もりんの日々是迷い人

もりん。50代主婦。
×あり。子あり。
良い職場と幸せを探し求める日々。

涙を流す遺影。

2024-05-12 12:28:00 | 家族
亡くなった人を見たのは、私の人生では2度目。
1度目は祖母で。
もう冷蔵保存された状態で。
私にはその姿が、人間の形をした『ただの器』に思えた。


元夫が胆管癌で亡くなったあの日。
夜。
なかなか眠れなくて。
寝れなくても良いとも思えて。
ベッドで横になって。
頭の中は思考がぐるぐるで。

本当にあの人は死んだの?
どうして?
私はどうすれば良かった?
どうすれば良い?
子供たちは?

自分が生きていることさえ、赦されないことのように思えて。
悲しいのか。怖いのか。不安なのか。自分の感情さえわからなくて。

ただ私は。
最期にちゃんとあの人と話がしたかった。
今までのこと。子供たちのこと。
真剣に話したかった。

そんな時のこと。
あれは、もしかしたら夢だったのかもしれない。
眠れないと思っていても、体は疲れていたから、眠っていたのかもしれない。

急に目の前が明るくなった。
私は思い立った様に起き上がって窓の方を見ると…光の塊?
私には『あの人』の形に見えた。

その光は何も言わないし、動かない。
私はその光に言った。

「大丈夫だから。ちゃんとやるから。(子供たちと)3人で頑張るから」と。

亡くなった人は、縁のある人たちに会いに来ると言う。
あの人が来てくれた。
私はそう思った。

次の日曜日があの人の葬儀だった。
先週の日曜日には杖を渡して、会話してたのに…

葬儀は宗教関係なく、お別れ会の様な形式で。
参列者7人のみ。身内のみ。

打ち合わせの時、葬儀屋さんに尋ねた。
私は離婚して他人なのに、一緒に出て良いんですか?と。
「貴女は父親の子供達の母親なんです。堂々と出て下さい。」
と、言ってもらえた。

あの人の最後の姿は。
花いっぱいに囲まれて。
大好きだったアディダスのジャージやゴジラのおもちゃやチョコを入れて。

火葬場。

日本の風習って、気持ち悪いと思った。
すぐそこで、これまで生きていた人が焼かれているのに、平気で食事をする。
他の待合室では、お酒やお寿司が振る舞われて、談笑する人たちが。

誰かが亡くなっても。
本当に悲しむのは、ほんの一部の人にすぎない。
生きてる人は無情だ。

火葬場への行き帰りは、親戚の車に乗せてもらって。
葬儀場に一度戻って、娘の運転であの人の家に帰ることになっていた。

車を乗り換える時。
私があの人の遺影を持っていた。

その日は朝からどんよりと雲っていて。いつ雨が降っても不思議ではないような天気で。
車を乗り換えるほんのわずかなタイミングで雨がポツポツと落ちてきた。

遺影が濡れちゃう。
慌てて車に乗って。
遺影に目をやると。
遺影に3つぶ程の雨の雫。
2つは顔とは離れたところに付いているのに………ひとつぶだけ…
右目から涙が流れていた

ただ雨が付いてるという状態と違う。
ちゃんと右目にそって溢れて流れた。

「心配しないで。ちゃんとやるから」
思わず話しかけた。

誰よりも悲しくて。悔しくて。
無念なのは
間違いなくあの人自身なのだと知った。





涙を流す遺影。プロローグ

2024-05-12 09:25:00 | 家族
元夫を胆管癌で亡くしました。
離婚はしていても、私には大切な家族でした。


娘が。
最後の入院に行った日のことを、日記のように書いてくれていた。
感情など含まない…事実だけを淡々と書いた文書が、私にはかなりリアルに感じました。

私が最後に生きた『あの人』を見たのは日曜日。
最後の病院に行ったのは火曜日。
自分で車を運転して行ったそう。

最後の日曜日にも言っていた。
「運転出来なくなったら終わりだ」と。
あの人の仕事はドライバーで。
運転が好きで…
最後の最後まで『終わり』じゃなかったよ。

近くに借りている駐車場は、ちょっとした坂になっていて。
坂と言えないくらいの、ほんの30cmくらいの高さなのに。
あの日。あの人は転んで。立てなくて。
娘が後ろから押してようやく立って、車に乗り込んだのだそう。

腕は擦りむけて血が出ていたけど、本人は大丈夫だと言って、病院に向かった。

病院に着いて。採血の時に、看護士さんが手当てしてくれたけど、服にも付くくらいの出血だったので、入院の時に娘が服を持ち帰った。
だから。亡くなったあの日、最期に着せる服がその場になかったのだ。

本当は。「死んだら着せて欲しい」と、本人が白いジャージを買っていた。
昔からアディダスが大好きで、よくジャージは着てたけど。白を買ったのは初めて見た。
死装束のつもりだったのだと思う。

でも。手元になくて。
結局最期に着せたのは、病院のコンビニで買った浴衣で。
白いジャージは、棺桶には入れたけれど…それだけは本当に申し訳なかったと思う。


亡くなったのは、水曜日の夕方。
朝からもう意識はなかったらしい。

綺麗にして浴衣に着替えた遺体は。
一度霊安室に運ばれて。
ふたりの病院関係者が、手を合わせてくれた。
あの人が。生前から葬儀屋を決めていたので。そのあとすぐに葬儀場に運ばれた。

事務員の女性に病院の出口まで案内されて。
その日は解散。
娘は自転車。息子と私は電車。

私の手には…
日曜日にあの人に貸した杖。
持ち物は持ち帰ってと、看護士さんに渡された。

あの人は。
医師に入院と言われて、車イスに乗せられても。
杖は持って行くと言ったのだそう。

歩くつもりだったの?
もう排泄すら自分で出来ないくらいの状態だったのに?

あの人は、きっと『生きる』つもりだったのだと思う。

その思いが伝わるようで…
どんなに無念だったろう…
電車の中で杖を抱き締めて帰った。

電車の中は普通で。
大きな声でお喋りするおばさんたち。
仕事帰りのサラリーマン。
その普通が、たまらなく悲しくもあった。

あの人がどんなに無念でも。
私がどんなにショックでも。
世間は笑ってて…
誰も一緒に悲しんではくれないのだと知った。

その日の夜。
不思議な体験をした。

つづく。







止まってしまった時間と心臓。

2024-05-12 09:00:00 | 家族
あの日の前日。
私は、仕事がお休みのご主人と、遅い花見に出掛けていた。

風が強くて。
桜吹雪が舞う中。
『あの人』のことを考えていた。

桜が儚く散っていく。
あの人は。
来年も桜を見ることが出来るのだろうか?と。

その日の夜。
娘から電話が来た。

あの人が今日、病院へ行く日だとは聞いていた。
娘は、一緒に病院に付いて行ったのだそう。

「入院した。
先生に、最後の入院になるって言われた」
娘は涙声だった。

あの人が病気になってから、何度も「大丈夫?」と聞いても、いつもひょうひょうと「大丈夫。大丈夫」と言っていた娘が涙声で電話して来た。
それがとてつもなくショックで。
本当にもうダメなのかもしれない。
そう思った。

あの人の命は
あと1週間?1ヶ月?と。

あの人が亡くなったのは。
その次の日だった。


午後3時過ぎに家に帰ると、待っていたかのようにメールの音がした。
娘からのメール。
「もうだめなかもしれない」

急いで病院に向かう。 
ただひたすら、生きていてと祈って。

病院は。家族じゃないと病棟に入れない。
私は。気持ちは家族でも、あの人とは戸籍上は他人。
「病院から危ないと連絡もらった身内です!」と嘘をついてB棟に向かった。
B棟では。娘が私のことを話しておいてくれたので、嘘をつく必要はなかった。

病室の前で、看護士さんに言われた。
「もう心臓は止まって、瞳孔も開いている状態です」と。
つまり……もう、死んでいる。と。

病室に入ると。
人間ってこんなに黄色くなるんだ。と思えるくらい、黄疸がで出た顔で、苦しそうに喘いでいるあの人がいた。
喘いでいる?
機械で呼吸させられているだけの『遺体』。
頭では理解していても、どうしても死んでいるとは思えなかった。 

でも。確かに死んでる。
そう感じたのは、あの人が『イビキ』をしていなかったから。

元々は太っていて。
寝るといつも地響きのようなイビキをかいていたあの人が、
苦しそうに息だけしている。
それはもう、あの人であってあの人じゃない。

手はまだ温かくて。
起こしたら起きるんじゃないかって。
「起きなよ」って声をかけたけど無反応で。

お医者さんが来て。
死亡確認して。
機械を外して静かになったあの人は…
やっぱりもう、生きている人ではなかった。
ただ、苦しそうな息からは解放されて。穏やかでほっとした。


看護士さんに
「これから綺麗にしますので待っていて下さい」と、別室に案内されて。
息子と娘と3人で待った。

看護士さんに
「着せる服はありますか?」
聞かれた。
前日、あの人が怪我をして、服に血がついたから、娘が持ち帰っていたらしい。
硬直が始まる前に着せたいので、早めに用意して欲しいと。
下のコンビニで浴衣が売っていると聞いて、浴衣を買いに行った。

本当は。
「死んだら着せて欲しい」と言って、買ってあった服があったらしいけど。
取りに行く余裕もなくて、仕方なく浴衣にした。

2時間ほどして。呼ばれて。
綺麗にしてもらって、浴衣姿のあの人と再会した。
浴衣……似合ってた。

運ばれる前に。
あの人の頭を撫でた。
何も考えてはいなかったけど…考えられなかったけど…
なんとなく愛おしかった。 





大切な家族を喪(うしな)うということ。

2024-05-12 08:28:00 | 家族
私の大切な家族が亡くなりました。
私の前の旦那さんです。

戸籍上は既に他人です。
それでも…
私には大切な家族でした。

私には離れて暮らす子供が2人います。
子供と言っても、既に成人はしています。
子供たちは、20代で父親をなくしたことになります。
葬儀屋さんも言っていました。
「20代で親を亡くす人は、そうはいない」と。


私の元夫。『あの人』。
20年以上連れ添った相手でした。
離婚してから8年。
まさかこんなに早く、あの人が逝ってしまうなんて思いませんでした。

胆管癌と知ったのは約1年半前。
黄疸が出て。病院で検査して。

治ると信じてました。


1年半あったはずなのに…
『その日』はあっという間にやって来た気がします。

最期に会話をしたのが日曜日。
私の所に遊びに来た娘を、車で送って来た日。

足がむくんで歩くのが困難になったから、これから杖を買いに行くと言っていた。

その日。
ご主人は偶然仕事が休みで。
ご主人の実家に、使っていない杖があるのを私は知っていたので、あの人に貸して欲しいと頼んだ。
あの人の車に同乗して、ご主人の実家に向かった。

車でほんの5分程の距離。
あの人の運転は、明らかにこれまでと違っていた。
遅い。鈍い。
まるで弱った高齢者が運転しているような。

先に実家に来ていたご主人が
杖を出して来てくれた。

ご主人とあの人が会うのは
その時が2度目。
1度目は。
放射線治療をすると知った時。
初めてご主人をあの人に紹介した。
もし、あの人に何かあれば、ご主人の協力は不可欠になると思ったから。

この予想は。
現在本当に当たることとなる。

2度目に会ったのが、ご主人とあの人との最後になった。
杖を渡した時。あの人は言った。
癌なんかに
なるもんじゃないよ
と。
これまで見たことのないような、白い歯を見せて、にぱっと笑って。

にやにや笑うことはあっても、にぱっなんて歯を見せて笑ったことなんて…これまでの私の記憶にはなかった。

あの言葉。
あの笑顔が。
私が、生きているあの人を見た
最後だった。



昔。母がこんな話をしていた。
私が幼稚園の頃の、母のママ友の話。
癌であることがわかり、余命短いと知らされていたある日。
後ろから声をかけられて振り向くと、車の中からそのママ友が。
痩せて顔色が悪くて…でも彼女は母に、とても明るい笑顔を向けて別れたのだそう。
その時。母は嫌な予感がしたそうで。
結局、それがそのママ友との最期だったと言う。

あの人の笑顔を見た時。
私はその話を思い出して、とてつもなく嫌な予感を感じていた。
それでも。
そんな予感を打ち消して。
大丈夫!大丈夫!と心の中で祈っていた。

悪い予感と言うのは
ほぼ予知能力みたいなものだ。