余桃之罪、もしくは電光朝露

関西フィル、日本センチュリー、京都市交響楽団、大阪フィルの定期会員です。アイドルやら声優やら。妄想8割、信憑性皆無。

京都市交響楽団 第536回定期演奏会

2010年06月19日 | 京都市交響楽団
10.6.19(土)14:30 京都コンサートホール 大ホール
京都市交響楽団 第536回定期演奏会
指揮/高関 健
コンマス/泉原隆志(京都市交響楽団コンサートマスター)
曲目:
ウェーベルン/管弦楽のための5つの小品op.10
ウェーベルン/大管弦楽のための6つの小品op.6(1928年版)
マーラー/交響曲第7番ホ短調「夜の歌」

8割ぐらいの客入り。
やはりこのプログラムでは客入りの良い土曜でもこんなものか。

ヴェーベルン。
プレトークで「音符が20個ちょっとの曲もあるが金を返せと言われても困る」と言っていたが、確かに短い。短いだけでなく音楽として何が起きているのか何を聴けばよいのか全くわからない人も多かったろう。
音色旋律なる理屈で作られた音楽だと言うのだが、ヴェーベルンはなぜそんなことを考えるに至ったかがプレトークでもプログラムでもイマイチ分かりやすく語られなかったので戸惑う聴き手が現れた。
旋律と伴奏、それにリズムからなる従来の作曲法から脱却すべく、楽器の音色の混合と配分を中心にして音響自体によって音楽が動くような新たな作曲法を提示したのがヴェーベルンの師であるシェーンベルクであり、ヴェーベルンはそれをさらに前進させたという。
・・・だけれどもそれを念頭においてもあっという間に終わったので何が何だか。
音色旋律というだけあって特殊奏法の使用や使用楽器の多様さが肝で、そこが続くマーラー作品からの影響というか歴史的連続性があることを体感出来たら十分でしょうね。

マーラー。
サイモン・ラトルは皆様ご存知だと思うんですよ。ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の現在の首席指揮者兼芸術監督。15年ほど前でしたかね、彼が首席指揮者を務めていたバーミンガム市交響楽団を率いて同じ曲をやった。前プロがイダ・ヘンデルがソロを弾いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でこれも話題で。色々な音楽的要素をあまりにも細かく強烈なバランス感覚で次々と繰り出して聞き終わりに気持ちが悪くなったんもんです。メンデルスゾーンでは古楽の要素を管楽器にそれとなく要求してみせてたり。才気走るけれども、とにかく正体が掴めなかった。出してくる録音も全部そうですね、ストラヴィンスキーやフランス音楽ではブーレーズ以上の細密さを見せたかと思えば、ハイドンやベートーヴェンではピリオドアプローチ全開、最近出たブラームスの交響曲全集では大ロマン風の演奏をやる。それぞれのスタイルに合わせるだけ合わせて当人の顔が見えない。年齢的にパソコンが世に普及した最初の世代なんですかね、世界の様々な情報を等価値に扱えるようになったデータベース的指揮者の代表格でしょう。今の多くの若手指揮者は彼の廉価版のようなもんです。
大阪センチュリー交響楽団首席指揮者時代の高関健さんも所違えど同じような手法の方で、様々な作品を様々なアプローチで聴かせてくれた。日本でこの人ほど研究熱心で資料や情報の収集を怠らない指揮者はいないんじゃないのかというぐらいの勉強家。楽団もそうした人材を欲していたので財政が厳しくなるまでは相互作用が輝かしかった。高踏的で集客が伸びなかったのが残念でしたし、音楽的には理屈は分かってもそこを乗り越えて訴えてくるものに乏しかったですが。
そんな高関健さんがプログラムに「失敗作かも」とあるのを力強く「失敗作ではございません」と否定して始まった7番。第2第4楽章では何故ヴェーベルンを前プロで演奏したのか、ハープの一閃や木管のトリル、各種打楽器で音風景が俄に変貌する様は音色旋律の原型がここにあるんだと客全員が納得する演出。「楽譜通り思いっきり鳴らしたい」と言った終楽章終結の打楽器総奏はオケを圧倒するうるささで燦然たる日光の趣でした。
1955年生まれ、サイモン・ラトルと同年齢の高関健、面目躍如。

7番は人気薄ですがこれの第3楽章こそはマーラーの全管弦楽曲でもっともマーラー的な音楽ですので、7番が楽しめないとマーラーの50%は分からんままだ。マーラー以外に誰がこんなワルツを書くものか。

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