Scottie (Prestige) / SHIRLEY SCOTT
今日はヒゲ村もスミちゃんもまだ来ていない。来るべき人が来ていないこの空虚感は何だろうと夏原は思った。いるのが当たり前のような感覚でいた自分に気がついた。これは戒めなければならない。表を見ると薄暗くなりかけている。かけているレコードもしっくりと耳についてこない。いい歳をして寂しくなった。そんな自分に苦笑するだけだった。その時ドアが開いた。
「夏原さん、ハンコお願いします」
郵便局員だった。
「いいのかかってますね。マルの『レフト・アローン』でしょ。聴いていきたいけど勤務中なんで」
「休みの時にでもいらっしゃいよ」
夏原は伝票にハンコを押しながら言うと、局員は笑って頷き出て行った。なにしろドアを開けて入ってきた今日初めての人だった。客でなくてもちょっとした会話で気が紛れるものだと思った。
「ジャズ好きの郵便局員か」
と呟いた。先ほどの平べったい四角い包みの発送人を見るとなんとヒゲ村だった。開けるとやはりレコードだった。走り書きの手紙が同封されていた。
—実は今信州の松本にいるんですがあったんですよ。前からマスターが欲しがっていたシャーリー・スコットの『スコッティ』が。それもオリジナルですよ。おまけに格安で。まさかこんな土地のレコード屋で見つかるなんてね。だからすぐ送ったってわけ。オレがなぜここにいるかと思ったでしょ。それは帰って話すのでお楽しみに。もう二、三日してから東京に舞い戻ります—
昨日は休業日だったので一昨日に店から帰った後、行ったのだろうと思った。そんなことは言っていなかったので、急なことで行ったのだろう。店に来てから理由は話すなんて、勿体ぶったことに書いていたがそれはそれで待つことにした。
ジャケットを開けるとボール紙の隙間からアメリカのにおいがした。国内盤にはないあの時代にしかないにおいだ。ジャケットの端にコーヒーのような液体がかかった茶っぽいシミができていたが、盤はきれいだった。ヒゲ村に感謝した。何気なく言ったことなのにそれを覚えていた。頼んでもいなかったのにその心遣いが嬉しかった。分厚いレコードをターンテーブルにのせてみた。B面の『プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥー・ラブ』と『チェリー』が聴きたかった曲だ。この二曲はがハモンド・オルガンとピアノを同時に弾いている。昔どこかのジャズ喫茶で聴いたのが印象に残っていたからだ。国内盤が出ていないと思われ手に入れることができていなかった。
今新たにスコットの異才ぶりに感心した。弾いている状況を想像してみた。ここでは、オルガン単独の時と違ってピアノをサポートするリズム楽器のように弾く部分もある。ユニークなサウンドを生みだしていた。録音が1954年だからこの時代に女性ながら面白い試みをしていたものだ。オルガンという楽器は本来ジャズ向きではないかもしれないが、スコットのこのような工夫は評価したい。
それにしてもヒゲ村は思いがけないことをやる男だと夏原は今更ながら思った。いきなりレコードを送ってきて驚かせるなんて。ヒゲ村らしいと言えばそれまでだが。
夏原はヒゲ村が初めて店にきた時のことを思い出していた。十二、三年前だろうか。ふらっと初めて店に入ってきたのだった。その頃はヒゲを生やしていなかったが、なんとなくとっつきのいい感じの若者だと思った。注文してから少し店内を見回していたが、程なく夏原に言ったのだった。
「ここでアルバイトをしたいんですが」
「うちは今のところ自分一人で充分なので募集してないんです」
夏原がそう返答すると、ニコッと笑って
「わかりました。その時がきたらぜひ声をかけてください」
「気長にね」と夏原も笑った。
それ以後もアルバイトは不要なままだったが、客として毎日のように来だした。よほど店を気に入ってくれたのか近くのアパートに引っ越してきたことを後で知った。そんな縁がきっかけでいままで続いている。電車賃がもったいないから引っ越してきたと言っていた。こんなところもヒゲ村らしい。
夏原は今では内心こう思うようになった。いつか自分にも体力の限界が来るだろうから、その時にはヒゲ村に店を継いでほしいと。この店を気に入っているヒゲ村ならOKしてくれるに違いない。そう思うとなんとなく気が楽になった。
閉店の時間になった。今日はスミちゃんも来なかった。初めての客が少し前に一人来ただけだった。しかし、夏原はなぜか晴れ晴れとした気持ちになって店を閉めた。
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