お久しぶりのブログです。
「創ること」
について感じたことを書いてみます
最近、教会内では、
「悔い改める」
ということについて強調し、みんながそれぞれ自分のことを点検し、悔い改める期間、見直す期間をもつようになりました。
教会に通い、信仰を持たなければ
点検する機会もないし、
そもそも何を指標にして
点検すれば良いのかもわからないので
悔い改める期間・点検する期間があるということは
本当に感謝すべきことだし、
そのようなみことばが宣布されることが
本当にありがたいことだなぁ、と
ひしひしと感じます。
私の話を少しします。
私は20代後半から教会に通うようになりましたが
正直、
どうして神様が私を呼んで下さったのだろうか?
私でいいんだろうか?
というくらいに
世の中の生にどっぷりと浸かっていたし
あらゆる矛盾や
世の中の考えが
私の脳を満たしていました。
そんな私のことを呼んで下さったこと、
本当に本当に、感謝でしかありません。
私がここまで来れているのは、
神様に対する熱い愛もあるし
もう一つは、
「創ること」
がきっと好きなんだろうなぁと思います。
自分に対するやるせなさ、
申し訳なさ、
足りなさ、
そういうものがあまりにもあって
罪滅ぼしのように
「自分を創ること」に自ら拍車をかけてつくる時期もあったし、何かを行うこともありました。
しかし今は、そういう所を少し抜けて。
本当に神様を愛するから、創ること。
愛するから、何かをすること。
そういう所に重きを置くようになりました。
いずれにしても
何かを、「創ること。」
何かひとつの作品を創ること。
一からひとつひとつ創っていくこと。
これが私は好きです。
作曲をするのも、
「音楽が好き」
というよりは
「創ること」
が好きでやっているんだと思います。
また、元々、神様は
あえて人間を足りないようにお創りになった、
と仰いました。
それは
人間がもし神のように完璧であったならば
神様と共に自分を創る甲斐も喜びもなくなってしまうし
神様と同じ位置になってしまったら
神様が創られた地球、万物、あらゆるものの価値がわからなくなってしまうからだ、と仰いました。
「足りないこと」が問題ではなく
「創るかどうか」
また、
「悔い改めるかどうか」
がもっと大事なこと。
もっと若い時から来ていれば
もっと易しく治せる部分、創れる部分は
もちろんあるかと思いますが
それでも、私でもできているから
まだまだ治すところはあるけれども
これまで創ってきたからこそ
今の私が存在しているということを
これからも私の生を通して証したいなと思うし
いつくるかが問題ではなく、創る事がもっと
問題だ、ということを伝えたいなと思います^^
また、本当に「愛するからこそ」創り、
「愛するからこそ」
実践して
これからも走っていきたいなと思います
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