幼い頃に母と引き離され、父親は顔も知らない。17歳のマイケル・オアー少年は、友人、知人の家を転々とし、ホームレス同様の身だった。
しばらく世話になっていた家の息子と共に、彼の父親に連れられてきたあるクリスチャン系の高校に、マイケルも入学が認められる。学力レベルは最低基準に達してないにもかかわらず、彼の大きな体躯に似合わぬ俊敏な動作がアメフトコーチの目にとまったからだった。まったく授業にもついて行けず、寡黙なまま孤立しているマイケル。“ビック・マイク”は白人中心の生徒の中でも浮いていた。
インテリア・デザイナーのリー・アン・テューイは、パワフルでいつでも強気、しかし人の苦境をほおってはおけない女性。ファーストフード店87店舗のオーナーでありながらも、気さくで親切な夫のショーン、可愛い娘のコリンズ、生意気で一家のマスコット的な息子SJ(ショーン・Jr)の4人家族。裕福でいわゆるセレブリティな家だが、暖かく愛情あふれる家庭だ。
感謝祭の前夜、凍えるような夜の道を半袖短パンでとぼとぼ歩く大柄な黒人少年を見たリー・アンは、それが子供たちの学校で見かけた“ビック・マイク”であることに気付き、車を夫に止めさせ家に連れ帰る。一晩だけの暖かい寝床を与える、そのつもりだったが、彼が何かしでかさないかという不安は隠せない。
しかし、翌日。寝かせたソファの上のきちんと畳まれ整えられたシーツ類をみつけ、さらに黙って出ていこうとしたマイケルを呼び止めるリー・アン。
感謝祭の食事を一緒にとり、そのままマイケルはテューイ家に留まることになる。
体の大きさにそぐわず、物静かで控えめなマイケルに惹かれたリー・アン。そして常に協力する夫ショーン。子供たちも両親に従い、マイケルを家族同様に受け入れる。
学力は最低。しかし能力検査で身体能力の他に、唯一つ高い数値が出たと教師から説明される。それは特出した“保護本能”だった。
彼が、アメリカンフットボールにおけるエースであるクオーターバックの、死角を守るレフトタックルにふさわしい条件をすべて兼ね備えてると気付いたリー・アンは、マイケルをその道に進ませるよう導きはじめるのだった。
これは一見アメリカン・ドリームそのものの話だ。恵まれない黒人少年が親切で裕福な白人一家のサポートを受けて、才能を開花させ、恩返しをする。
それだけなら、陳腐で魅かれない話だろう。
しかし肝心なのは、それはこれが完全な実話であり、しかも現在進行形の実在する人たちの話だということ。
そして、もう一つ。実はこちらの方が大切なのだが、“与える者”と“施される者”ではない“与えあう人の繋がり”をも見せているというところだ。
いくつか感想や評を読んだのだが、あまり馴染みがないアメフトはもとより、そこにはアメリカ南部テネシー州の黒人と白人の問題や、キリスト教的博愛、慈善精神と、さらには共和党員と民主党員、母校愛や白人の“ホワイトギルティ”なども根底にあるので、そこを突っ込んでいくとかなりややこしくなる。
ホワイト・ギルティというのは、白人が黒人に対してかつてした事に大して罪悪感を抱くことだという。
けれど映画では、そこら辺はセリフの端々に出しながらも、全体的に見ればわずかなもの。あくまでも暖かく、善意に満ちたテューイ一家と、気の優しいマイケルが家族になっていく様子がメインに描かれている。
だから、うがった見方をすればいくらでも“ネガティブ”な批判は起こりえる。
金持ちの気まぐれの善意が、たまたまビックドリームになっただけでは?
そもそもマイケルに、アメフトの才能がなかったら?
才能があるなしもだが、もっと捻くれた礼儀知らずの少年だったら?
リー・アンとテューイ一家は彼をここまで受け入れた?
彼の気立てのよさが報われたとしても、他に無数にいる打ち捨てられた子どもたちは、それに値しない気質だからなのか。
この映画を見て感化され、真似する者が現れても、そう上手くはいかないだろう。
こんな善意に溢れた家族は、本当にいるのか? 映画のなせる夢では。
etc.
そういう感想もありがちで、全部とは言わずもそのうちのいくつかを上げているのも見かけた。
けれど、そういう感想においても。
結局はこの映画を暖かく、素晴らしい話だと認めているのがほとんどだ。
この世知辛く厳しい世の中で、人は誰でも、人の善意を疑いつつも根底では信じたい気持があるのだと思う。
この世界は、決して捨てたものではない。そんな気持ちにさせてくれる、美談を越えた実話である。
自分のことを語らないマイケルだが、一枚しかないシャツをコインランドリーの水道で手洗いしても、リー・アンの問いに「着替えは持ってます」と言う。
リネン類をきちんと畳み、翌日の感謝祭の食事では、皿に料理を盛ってTV前のソファに集まる家族と離れ、食堂のテーブルにきちんと座り静かに食べている。
小さなことから、リー・アンはマイケルの心映えの良さと、媚びたり卑下したりしない誇りも感じて、彼を信頼するようになる。
部屋を用意すると、初めてですとようやく笑顔になるマイケル。
自分の部屋が?と尋ねると、「ベッドが」と。胸が詰まるリー・アン。
恵まれたテューイ家が思いもしなかった豊かさへの感謝や有難さを、マイケルは教えてくれる存在になっていく。
夫ショーンも様々に意見もするが、妻とマイケルを暖かく見守り、娘も徐々にだが打ち溶け、SJに到っては最初から垣根などなく“兄貴”の世話を焼くのが楽しくてたまらない様子。
家族の協力に後押しされ、リー・アンはマイケルの後見人になることを決意する。
彼の曖昧な生い立ちを追い、他に兄弟姉妹が12人もいることがわかる。母親を探し出し会いに行くリー・アン。父親が様々な子供を沢山産んだマイケルの母は、コカイン中毒だった。
けれど薬におぼれても、荒みきっても子どもへの愛情もない女性ではなかった。マイケルは、里子に出された7つの時から、どこに行っても逃げ出して自分の世話をしに戻ってきたという母。あなたはいつまでも彼の母親ですと言い、自分の家に引き取る話をするリー・アンだった。
マイケルの並はずれた“保護本能”が、家族を守ることから来ていたのだ。
アメフトチームでの練習が始まるも、はじめは気の優しさから相手を跳ね返せず、全く振るわないマイケル。期待はずれだと怒るコーチを尻目に、リー・アンはコートにどんどん乗り込み彼に告げる。
「チーム全体を家族と思いなさい。彼らはあなたの兄弟。クォーターバックを私と思って守って」
そこから、見違えるほど力を発揮しだすマイケル。
チームをリーグ優勝に導き、早くも全米の大学から彼を見つけて引き抜こうとするオファーが殺到し始める。その大学選びで、それまで上手く行っていた彼らにある問題が起こるのだが…
リー・アンは押しつけがましいようでいて、決して強要しない。ベタベタとした世話焼きでなく、きっぱりさっぱりと躾する。マイケルも自分の子供たちと変わらず一緒に。何よりも、その果断さ。実行力、全力を挙げて子を守り育む姿はやはり素敵だ。
キリスト教的博愛精神から手を出したことだったが、実は財力があったからと言って簡単なことではない。彼女も夫も、南部のセレブらしくしっかりと保守党派。つまりブッシュ寄りで人種問題についてもリベラル派ではなかったし、一家を取り巻く階層もリー・アンの友人のマダム達もみんなそうだったからだ。
その中で、黒人の少年を、きまぐれでなく成人まで引き取り、家族にするというのは並大抵のことではないし、あまり描かれていないがバッシングもあったに違いない。
また、マイケルが有名になったことで逆に出てくる批判や噂。夫婦の母校であるミシシッピー大学にマイケルを入れたことで起こる問題。
そこら辺りは、スポーツ界の規定なども絡んできて、知らないとわかりにくいが、見ていれば何となく掴める。
彼女がマイケルと出会ったのは、明らかに二人の中の資質が似ていたからだ。
マイケルの並はずれた“保護本能”は、まさしくリー・アン自身が持つものだった。
鉄の女、旋風のような母であるリー・アンが、体は大きくても寄る辺ない恵まれない少年を見つけ、守ったのではない。才能を見つけたがゆえに、ステージママとして君臨したのでもない。
“人は誰かを守ることで、強くなれる”
その点で二人はよく似ていたからこそ、引き合ったのだ。
彼に与えてるんじゃない、与えられてるのという彼女。
持てる者が、持たざる者に与え、お返しに感謝なり名誉なりを貰うのが相互扶助ではない。
互いが元から持っているものを、互いを見て引き出し合うことなのだ。
大学の件で家を飛び出し、元のスラムで夜を明かしたマイケルを迎えに来るリー・アン。
どうしてここに染まらずに済んだの?、という質問に初めて幼い頃のことを話す。
悪いこと、醜いことがあったら、目をつぶってなさいと母に言われたと。
目を開けたら、そこには良い世界があると。
「逃げたのね」と言いながらも、その母親の精一杯の言葉が、マイケルを守ってきたことを認めるリー・アン。幼いSJに読んであげた『はなのすきな牛』のように。
大きな体で頭付きもせずに、花を見つめていた少年。
そこにある問題から逃げても、結局は向かわざるを得ないときが来る。けれど、厳しいこの世の中で、根底にある“善きもの”に目を向けることも大切なのではないか。
そこにこそ愛情があり、何かの花が咲く土壌ができる。
原題は「The Blind Side」 クォーターバックの利き腕の逆サイド、つまり死角、見えざる側という意味。マイケルのポジションは、その死角を守る守護神たる役目だという。
リー・アンとテューイ一家が、唯の慈善ではない、自分たちの枠を飛び越えたところに手を伸ばし、見えざる側に目を向けそこで自らを守り手としたことは、一人の黒人少年の未来を変え、さらには家族全体に“与え合う”ことの意味を教えてくれた。
マイケルの保護本能による才能が開花したのは、恵んでくれた人たちへの恩返しからではない。
彼の与えられたものが、贅沢な衣食住や教育だけでなく、家族としての心からの愛情、受容であったからこそ、その家族を守る―力が開花したのだと思う。
そう感じさせてくれるこの映画は、とても暖かく心に染みた。
サンドラ・ブロック、サンドラ姐さん。アカデミー主演女優賞おめでとう。
この役は彼女にぴったりだった。
そこには確かにアメリカの母がいた。それも今風の、スタイルもルックスもセンスも良くて、すこぶるつきのパワフルさとリーダーシップを持つ女性。
日本ではさすがに引かれるなと思ったら、リー・アン本人に会ったサンドラ自身さえ、圧倒されたほどのパワーだったそうだ。あんな女性は居ないわとのサンドラ弁(笑)
けれど充分はまって見えた。ご本人にも負けないエネルギーを感じました。
マイケルのことで何か言う奴は、親友の有閑マダムだろうが、試合中にデブと笑うじいさんだろうが、容赦せずカタを付ける(笑) スラムで自分を脅してきたボスの少年にも、「うちの子と家族に手を出したら、ライフルぶっ放すわよ」と逆脅し(^_^;) 口先だけでない、本気だ。
コーチも他の男たちもぐうの音も出ない。
けれど、その強さに隠れた、母性ゆえの揺れや迷いも、サンドラは上手く出してたと思う。
そんな妻を常に見守る夫、ショーン役のティム・マッグロウも好演。
この妻にしてこの夫あり。常に事後承諾で、思い立ったら行動している妻に驚きもせず、焦る時はなだめ、大きな視点から見ている。こんな旦那さん出来過ぎ!とも思うのだが、そこは実在の人だから良く描いて…(笑) でもなく、妻の根底にあるものを掴んでいるからこそ、家庭が円満に行く。伊達にリー・アンみたいな旋風女を妻にしてないのである。
その両親の気持ちと決心は、おのずと子どもたちにも伝わっている。
娘のコリンズは可愛くて年頃。
黒人の大きな男の子を住まわせて大丈夫なのと聞く友人は切り捨てたリー・アンも、娘には気持ちを尋ねる。多少のためらいはあっても、くだらない噂には耳を貸さないというコリンズ。
これも出来過ぎ? 親が決意しぶれずに貫いている姿は、常に子供に安心感と安定した精神をもたらすのだと思う。
その象徴みたいなのが、息子のSJ。フレンドリーで垣根がなく、しかもちゃっかり屋(笑)
リー・アンいわく夫似の彼のおかげで、マイケルは一家に馴染んでいくし、笑顔を引きだされずにはいられない。この子がほんと上手い。まったく向こうの子役って…(笑)
特に、アメフトをまだよく知らない“兄貴”を特訓するシーンと、スカウトに来たあらゆる大学のエージェントを相手に、自分も込みの特典を同意させる交渉をするシーンは大笑いした。
マイケルはほとんど話さず、“弟”が仕切っている(笑)
さすがファーストフードチェーン店のオーナーの息子である。
そして、マイケル・オアー役のクイントン・アーロン。この役がメジャー映画デビュー。
何と言っても表情がいい。多弁ではない役なので、彼の哀しげな顔、やっと見えた笑顔は雄弁だった。そしてどこか、迷える子羊みたいなのだ。いや、「はなのすきなうし」にぴったりな目をしてるのが決めてだったみたいだ。
テューイ一家は確かに富豪だ。でも、いくら金があっても慈善や寄付をしていても、黒人少年を家族の一員として受け入れるところが、そうあるだろうか。しかも未だ差別が残る南部で。
他者に手を差し伸べる、それも真摯に。それができる勇気と決断力、そして暖かい心をもつものに富も加わっていることは僥倖なのだ。ごまんとある富をさらに増やすこと、人を盗人としか見れないものもこの世には多いのだから。
この映画は、善意を施せば見返りがある、でも。
ある幸運な黒人少年のサクセスストーリーでもない。
そんな話なら見ても退屈だ。
たぶん、自分を差しだせる勇気は、ふさわしい相手を引き寄せるという優しくも力強い真理なのだ。
様々な面で過剰で破綻しているアメリカ。暗い面、闇の面は限りなくあるだろう。
でも、ここに描かれた現在進行形の物語は、アメリカの“善きもの”を象徴している。
前向きさ。勇気、家族愛、率直さ、力強さ。
反面、アメリカの闇を見せる作品も多い。
作品賞が人の心にある中毒を戦争を通して描いた『ハート・ロッカー』
昨年、一昨年には『ノー・カントリー』や『ダークナイト』が受賞やヒットを飛ばした。
けれど、今回の作品賞にはノミネートされなかったが、俳優賞のノミネート、受賞をしたのは『インビクタス』『しあわせの隠れ場所』『恋するベーカリー』など、暖かく善なるものの力を見せてくれる作品からが多い。
アメリカは今、真っ二つに分かれているのではないか。それは人の心の中にある、闇と光のどちらをとるかに。
でも、これらの映画を見る限りでは、まだまだ捨てたものじゃないと思う。
ものごとの暗い面、闇の面に焦点を当てることが多い時代だけれど、善き面こそがその影に―ブラインドサイドにあり、そこにはしあわせが隠れてる。そんな希望を願っている。
しばらく世話になっていた家の息子と共に、彼の父親に連れられてきたあるクリスチャン系の高校に、マイケルも入学が認められる。学力レベルは最低基準に達してないにもかかわらず、彼の大きな体躯に似合わぬ俊敏な動作がアメフトコーチの目にとまったからだった。まったく授業にもついて行けず、寡黙なまま孤立しているマイケル。“ビック・マイク”は白人中心の生徒の中でも浮いていた。
インテリア・デザイナーのリー・アン・テューイは、パワフルでいつでも強気、しかし人の苦境をほおってはおけない女性。ファーストフード店87店舗のオーナーでありながらも、気さくで親切な夫のショーン、可愛い娘のコリンズ、生意気で一家のマスコット的な息子SJ(ショーン・Jr)の4人家族。裕福でいわゆるセレブリティな家だが、暖かく愛情あふれる家庭だ。
感謝祭の前夜、凍えるような夜の道を半袖短パンでとぼとぼ歩く大柄な黒人少年を見たリー・アンは、それが子供たちの学校で見かけた“ビック・マイク”であることに気付き、車を夫に止めさせ家に連れ帰る。一晩だけの暖かい寝床を与える、そのつもりだったが、彼が何かしでかさないかという不安は隠せない。
しかし、翌日。寝かせたソファの上のきちんと畳まれ整えられたシーツ類をみつけ、さらに黙って出ていこうとしたマイケルを呼び止めるリー・アン。
感謝祭の食事を一緒にとり、そのままマイケルはテューイ家に留まることになる。
体の大きさにそぐわず、物静かで控えめなマイケルに惹かれたリー・アン。そして常に協力する夫ショーン。子供たちも両親に従い、マイケルを家族同様に受け入れる。
学力は最低。しかし能力検査で身体能力の他に、唯一つ高い数値が出たと教師から説明される。それは特出した“保護本能”だった。
彼が、アメリカンフットボールにおけるエースであるクオーターバックの、死角を守るレフトタックルにふさわしい条件をすべて兼ね備えてると気付いたリー・アンは、マイケルをその道に進ませるよう導きはじめるのだった。
これは一見アメリカン・ドリームそのものの話だ。恵まれない黒人少年が親切で裕福な白人一家のサポートを受けて、才能を開花させ、恩返しをする。
それだけなら、陳腐で魅かれない話だろう。
しかし肝心なのは、それはこれが完全な実話であり、しかも現在進行形の実在する人たちの話だということ。
そして、もう一つ。実はこちらの方が大切なのだが、“与える者”と“施される者”ではない“与えあう人の繋がり”をも見せているというところだ。
いくつか感想や評を読んだのだが、あまり馴染みがないアメフトはもとより、そこにはアメリカ南部テネシー州の黒人と白人の問題や、キリスト教的博愛、慈善精神と、さらには共和党員と民主党員、母校愛や白人の“ホワイトギルティ”なども根底にあるので、そこを突っ込んでいくとかなりややこしくなる。
ホワイト・ギルティというのは、白人が黒人に対してかつてした事に大して罪悪感を抱くことだという。
けれど映画では、そこら辺はセリフの端々に出しながらも、全体的に見ればわずかなもの。あくまでも暖かく、善意に満ちたテューイ一家と、気の優しいマイケルが家族になっていく様子がメインに描かれている。
だから、うがった見方をすればいくらでも“ネガティブ”な批判は起こりえる。
金持ちの気まぐれの善意が、たまたまビックドリームになっただけでは?
そもそもマイケルに、アメフトの才能がなかったら?
才能があるなしもだが、もっと捻くれた礼儀知らずの少年だったら?
リー・アンとテューイ一家は彼をここまで受け入れた?
彼の気立てのよさが報われたとしても、他に無数にいる打ち捨てられた子どもたちは、それに値しない気質だからなのか。
この映画を見て感化され、真似する者が現れても、そう上手くはいかないだろう。
こんな善意に溢れた家族は、本当にいるのか? 映画のなせる夢では。
etc.
そういう感想もありがちで、全部とは言わずもそのうちのいくつかを上げているのも見かけた。
けれど、そういう感想においても。
結局はこの映画を暖かく、素晴らしい話だと認めているのがほとんどだ。
この世知辛く厳しい世の中で、人は誰でも、人の善意を疑いつつも根底では信じたい気持があるのだと思う。
この世界は、決して捨てたものではない。そんな気持ちにさせてくれる、美談を越えた実話である。
自分のことを語らないマイケルだが、一枚しかないシャツをコインランドリーの水道で手洗いしても、リー・アンの問いに「着替えは持ってます」と言う。
リネン類をきちんと畳み、翌日の感謝祭の食事では、皿に料理を盛ってTV前のソファに集まる家族と離れ、食堂のテーブルにきちんと座り静かに食べている。
小さなことから、リー・アンはマイケルの心映えの良さと、媚びたり卑下したりしない誇りも感じて、彼を信頼するようになる。
部屋を用意すると、初めてですとようやく笑顔になるマイケル。
自分の部屋が?と尋ねると、「ベッドが」と。胸が詰まるリー・アン。
恵まれたテューイ家が思いもしなかった豊かさへの感謝や有難さを、マイケルは教えてくれる存在になっていく。
夫ショーンも様々に意見もするが、妻とマイケルを暖かく見守り、娘も徐々にだが打ち溶け、SJに到っては最初から垣根などなく“兄貴”の世話を焼くのが楽しくてたまらない様子。
家族の協力に後押しされ、リー・アンはマイケルの後見人になることを決意する。
彼の曖昧な生い立ちを追い、他に兄弟姉妹が12人もいることがわかる。母親を探し出し会いに行くリー・アン。父親が様々な子供を沢山産んだマイケルの母は、コカイン中毒だった。
けれど薬におぼれても、荒みきっても子どもへの愛情もない女性ではなかった。マイケルは、里子に出された7つの時から、どこに行っても逃げ出して自分の世話をしに戻ってきたという母。あなたはいつまでも彼の母親ですと言い、自分の家に引き取る話をするリー・アンだった。
マイケルの並はずれた“保護本能”が、家族を守ることから来ていたのだ。
アメフトチームでの練習が始まるも、はじめは気の優しさから相手を跳ね返せず、全く振るわないマイケル。期待はずれだと怒るコーチを尻目に、リー・アンはコートにどんどん乗り込み彼に告げる。
「チーム全体を家族と思いなさい。彼らはあなたの兄弟。クォーターバックを私と思って守って」
そこから、見違えるほど力を発揮しだすマイケル。
チームをリーグ優勝に導き、早くも全米の大学から彼を見つけて引き抜こうとするオファーが殺到し始める。その大学選びで、それまで上手く行っていた彼らにある問題が起こるのだが…
リー・アンは押しつけがましいようでいて、決して強要しない。ベタベタとした世話焼きでなく、きっぱりさっぱりと躾する。マイケルも自分の子供たちと変わらず一緒に。何よりも、その果断さ。実行力、全力を挙げて子を守り育む姿はやはり素敵だ。
キリスト教的博愛精神から手を出したことだったが、実は財力があったからと言って簡単なことではない。彼女も夫も、南部のセレブらしくしっかりと保守党派。つまりブッシュ寄りで人種問題についてもリベラル派ではなかったし、一家を取り巻く階層もリー・アンの友人のマダム達もみんなそうだったからだ。
その中で、黒人の少年を、きまぐれでなく成人まで引き取り、家族にするというのは並大抵のことではないし、あまり描かれていないがバッシングもあったに違いない。
また、マイケルが有名になったことで逆に出てくる批判や噂。夫婦の母校であるミシシッピー大学にマイケルを入れたことで起こる問題。
そこら辺りは、スポーツ界の規定なども絡んできて、知らないとわかりにくいが、見ていれば何となく掴める。
彼女がマイケルと出会ったのは、明らかに二人の中の資質が似ていたからだ。
マイケルの並はずれた“保護本能”は、まさしくリー・アン自身が持つものだった。
鉄の女、旋風のような母であるリー・アンが、体は大きくても寄る辺ない恵まれない少年を見つけ、守ったのではない。才能を見つけたがゆえに、ステージママとして君臨したのでもない。
“人は誰かを守ることで、強くなれる”
その点で二人はよく似ていたからこそ、引き合ったのだ。
彼に与えてるんじゃない、与えられてるのという彼女。
持てる者が、持たざる者に与え、お返しに感謝なり名誉なりを貰うのが相互扶助ではない。
互いが元から持っているものを、互いを見て引き出し合うことなのだ。
大学の件で家を飛び出し、元のスラムで夜を明かしたマイケルを迎えに来るリー・アン。
どうしてここに染まらずに済んだの?、という質問に初めて幼い頃のことを話す。
悪いこと、醜いことがあったら、目をつぶってなさいと母に言われたと。
目を開けたら、そこには良い世界があると。
「逃げたのね」と言いながらも、その母親の精一杯の言葉が、マイケルを守ってきたことを認めるリー・アン。幼いSJに読んであげた『はなのすきな牛』のように。
大きな体で頭付きもせずに、花を見つめていた少年。
そこにある問題から逃げても、結局は向かわざるを得ないときが来る。けれど、厳しいこの世の中で、根底にある“善きもの”に目を向けることも大切なのではないか。
そこにこそ愛情があり、何かの花が咲く土壌ができる。
原題は「The Blind Side」 クォーターバックの利き腕の逆サイド、つまり死角、見えざる側という意味。マイケルのポジションは、その死角を守る守護神たる役目だという。
リー・アンとテューイ一家が、唯の慈善ではない、自分たちの枠を飛び越えたところに手を伸ばし、見えざる側に目を向けそこで自らを守り手としたことは、一人の黒人少年の未来を変え、さらには家族全体に“与え合う”ことの意味を教えてくれた。
マイケルの保護本能による才能が開花したのは、恵んでくれた人たちへの恩返しからではない。
彼の与えられたものが、贅沢な衣食住や教育だけでなく、家族としての心からの愛情、受容であったからこそ、その家族を守る―力が開花したのだと思う。
そう感じさせてくれるこの映画は、とても暖かく心に染みた。
サンドラ・ブロック、サンドラ姐さん。アカデミー主演女優賞おめでとう。
この役は彼女にぴったりだった。
そこには確かにアメリカの母がいた。それも今風の、スタイルもルックスもセンスも良くて、すこぶるつきのパワフルさとリーダーシップを持つ女性。
日本ではさすがに引かれるなと思ったら、リー・アン本人に会ったサンドラ自身さえ、圧倒されたほどのパワーだったそうだ。あんな女性は居ないわとのサンドラ弁(笑)
けれど充分はまって見えた。ご本人にも負けないエネルギーを感じました。
マイケルのことで何か言う奴は、親友の有閑マダムだろうが、試合中にデブと笑うじいさんだろうが、容赦せずカタを付ける(笑) スラムで自分を脅してきたボスの少年にも、「うちの子と家族に手を出したら、ライフルぶっ放すわよ」と逆脅し(^_^;) 口先だけでない、本気だ。
コーチも他の男たちもぐうの音も出ない。
けれど、その強さに隠れた、母性ゆえの揺れや迷いも、サンドラは上手く出してたと思う。
そんな妻を常に見守る夫、ショーン役のティム・マッグロウも好演。
この妻にしてこの夫あり。常に事後承諾で、思い立ったら行動している妻に驚きもせず、焦る時はなだめ、大きな視点から見ている。こんな旦那さん出来過ぎ!とも思うのだが、そこは実在の人だから良く描いて…(笑) でもなく、妻の根底にあるものを掴んでいるからこそ、家庭が円満に行く。伊達にリー・アンみたいな旋風女を妻にしてないのである。
その両親の気持ちと決心は、おのずと子どもたちにも伝わっている。
娘のコリンズは可愛くて年頃。
黒人の大きな男の子を住まわせて大丈夫なのと聞く友人は切り捨てたリー・アンも、娘には気持ちを尋ねる。多少のためらいはあっても、くだらない噂には耳を貸さないというコリンズ。
これも出来過ぎ? 親が決意しぶれずに貫いている姿は、常に子供に安心感と安定した精神をもたらすのだと思う。
その象徴みたいなのが、息子のSJ。フレンドリーで垣根がなく、しかもちゃっかり屋(笑)
リー・アンいわく夫似の彼のおかげで、マイケルは一家に馴染んでいくし、笑顔を引きだされずにはいられない。この子がほんと上手い。まったく向こうの子役って…(笑)
特に、アメフトをまだよく知らない“兄貴”を特訓するシーンと、スカウトに来たあらゆる大学のエージェントを相手に、自分も込みの特典を同意させる交渉をするシーンは大笑いした。
マイケルはほとんど話さず、“弟”が仕切っている(笑)
さすがファーストフードチェーン店のオーナーの息子である。
そして、マイケル・オアー役のクイントン・アーロン。この役がメジャー映画デビュー。
何と言っても表情がいい。多弁ではない役なので、彼の哀しげな顔、やっと見えた笑顔は雄弁だった。そしてどこか、迷える子羊みたいなのだ。いや、「はなのすきなうし」にぴったりな目をしてるのが決めてだったみたいだ。
テューイ一家は確かに富豪だ。でも、いくら金があっても慈善や寄付をしていても、黒人少年を家族の一員として受け入れるところが、そうあるだろうか。しかも未だ差別が残る南部で。
他者に手を差し伸べる、それも真摯に。それができる勇気と決断力、そして暖かい心をもつものに富も加わっていることは僥倖なのだ。ごまんとある富をさらに増やすこと、人を盗人としか見れないものもこの世には多いのだから。
この映画は、善意を施せば見返りがある、でも。
ある幸運な黒人少年のサクセスストーリーでもない。
そんな話なら見ても退屈だ。
たぶん、自分を差しだせる勇気は、ふさわしい相手を引き寄せるという優しくも力強い真理なのだ。
様々な面で過剰で破綻しているアメリカ。暗い面、闇の面は限りなくあるだろう。
でも、ここに描かれた現在進行形の物語は、アメリカの“善きもの”を象徴している。
前向きさ。勇気、家族愛、率直さ、力強さ。
反面、アメリカの闇を見せる作品も多い。
作品賞が人の心にある中毒を戦争を通して描いた『ハート・ロッカー』
昨年、一昨年には『ノー・カントリー』や『ダークナイト』が受賞やヒットを飛ばした。
けれど、今回の作品賞にはノミネートされなかったが、俳優賞のノミネート、受賞をしたのは『インビクタス』『しあわせの隠れ場所』『恋するベーカリー』など、暖かく善なるものの力を見せてくれる作品からが多い。
アメリカは今、真っ二つに分かれているのではないか。それは人の心の中にある、闇と光のどちらをとるかに。
でも、これらの映画を見る限りでは、まだまだ捨てたものじゃないと思う。
ものごとの暗い面、闇の面に焦点を当てることが多い時代だけれど、善き面こそがその影に―ブラインドサイドにあり、そこにはしあわせが隠れてる。そんな希望を願っている。