Saxophone Colossus (Prestige)・SONNY ROLLINS
「上野の骨董市で『サキコロ』の掛時計が出ていたので、つい買っちゃいました」
ソニー・ロリンズの大ファンである海雲堂が照れくさそうに言った。
「ああ、あのジャケットのやつね。そういえば昔うちにもあったんだけど、あれどうしたのかな」
夏原は記憶を辿ろうとしたが思い出せなかった。
「昔はジャズ喫茶によくありましたよね。まだ動くみたいなんですけど飾るだけにしておきましたよ。時計になるくらいだからこの盤の偉大さは誰もが認めるところですよね」
「モダン・ジャズの古典と言ってもいいだろうね」
「今更買えないっていうやつですかね。気恥ずかしくって」
「広告代理店のアート・ディレクターらしくコピー風だね。じゃかけてみる? 今更盤を」
「いいですね。久し振りの『サキソフォン・コロッサス』」
このレコードは数えきれない程かけてきた。盤にはさすがにキズが多かった。針を上げる時に誤って擦った所が何カ所かあった。言わば、レコードとしては名誉の負傷だ。それがもとで出るノイズの箇所も夏原は諳んじていた。
ロリンズ渾身のテナーが聴く者を圧倒する『セント・トーマス』のテーマ。これが出た途端、イントロでリズムを刻んだマックス・ローチのドラムが露払いにしか感じられなくて気の毒な程だ。言い古されてはいるが、まさにオーラを皮膚で感じるのだ。
「やはり素晴らしい」
海雲堂は感嘆の声をあげた。
「あまりにも突出した『サキコロ』程の存在になると、今更リクエストするのも恥ずかしいなんてね。初心者に思われたくないという気持がはたらくんでしょうね。そして、知ったかぶりをしてわざとマイナーなレコードを聴こうとするんだ」
「ジャズ喫茶に来る人間の心理として他人を気にする傾向は多分にあるよね。上級者を気取りたがるけど、ボクはそれはおかしいと思うんだ」
そう言う夏原はさらに付け加えた。
「この前夏目漱石の『坊ちゃん』を図書館で借りてきたけど、これも今更かもしれないけど実際読んでなかったものは仕方がないんだ。格好つけて読まないままで終わるよりはいいよ」
「まだ読んでなかったんですか」
つい口をついて出た言葉に、海雲堂がしまったという顔をした。
「それそれ、そういう言い方がいけないんだよ」
「白状しますけど、私も古典の名作シェイクスピアの『ハムレット』を読んでなかったです」
「誰だってあるんだよ。そんなことは」
夏原は笑いながら言った。
「あまりにも有名盤になっちゃうと、ジャズ喫茶では疎んじられるという皮肉な状況だね」
「有名盤故の悲劇です。贅沢な悩みです」
「ボクらの子供時代にも、人気者の美空ひばりが好きだと表立って言えない雰囲気があったもんだよ。こころの中では好きなのにね。これも有名すぎる故の反応だね」
夏原が言った。
「人の深層心理にはそういうものがひそんでいるんですよね。広告をつくるうえでも大いに参考にしたいですね」
広告の表現に悪戦苦闘する海雲堂は、抜け目のない発言をした。
「寄り道していたらA面もう終わっちゃったよ。『サキコロ』かけたら『モリタート』も当然聴きたいよね」
そう言って夏原は盤を裏返した。
「最初どっちをかけるか迷っちゃって、で結局両面かけてしまう『サキコロ』なんですね」
その時スミちゃんがやって来た。
「あれ、海雲堂さん来てたの。なに、今更『サキコロ』なんか聴いちゃって。どうしたのよ、みんなポカンとした顔をして」
スミちゃは怪訝な顔をした。
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