12・8・11
書き写すこと
岸武雄他著の視写聴写朗読を核とする「文学の授業」は特に面白い。
書き写すことを視写の言葉を与えている。
亀井勝一郎はフランスの教育者アランを紹介し、
徹底的な素読、筆写、模倣の必要性を繰り返し述べている。
石川啄木はクロポトキンの著書を一冊丸ごと書き写したノートが函館図書館に保管されている。
このノートを見て亀井勝一郎は感動している。
貧乏な彼は、原書を買う金もなかったのであろう、誰かからこの本を借りて、筆写したのであろう。
盛んな知識欲と忍耐力が無ければできない。亀井勝一郎はこのように紹介している。
原書を買う金が無かったから筆写した、と云うのはチョッと外れているような気がする。
もっと積極的に書き写すことの意義を感じていたに違いない。
それより、啄木のそのノートを見て感動的だった、と云う。
その時の啄木の思い、情熱がノート全体から醸し出されているのであろう。
江戸時代の寺子屋は読み書き算盤を教えたが、
読み書きを中心に教えた寺子屋が多くを占めるらしい。生活に必要な事だけではないらしい。
字を習う、習字以上に書き写すことを大切にしたのであろう、
書き写すことを手習い、と云う。
「学ぶ」を語源辞典で調べると、
教えを受ける、勉強する、元来は真似をする、の意を表している。
学ぶとまねぶ、の前後関係は明らかではない。