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TeaCupより>国友一貫斎(国友藤兵衛)

2022-06-18 21:29:48 | 自然科学

2020/3/27  19:08 「国友一貫斎(国友藤兵衛)」

 

江戸の「飛行機」設計図 発見 - Yahoo!ニュース〕
23:41 - 2020年3月28日〕 

日本最古の飛行機設計図とは… 江戸時代の科学者、国友一貫斎の生家から冊子発見 滋賀(毎日新聞) - Yahoo!ニュース〕
23:42 - 2020年3月28日

江戸時代の「飛行機」詳細図面見つかる 滋賀 長浜 NHKニュース
23:51 - 2020年3月28日


 「平賀 源内(ひらが げんない)」
1728年(享保13年)生まれ、
1780年1月24日(安永8年12月18日)没

〔ジョージ・ケイリー(George Cayley)〕
1773年12月27日(安永2年旧暦11月)生まれ、
1857年12月15日(安政4年旧暦10月末または11月)没


伊能忠敬〕(1745~1818)
二宮尊徳〕(1787~1856)


国友 一貫斎(くにとも いっくわんさい)、九代目国友 藤兵衛(~とうべゑ)」
1778年11月21日(安永7年10月3日)生まれ、
1840年12月26日(天保11年12月3日)没

オットー・リリエンタール(Otto Lilienthal)」
1848年5月23日(嘉永元年春)生まれ、
1896年(明治29年)8月10日没

二宮忠八(にのみや ちゅうはち)」
 1866年7月20日(慶応2年6月9日)生まれ、
1936年(昭和11年)4月8日没

ライト兄弟(Wright Brothers)〕
ウィルバー・ライト(英: Wilbur Wright)
1867年4月16日(慶応3年3月12日)生まれ、
1912年(明治45年)5月30日没

オーヴィル・ライト(英: Orville Wright)
1871年(明治4年)8月19日生まれ、
1948年(昭和43年)1月30日没 

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 前後一覧
〔2020年(令和2年)3月 [2]〕

関連語句
平賀源内
ライト兄弟

参照
▲日清戦争、日露戦争〕 - teacup.ブログ“AutoPage” 
 

AmebaBlog>『1866年(慶応2年)末から1867年(慶応3年)初めまで、陰暦と陽暦対照表
AmebaBlog>『1867年(慶応3年)末から1868年(慶応4年)初めまで、陰暦と陽暦対照表
AmebaBlog>〔国友藤兵衛、18~19世紀の飛行技術研究家


時代劇の水戸黄門は何歳か(徳川光圀の年齢)…1

2019-05-23 09:58:00 | 延宝~貞享~元禄~宝永~正徳、綱吉前後
Y!Blog
2012/9/7(金) 午後 2:13
時代劇の水戸黄門は何歳か(徳川光圀の年齢)…1

TBS系列、ナショナル劇場の「水戸黄門」は、2代目水戸藩主・水戸光圀こと徳川光圀(1628~1700)を主人公とする時代劇だった。番組は1969年から2011年まで42年間放送されたが、劇中で描いていたのは光圀が1690年(元禄3年)に隠居してから1700年(元禄13年)に没するまでの10年間であり、劇中の光圀の年齢は数え年63歳から73歳までの間である。

「水戸黄門」では光圀晩年の10年以内を描いているため、「水戸黄門」終了の際にあった「水戸老公が42年の旅を終えた」というような表現は誤りである。
また、「史実」では光圀は1661年(数え年34歳)から1690年(同63歳)までの約30年間、水戸藩主を務め、隠居して10年後に没したので、藩主時代と隠居時代を合わせると40年弱、34歳から73歳までになる。その間、光圀は水戸と江戸の往復と同時に、鎌倉や日光、銚子、勿来(なこそ)、熱海などに足を延ばしたらしい。だから藩主時代と隠居時代を合わせれば、光圀は40年旅したことになる。
しかしドラマの「水戸黄門」で光圀の藩主時代が描かれたのは回想シーンを除くと石坂黄門第1シリーズ、第29部の第1話のみのようであった。作品のほとんどは光圀が老齢に達した後の10年間だけを描き、それで放送が足掛け40年も描いた。その時間軸上の意味でもこの番組には無理があり、限界に来ていたと言えよう。
ここで時代劇「水戸黄門」における光圀の年齢を検証してみる。

第1部(放送期間:1969年8月4日~1970年3月9日)
既に光圀(演:東野英治郎)は隠居しており、第2話「人生に涙あり」で光圀が藤井紋太夫(演:佐藤慶)を手討ちにしているので、おそらく元禄7年11月23日。和暦の元禄7年の大半は西暦1694年に相当するが元禄7年11月23日は陽暦で年明け後の1695年1月8日。この時期の光圀は元禄7年の数え年で67
www.cal-net.co.jp/mito/mito_01.html

東野英治郎は1907年生まれで、1969年には62歳になっていた。光圀の役を降りた年には75歳になっていた。東野英治郎は1994年に87歳の誕生日を前に他界した。

第2部(放送期間:1970年9月28日~1971年5月10日)
第33話「お犬さま罷り通る(江戸)」(第2部の最終回)で生類憐みの令の弊害が目立ち、光圀が弥七(演:中谷一郎)に命じて犬の皮(画面で見ると1匹分)を調達、柳沢吉保を通して将軍・綱吉に献上し、抗議の意を示した。
実際に光圀がそういうことをしたかどうかは意見が分かれるようだが、鈴木一夫「水戸黄門の世界」87ページによると元禄6年の12月に光圀が犬20匹分の犬を将軍に贈ったという噂が以前からあり、その噂のもとは元禄6年12月、綱條が從三位参議に昇進して将軍に「時服廿」を献上したことらしい。
元禄6年説を採用すると綱吉に犬の皮を送った光圀は数え年66
なお、元禄6年は大体西暦1693年に相当するが、元禄6年12月の場合、陰暦と陽暦の年明けの時期の差により、陽暦では1694年初めになっていた可能性がある。
www.cal-net.co.jp/mito/mito_02.html

第3
部(放送期間:1971年11月29日~1972年6月5日)
弥七が風車を投げつけた相手が、その風車を使って霞のお新(演:宮園純子)の父・仁平を殺害。お新は弥七の妻になる前で、弥七を父の仇と誤解する。弥七と八兵衛が仁平の墓に墓参。この墓から仁平は元禄3年(1690年)9月8日56歳没とわかる。当時光圀は63で、時代は光圀が隠居した年に戻っている。
しかしこのシリーズでは小笠原佐渡守が老中になって、水戸まで光圀に挨拶に来ており、小笠原の老中就任は元禄10年(1697年)で、光圀数え年70の時の出来事なので、この時点で時間軸の前後関係が破綻している。
www.cal-net.co.jp/mito/mito_03.html
 
第4部(放送期間:1973年1月22日~9月17日)
越後騒動(1679~1681)から14年後。すると1693年から1695年なので、光圀66歳から68までの時期。水戸から江戸に来た光圀が八兵衛に「どうじゃ、江戸も2年見ない間ににぎやかになったじゃろ」と言っていた。光圀自身が2年ぶりに江戸に来たのか、それとも八兵衛が2年ぶりに江戸に来たのかよくわからないが、もし光圀にとって江戸が2年ぶりだったとすると、1692年以降であるから計算が合う。
なお、2010年10月11日放送の第42部第1話「お前は助さん俺は格さん」では光圀は1691年に江戸を訪れたことになっている。
第1話で光圀が松尾芭蕉の「おくのほそ道」の本を所持していた。芭蕉の「おくのほそ道」の旅は光圀隠居の前年、1689年であった。
www.tbs.co.jp/mito/mito4
www.cal-net.co.jp/mito/mito_04.html

第14
(放送期間:1983年10月31日~1984年7月9日)
西村黄門第1シリーズ。第27話「殿様を泣かせた娘(勝山)」では勝山(福井県)の藩主が変わって2年後という設定。小笠原貞信が1691年から1701年まで藩主だったので、該当するのは1692年または1693年。光圀隠居の2年後か3年後なので、光圀は65歳か66

西村晃は1923年生まれで、水戸黄門役になったのは還暦の時。降板は69歳の時で、1997年に74歳で没している。

第28部(放送期間:2000年3月6日~11月20日)
佐野黄門最終シリーズ。初代弥七は中谷一郎の高齢のためか前の第27部を最後に降板しており、光圀(演:佐野浅夫)のお供は助三郎(演:あおい輝彦)・格之進(演:伊吹吾郎)・お銀(演:由美かおる)・飛猿(演:野村将希)・八兵衛(演:高橋元太郎)のみである。
第17話「暴れん坊は紀州の若様(京都)」で後(のち)の徳川吉宗が登場し、茂山逸平が演じた。劇中では吉宗の名前が「新之助頼方(よりかた)」で、吉宗は1696年の元服時に「源六」から「頼方」に改名したらしいので、第17話の時代設定は1696年よりも後(あと)になるはず。
光貞が紀伊藩主だったのは1698年までなので、時代は1696年から1698年までの2年間に絞られる。光圀の年齢は69歳から71歳まで。
ただし第38部の例にみられるように劇中で吉宗(新之助、源六、頼方)の名乗る名前がそのまま「元服前か後か」の目安になるとは限らない。

「水戸黄門」では悪い金貸しが付き物で、借金の証文がよく出てくる。第28部の第20話「浪花娘のうな丼勝負(大坂)」も同様で、証文の左端の文末をよく見れば元禄何年か特定できたかも知れないのだが、映るのは一瞬であるし、こういうシーンを全部チェックすることはなかなかできない。「水戸黄門」はどのシリーズでも借金をしている側は善人で、借金棒引きが善行という価値観が貫かれていた。(佐野浅夫は『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で借金を返さずに踏み倒している男を演じていた)。

第28部第23話「最強の敵現る!危うし白鷺城(姫路)」で姫路の若君が誘拐される話がある(もちろん助・格・飛猿・お銀の働きで救出された)。藩主は光圀(演:佐野浅夫)の甥・本多忠国(演:中島久之)で、若君は忠国の息子であるが、忠国の後を継いだのは三男の忠孝で、忠孝は1698年生まれ。光圀没年で忠孝はまだ3歳。だから劇中の若君は忠孝でなくその長兄か次兄(忠国にとって長男または次男)と思われる。
第28部第24話「恋した人は謎の隠密(赤穂)」は元禄赤穂事件の少し前の赤穂が舞台で、赤穂が塩の作り方を秘密にする余り、他国からの来訪者を片っ端からとらえてよくに調べず処刑するなど、赤穂が滅茶苦茶をやっていた。赤穂の塩の作り方を探るため吉良から使者=密偵(演:舟木一夫)が来ていた。大石内蔵助(演:横内正)は善人だが部下の悪事に気付かなかったという設定。
松の廊下の事件の何年前かはわからなかった。
なお、里見黄門になってからは、第42部第15話「内蔵助殿、助太刀致す」(2011年1月31日放送)でも赤穂が舞台となっており、 市川右近が大石を演じた。


西暦と元号、天明から大正まで、対照表

2019-03-29 23:25:00 | 歴史全般、元号
吉良上野介は1702年没か、1703年没か。 は1827年誕生か、1828年誕生か。坂本龍馬は1835年誕生か、1836年誕生か…というような問題。

Y!Blog>陰暦の元号と陽暦の西暦
2018/1/13(土) 午後 2:46


 【画像】西暦と元号(天明~寛政~享和~文化~文政~天保)

【画像】西暦と元号(天保~弘化~嘉永~安政~万延~文久~元治~慶応~明治)

【画像】西暦と元号(明治~大正)


前後一覧
2019年3月

関連語句
元号 西暦 陰暦 陽暦
元号 画像(新着順)
元号 画像(投稿順)
対照表 画像[1] [2] 
天明 西暦 文政 西暦<画像>(twitter)
#西暦昭和平成<画像>(twitter)

参照

 


嘉永と安政、慶応と明治

2015-06-07 17:32:00 | 幕末
昭和64年生まれは実質「平成生まれ」か。
似た問題で明治改元前の「慶応4年(1868年)」は江戸時代に入るかどうかという問題がある。江戸時代の終わりは1867年(慶応3年)か1868年(慶応4年、明治元年)か。「必殺からくり人血風編」は大政奉還後の日本が舞台だった。
tweet

日本人が「江戸時代」を英譯する場合、外国人に解り易いようにEdo Pediod(1603~1867)のように年号を附記するのが親切だ。では終わった年は1867年か1868年かという問題が出て来る。
tweet

更に陰暦と陽暦で年明けの時期が違うと面倒で、例えば嘉永7年は1854年に当たり、嘉永7年の11月27日に元号が「安政」になったが、グレゴリオ暦では1855年1月になっていた。安政元年は1箇月程しかなかった。
tweet

▲ハレー彗星、大塩平八郎の乱、蛮者の獄

2008-02-28 15:40:00 | 天保~幕末前夜
1835年ごろ、厳密には1834から1836年までの間に、福澤諭吉(~1901)、天璋院篤姫(~1883)、坂本龍馬(小説、漫画で「~竜馬」、~1867)の三名が誕生。

諭吉と龍馬はいずれも「1835年生まれ」と紹介されることがあるが、陰暦と陽暦の関係で、福澤諭吉が1834年生まれだと、坂本龍馬は1835年生まれ。
諭吉が1835年生まれだと、龍馬は1836年生まれ、つまり諭吉は龍馬より一歳年上だったことになる。
篤姫の生まれた年が陽暦で天保6年(1835年)なのか、天保7年(1836年)なのか、史料によって異なる。

武田鉄矢原作、小山ゆう画『お~い!竜馬』によると、龍馬が生まれたとき(直後か)、夜空にハレー彗星が見えたらしい。ネットで調べると、1835年のハレー彗星接近は11月16日とある。それで、龍馬の誕生は天保6年(1835年)の11月15日なのだが、それは陰暦であるため、陽暦では天保7年(1836年)の1月3日になるらしい。このとき、彗星がまだ見えていたかさだかでない。漫画もネットの史料(資料)も「歴史認識」で、「どちらが「正しい」か、知るのは難しい。

また、『必殺仕事人V激闘編』の「江戸の空にハレー彗星が飛ぶ」で記録された彗星もこれであろう。当時、主水の仲間は組紐屋の竜、鍛冶屋の政、何でも屋の加代、そしてはぐれ仕事人の壱、弐、参で、主水や加代たちは闇の会の傘下にあったはずである。

ちなみに、ハレー彗星がこの次に接近したのは1910年で、ドラえもんとのび太が観測した。

1835年には、あの西太后も生まれた(1908年没)。

1837年、大塩平八郎(←大鹽~、おほしほへいはちらう、1793~1837)の乱があった。「乱」というのは殺し合い、暴動、戦争の言い換えである。
『必殺まっしぐら!』の「相手は大阪の大塩平八郎」によると、この時期、飾り職の秀が江戸と他の各地方を何度も往復して裏稼業(つまり殺人)をしていた模様。仕事人・秀は一時的に中村主水グループから離れて、別の仲間たちと組んでいた。
ネットで検索すると時代設定は乱があった年の4年前、1833年(天保4年)だったらしい。DVDが手に入ったら確認したい。
Yahoo!Japan必殺まっしぐら! 天保4年 大塩平八郎で検索

この年、徳川家斉が将軍を辞め、家慶(いへよし→いえよし)が12代将軍に。

1839年、蛮所の獄により、高野長英が投獄された。小関三英は自害。『必殺からくり人』の「鳩に豆鉄砲をどうぞ」によると、からくり人の一人・時次郎が、蛮社の獄で自害した蘭学者の仇討ちのため、高所から鳥居耀蔵を銃で狙ったが、弾道に鳩が侵入して失敗。自ら爆死する。残ったからくり人一味も最後の戦いで全滅したかに見えた。

しかし、仲間の仕掛の天平はしばらく生き残った模様。そして、『仕事人大集合』によれば、天平は虎の元締めとともに大坂(→大阪)で爆死したらしい。これは主水の元締めだった鹿蔵が江戸で殺害され、その仇を討つ仕事だった。

主水の仲間・勇次が敵の手に捕らえられ、棺桶の錠によって救い出された。このとき、『必殺仕置人』時代の仲間だった主水は錠と再会したはずだが、作品では描かれていない。錠はバタビア(Batavia、当時、オランダ領だったインドネシアのジャカルタ)に行くと言っていたが、すぐ日本に戻った模様。マリアというオランダ人女性が関係しているが、これは1819年に主水たち仕事人が出逢ったオランダ人と同名のようだ。

追加
『必殺からくり人』で時次郎が鳥居耀蔵を狙撃して失敗した時、鳥居は町奉行になっていたようである。
もし、そうだとするとからくり人壊滅は1841年以降になり、中村主水は既に南町の同心として鳥居の配下にいたことになる。

前後一覧
2008年2/28(文化・文政~アヘン戦争、天保の改革開始)

関連語句
ハレー彗星 平八郎 蛮社の獄