Eric Dolphy Memorial Album (Prestige) / ERIC DOLPHY
店を開ける前、ドアのガラスを拭きながらふと見ると運河にカメラを向ける人がいるのに気がついた。アングルを変えたりしてしきりにシャッターを切っている。夏原はそのカメラを見た。ドア越しだがスプリングカメラのようだった。かなりの年配だったが、今時そんなカメラで撮っている人はなかなかいないので「ほほう」と内心思った。この風景が気に入っている様子が後姿からも察することができた。
それから暫くして、ドアの開く音がしたので振り向くと先ほどのカメラの人だった。軽く会釈をして夏原に言葉をかけた。
「ここはいい風景ですね。とても意外な場所でジャズのお店をやっていらっしゃるんですね。羨ましいですよ」
「いらっしゃい」代わりに「ありがとうございます」と夏原は言った。そして、カウンター席を勧めた。
老人は手にしていたカメラを置いた。ブラックの艶が美しいレチナだった。118といわれる初期のものだが、畳まれたそのスタイルは夏原も好きでこの後に出た機種のクロームメッキのものを一台持っていた。
「また、シブいカメラで撮られているんですね」
「私はこれが好きなんですよ。最新のデジタルカメラにはまったくついていけません」
「金属でできた無機物でありながらなぜか生き物のように訴えてくるものがありますよね。ボクも一台あります。それはデジタルカメラにはまったく感じられないです」
「モノとしての魅力ですよ」
被っていた中折帽をとって老人は言い放った。
「今の時代これに似たものばかりです。これも老人の戯言ですかね」
自虐的に笑った。
「ジャズはお好きですか」
「昔はよく通いました。渋谷の百軒店にいくつかありましたからね。新宿にも通いました。それから神田。あの頃は植草甚一さんなんて異色のジャズ評論家がいましたからね。その頃よく聴いたのがエリック・ドルフィーです」
「それじゃ、これをかけましょう」
レコード棚から『エリック・ドルフィー ・メモリアル・アルバム』を抜き出した。
「あっ、ドルフィーのファイブスポットものは野毛のジャズ喫茶でもよくリクエストしましてね。これはあまり聴く機会がなかったのでちょうど良かったです。あの店主の顔が浮かんできました。しばしその時代に浸りますか」
老人は嬉しそうとも悲しそうともつかない顔つきになった。レコードが回転すると目を瞑った。B面の『ブッカーズ・ワルツ』がかかると息をもつかせない熱い音のうねりに身を投げているかのようにみえた。マル・ウォルドロンのソロにかかると頭が軽く揺れだした。
「このマルのモールス信号のようなピアノがなんとも味があって懐かしい」
マルのピアノスタイルに老人の思い入れがあるようだった。
その時、ヒゲ村とヤッサンが連れ立ってやってきた。ヤッサンが老人の前のレチナをちらっと見た。
「二人で銀座のデパートでやってる中古カメラ市に行ってきたんですよ。ヒゲ村はカメラに興味がないんだけどいっしょに行こうと誘っちゃったんです」
ヤッサンが言った。
「実は私も昨日行ってきたんですよ。これはもともと持っていたものですがね。父の形見なんです」
老人はテーブルのレチナに目をやった。
「コンパクトでカッコいいですね。今日も何台か出品されていました。これが戦前のものだなんて。ボクも一台欲しくなっちゃった。クラシックカメラ沼に足を踏み込んでしまったのかな」
「ヒゲ村はその心配がないよな」
夏原が言うと、
「レコードだけでいっぱいいっぱいなのに。そもそもオレは写真を撮らない人間だからまったく心配なし」
いつの間にか、トミーとディックが目を覚まして皆のところに出てきていた。ヤッサンの声がしたのでエサを持ってきてくれたのを知っているのだ。それを見て老人はおっという顔をした。レチナの蓋を開けフィルムを巻いてレンズを猫に向けた。続けざまに2、3カットほどシャッターを切った。
「猫がいるとは知りませんでした。好きでね。いると写したくなるんですよ。飼っていた猫はいなくなったしこうやって外で撮るのが楽しいんです」
撮影が終わるのをみて、ヤッサンはトートバッグから猫缶を取り出した。
「やってもいいですか」
夏原が二つ皿を出してきた。缶を開けてヤッサンが入れてやると、2匹の猫がムシャムシャとうまそうな音を出した。
「今度来る時に写真を持ってきましょう。うまく撮れているかわからないですがね」
老人が笑いながらパチッと音をさせて蓋を閉めた。
「いつでも気の向いた時においでください。ジャズを鳴らすだけのこんな店ですが」
夏原も笑顔で応えた。
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