(フランデレン地域)
フランス語・ドイツ語圏(南部)=ワロン地域
フランス語・オランダ語の2言語併用(首都圏)=ブリュッセル
の三地域それぞれが、地域政府を設けている。連邦政府は外交・国防・財政・司法などの権限があり、地域政府は経済・雇用・都市開発などの権限がある。また、地域政府とは別に教育・文化については言語別の共同体政府がある。21世紀になってからは連邦制による統一国家に反対し、南北分離を主張する動きが強くなってきた。これは南部フランス語のワロン地域が伝統的重工業政策に行きづまる一方、北部・首都圏のハイテク産業が発展して、ワロン地域の経済力低下が明白になってきたためである。ブリュッセルは多言語地域だが、ワロン地区と中東地域からの人口流入が続き、オランダ語使用者は少ないといわれている。

 

 

 

 



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