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資本主義の精神。

2006年11月30日 00時02分28秒 | 思想

こんにちは。

ここ最近の寒暖の差のため、急激に体調を崩してしまいました。
ビジネスパーソンにとっては体調管理も自分という商品の信頼性を損なわない要件の一つですから、まだまだ修行が足りないといったところでしょうか。
反省です。
皆さんも身体に気をつけて下さいね。

さて、今日は少し毛色の違う記事を掲載しようと思います。
当ブログの記事を書き上げる際には、万人向けを前提として、可能な限り字数を削り簡潔かつ平易にまとめるよう心がけています。
その両方を実現するため、しっかりした構文を行わず、殴り書きしたものを修正してそのまま掲載記事としています。
この手法であれば、ポイントだけがまとまり字数を制限し易く、また膨大な記事の作成時間を削減することができるからなのですが、時として取り上げた題材の内容の濃さや管理人の力不足により平易にまとめ切れないことがあります。
今回の記事はそういった『とっつき難さ』があるかもしれませんので、予めご了承下さい。


私には、人生を通して、その一生という決まった期間の大半を占有する一つの命題(真偽を問いうる有意味な文)があります。
それは・・・

プロテスタンティズムの倫理観を宿し、完全に自己の行動様式としてしまえば、利益を最大化できるという意味で合理的で的確な判断を下す経営者に成り得るのか?

・・・というものです。

その命題の根拠となったものが、社会学・経済学の大家マックス=ヴェーバーの、あの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。
この場合、『プロテスタンティズムの倫理観を宿す』ということは、クリスチャンになるということを意味するものではなく、『プロテスタンティズムの中に含まれる、資本主義社会で効率的な経済活動を行うための合理性・最適性のみを抽出できるか』ということを意味しています。

プロテスタンティズムとは、16世紀末にヨーロッパで広まった、教皇位の世俗化や聖職者の堕落などへの信徒の不満に呼応する形で、マルティン・ルター宗教改革の影響下で生まれ、オランダやイギリス、アメリカなどで盛んになった反カトリックに位置するキリスト教の一派です。
このプロテスタンティズムの信者が、いわゆる『プロテスタント』と呼ばれるファンダメンタリスト原理主義者)の人々になります。
ルターを起点としたプロテスタンティズムは、やがてジャン・カルヴァンの手を経て、教会制度の改革へと移行していきます。
カルヴァンの思想は、聖書に立ち返り、その教えのみを厳格に守る福音主義に立脚する(総じて『カルヴィニズム』とも言います)、言うなれば『キリスト教原理主義』とでもいうべきものです。

ヴェーバーは、このキリスト教の一派と宗教改革の流れが資本主義社会を生み出したと考えました。
その理論は以下のとおりです。

オランダ、イギリス、アメリカなどカルヴィニズムの影響が強い国では合理主義や資本主義が発達し、イタリア、スペインのようなカトリックの国では資本主義化が立ち遅れていました。
こうした現象は偶然ではなく、資本主義の「精神」とカルヴィニズムの間に因果関係があるとヴェーバーは考えました。

ヴェーバーによると、次のようになります。

世界史を変えた天才ジャン・カルヴァンが現れた時代、ローマ教会は堕落を極めていました。
中世のヨーロッパにおいては商人が財力を背景に国王と蜜月関係にあり、貨幣経済に移行しつつあった当事の社会では、農奴を使役することにより自給自足の生活を送っていた諸侯(貴族)を尻目に国王の権力は増大され始めていました。
また一方、この時代の教会は、精神的支柱としてヨーロッパの広範囲に渡って強い影響力を持っていましたが、貨幣経済の発展は教会にとっても鼻持ちならない状況であり、教会側も貨幣の獲得を目論み、いわゆる免罪符などの販売を始めます。
これを真っ向から批判したのがジャン・カルヴァンでした。

この憂慮すべき教会の腐敗に対し、カルヴァンが聖書を徹底的に研究することで体系化した神学思想を『予定説』と言います。
この予定説では、人間が何をしようが救われることはないと説きます。
その人が神の救済の対象になるかどうかは、予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないというのです。
例えば、教会にいくら寄進をしようが、いくら人の命を助けようが、救済されるかどうかには全く関係がありません。
これは完全な存在である神の意思を、不完全の塊である人間ごときの意思や行動で左右することはできないということを意味しています。
救済されるのは神によって予め選ばれた特定の人に限定され、救済の対象に選ばれた者は罪を犯さない、もしくは罪を犯しても必ず赦されるとされます。
当事、このカルヴィニズムの信者はフランスでは『ユグノー』、イギリスやアメリカでは『ピューリタン』と呼ばれ、呼び名が違っていても根底にあるものは予定説でした。
日本では皆さんもご存知であろう『清教徒』という名前で呼びますよね。

日本人的発想では、『信仰しても救いを得られないのであれば、熱心に信仰してもなんの意味もないではないか』となりますが、信者達にとっては違います。
「神に救われることで神の国へ行くのに神を信じないはずはない。」
「神は万能なのだから他の神を信じるよう人間を生み出すはずがない。」
「神から救われるほどの人ならキリスト教を熱心に信仰するに違いない。」
と、自ら敬虔なクリスチャン像を作り上げます。

結果、神に救済対象として選ばれるような人物であれば、それに見合うだけの生き方をしている人間に違いないという逆説的な捉え方から禁欲的・奉仕的労働に励むことによって社会に貢献し、この世に神の栄光を顕すことによって、ようやく自分が予め救いの手を差し伸べられている選ばれた人間なのだと確信を持つことができるようになります。
更には、その禁欲的・奉仕的労働における『仕事』でさえ、神により予め決められ与えられた神聖なものであるという意識を持つに至り、これが『天職』という考え方に繋がることになります。
また、その神から与えられた神聖な仕事をより公正に行うために、今まで相手によってコロコロと変更していた商品の価格を一定額に取り決める『定価』の発想も生まれました。
これらの心理動向とそれに付随する様々な行為のプロセスと結果の中で、救済に関わる以外の事柄はそぎ落とされ、自己に約束された救済の証明活動(労働)への合理性が磨き上げられます。
かくして予定説は爆発的に普及するに至ったのです。

このような職務遂行の精神や合理主義は、近代的・合理的な資本主義の「精神」に適合していました。
禁欲的・奉仕的労働によって蓄えられた金は、禁欲であるがゆえに浪費されることもなく、再び営利追求のために使われることになります。
丁度、企業が事業で得た資金を、事業拡大のために更に投資していくように。
ここでいう営利追求で得た金は、言ってみればゲームのスコアの様なもので、自己の社会貢献的労働を採点する目に見える結果でしかありません。
こういった禁欲的・奉仕的労働をヴェーバーは『行動的禁欲』と呼んでいます。

このようにプロテスタンティズムの信仰が資本主義の発展に作用しましたが、近代化されるに比例して信仰が薄れてゆくと、営利追求自体が自己目的化するようになりました。
予定説を信じることによる内からの動機による行動の結果であった営利追及が、外圧的動機に変貌していき、蓄積を目的とする富の獲得から、消費を目的とする富の獲得にシフトしていきます。
最終的には営利追求のために手段すら選ばなくなります。
それは予定説という健全性の砦が喪失されたことを意味しています。

このヴェーバーの思想から言うと『富を得る最も効果的な方法は、富を得たいという欲を持たないことだ』という推論を導き出すことができます。
富を得るためには、営利追求から再度、奉仕的労働自体を自己目的化することが重要になるからです。
この点から考えると、『企業の使命は価値を創造し、お客様にその価値を提供することで豊かな社会作りに貢献することである』というお決まりのフレーズは、偽善的であるどころか、富を得る最も合理的な理念であると考えられ、信仰に似たものを感じます。
これは資本(富)を増加させることで事業の規模の拡大や信頼を醸成する経営者や起業家にとっての単純明快な一つの答えではないでしょうか。
辿りつく結果は単純であったとしても、その思考のプロセスが私には宝の地図に見えるのです。


結論、私には資本主義社会の諸要素と原点がプロテスタンティズムに包含されているのであれば、逆にそこに回帰することで資本主義社会の申し子に成りえるのか、そしてそれが結果として正しい(曖昧な表現ですが)判断であるのかを身をもって知りたいという思いがありました。

ただ、そもそもが神との契約ありきではない多神教信仰が根付く日本にあって、構造的に完全な欧米型の資本主義を想定してはいけないのでは…という根本的な疑問も浮かびます。(実際に日本は半社会主義とも言われます。)
日本では構造としての資本主義(らしきもの)が存在するだけで、下地としての一神教は存在しません。
ですので、一概に欧米と同一の形・条件でその構造が稼動しているとは言い難く、特異な変形が生じていたり、欧米型資本主義の以前から日本型資本主義というべきものの存在の可能性が多分に考えられます。
現に、日本人にとっての『天職』の概念は、神から与えられたものを意味せず、単にその職が自分に適しているかいないか、本人がそう感じられるかどうかの意味合い程度でしかなく、労働自体を自己目的化するにはハンデのある民族的環境であるとも考えられます。
これらのことは、私の食指を民族性の本質を探る文化人類学に向けさせる一つの原因になりました。

そうであっても、このプロテスタンタィズムの倫理に見られる合理的思考は一つの普遍的な真理ではないでしょうか。
資本主義という社会構造の一部を構成する一人の人間と、その一人の人間が効率的に利益追求を行うためのツールである企業、その二つの『一部』たちが保持する『資本主義という暴れ馬の手綱を握ってやる』というある種の野心を実現可能にするため、プロテスタンティズムが『資本主義構造内の国境を越えた普遍的共通事項に対する一つの答え』になることに期待を抱き、自己の行動を律する基準とすべく、日々の営利活動とそれとの適合性に目をこらしているのです。


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管理人:法務屋(mailto:legal-affairs-shop@hotmail.co.jp
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