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『水戸黄門』第43部第14話「母ちゃん探して伊勢参り」

格之進が腹痛で休み。印籠を光圀に渡し忘れていた。
クライマックスで光圀と格之進が印籠の代わりに葵の紋の描かれた紙を出した。

元禄辛巳
法隆寺宮剣先各一体
徳川綱吉


光圀存命の時代で辛巳の年は1641年(寛永18年 )または1701年(元禄14年)である。
1641年は光圀が藩主になる前で、家綱が生まれた年であった。当時の将軍は家光。

元禄の辛巳の年は1701年だけで光圀はすでに他界していた。

この書状が描かれたのは劇中の設定から50年前か?
綱吉が生まれたのは1646年2月23日(正保3年1月8日)で丙戌の年。

第42部で松平頼豊が12歳とすると1691年で辛未の年。
1692年は壬申、1693年は癸酉の年。

1688 元禄元 戊辰
1689 元禄02 己巳
1690 元禄03 庚午 光圀隠居
1691 元禄04 辛未 第42部第1話はこの年の設定
1692 元禄05 壬申
1693 元禄06 癸酉
1694 元禄07 甲戌
1695 元禄08 乙亥
1696 元禄09 丙子
1697 元禄10 丁丑 第38部第9話「敦賀」はこの年の設定
1698 元禄11 戊寅
1699 元禄12 己卯
1700 元禄13 庚辰 光圀没
1701 元禄14 辛巳

山田奉行が岡部駿河守と呼ばれており、調べると岡部勝重のようである。
在職期間は1684年から1696年。
大岡忠相より6代先輩だ。光圀隠居のとき、大岡忠相は從兄の起こした刃傷事件の連座で閉門の処分を受けており、徳川吉宗は松平頼方と名乗っており、綱吉に謁見。
なお、『水戸黄門』第38部第9話では元禄丁丑年に光圀が敦賀を訪問しており、同じ第38部の第5話では光圀は紀州で頼方と会っており、劇中では寄り方はまだ「源六」を名乗っていた。

ちなみに元禄辛巳年の山田奉行を調べると、この年に浅野長恒から堀利喬に交代している。
劇中の山田奉行・岡部勝重(推定)は吉宗の生まれた1684年に就任し、元禄丙子年(1696年)まで山田奉行だったようだ。

光圀は印籠なしで伊勢神宮に参拝し、葵の紋の症状を受け取ったとすると、伊勢神宮で光圀は顔を観せるだけでわかってもらえる「顔パス」だったのか?

水戸光圀 西山荘  【水戸黄門】43部で“珍”紋所シーン登場!光圀公自ら!!…
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