余桃之罪、もしくは電光朝露

関西フィル、日本センチュリー、京都市交響楽団、大阪フィルの定期会員です。アイドルやら声優やら。妄想8割、信憑性皆無。

大阪センチュリー交響楽団 第154回定期演奏会

2010年09月16日 | 大阪センチュリー交響楽団
10.9.16(木)19:00 ザ・シンフォニーホール
大阪センチュリー交響楽団 第154回定期演奏会
指揮/アレクサンドル・ドミトリエフ
ピアノ/中野翔太
曲目:
ショパン/ピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11(ナショナル・エディション)
チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調op.74「悲愴」

大阪センチュリー交響楽団 楽員ブログ : 突然のお別れに・・・・
http://coo1989.exblog.jp/14606031/#14606031_1

少し体が傾いたまま頭の鈍痛が醒めぬままだがとりあえず会場に行くぞ。

(かきかけ)
書くほどしょげる。
(ようやく書く気になるも時折泣く)

9割届くかどうかのお客様。
席に着いてプログラムと一連のチラシを開く。プログラムには当然のように本日の楽員表には奥田さんの名前があるが、訃報を告げる一枚が挟まれている。

訃報
 当団首席コントラバス奏者 奥田一夫(享年57歳)が、平成22年9月12日に不慮の事故により逝去されました。
 東京芸術大学、ヴュルツブルク音楽大学でコントラバスを学んだのち、東京交響楽団首席、大阪フィルハーモニー交響楽団首席を経て、当団には平成元年の創立当初から首席奏者として在籍しておりました。
 当団は今夜演奏の「悲愴」を捧げ、哀悼の意を表します。
                                   平成22年9月16日 大阪センチュリー交響楽団


コントラバスセクションの傍ら、いつものように一番客席に近いところに今や主を喪って誰よりも孤独に佇む名器ブゼットの姿。常なら誰よりも先にステージに現れて、少しづつ増えていく客席の人の数を楽しそうに眺めながらチューニングを始めるあの姿が無い。深い溜息と共に、現実なのだとようやく心の揺れが収まった。
開演も間近になるころ、いつも奥田さんと同じプルトで弾いていた内藤さんがやおらブゼットを掲げてチューニング。そうね、奥田さんも弾くからね。
今日のお昼が告別式でした。

ショパン。
ステージに入ってくる楽員が誰も皆チラリとブゼットに目をやる。
前に聴いた時はとりあえず弾いてるだけだった中野くん。明快な左手の打鍵から生み出す強靭なリズム、控えめだがツボを外さないルバート、颯爽としたテンポ、これだよ。おぢさんが聴きたかった男のショパンはこれなんだよ。ブライロフスキーのショパン演奏がおぢさんにとってはバイブルだって言えば今日の演奏を分かってくれる人いるかな。
中野くんのお陰でちょっと救われた。カーテンコールで手をブラブラさせすぎだけど。

チャイコフスキー。
低く低くうめくような開始早々、楽員の何人かが涙をぬぐいだす。聴いてるこっちももう泣くしかねえ。
今日の棒がドミトリエフ先生で良かった。楽員と一緒になって泣くような棒を振られたらおそらく演奏はボロボロだったろう。ロシアの指揮者は大雑把に言って民族派と貴族派に分かれている。ドミトリエフ先生は師であるムラヴィンスキーとかテミルカーノフのように実は気品のある(しかしどこか借り物のような)演奏をやる貴族派のタイプ。オケの状態を理解してるだろうけど、努めて冷静に最後まで美しいフォルムを造ることに腐心なさってた。
いつも前を向いていたクラリネットのもっちーは自分のパート以外ではずっとうつむいたまま、終楽章では相蘇さんや西田さんなど弾いてるのか泣いてるのか分からん。ヴィオラ首席の竹内先生やチェロ首席の林さんは感情をぶつけて体を揺らして椅子から落ちるんじゃないかというぐらい。ムードメーカー的存在として奥田さんと肩を並べてきたトロンボーンのお二人もコラール前から涙目。
言葉で表現の仕様がないくらいの深く遠いところへの呼びかけでもあり、ありとあらゆる思い出への心の底からの誄歌だった。

誰ともなくブゼットに向かって拍手を送る。
脱力したままに階下へ。
ホワイエで日本芸能実演家団体協議会が国の予算に占める文化予算の割合を現行の0.11%から0.5%へと引き上げることを求める、もっと文化を!キャンペーンの署名を集めていた。TV取材もされていたが、奥田さんが生きていたら真っ先に署名集めの先頭にいたに違いないと思うと辛くて足早に去った。
http://www.motto-bunka.com/index.html

我々は音楽を聴覚で聴くわけだけれども、実際の演奏ではそれに触感(空気感)が加わる。ご家庭のオーディオでは強烈なティンパニの一撃やヴァイオリンの渾身の歌が始まる直前の奏者の息遣いはなかなか再現できない。だからこそ生演奏の価値があるわけだけど、コントラバスやファゴットやテューバというのは実は嗅覚に近いところで把握しているように感じる。
嗅覚というのは普段あまり意識に上ることがない。ほら、長い間家を開けてから帰宅するとふと我が家の匂いはこうだったかと安堵する感覚があるでしょう。慣れているから意識しないと分からない。
コントラバスやファゴットやテューバといった低音楽器はそういうものに近い。音の嗅覚で感じている。
この日、それを失ったことを感じた。失わなければ分からないのは愚かな人間の常だが、いい年まで生きてきて、やはりまだ失わなければその大切さが分からないままだった。実に情けない。

お気楽な音楽享受者でいたかったおぢさんからひとつの名曲が聖別されて奪われてしまった。あれからずっと悲愴が聴けない。

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