これまで、多くの人々は障害者・障害について語ろうとしなかった。特に我々の中にある障害者への差別感情といった「醜い自分」を無意識に避けてたふしがある。しかし、近年障害・病気の早期診断、早期発見により障害者の割合が以前よりもかなり増えてきている。健常者の割合を超える日はそう遠くはないのかもしれない。そんな状況だから、嫌でも障害者・障害と向き合わざるを得なくなった。更に障害者の存在が大きく注目されるきっかけの事件が数年前に起こった。
2016(平成28年)7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件の事だ。
この事件は多数の犠牲者が出たことも社会に衝撃を与えた。しかし、この事件の特異性は重度の障害者が生活している障害者施設における殺人事件だという事をまず最初に想起させるべきだ。アメリカのケリー国務長官(当時)に言わせると「テロリズムの一種」だそうだ。日本人とは違いその危機意識の高さからのこの発言。傾聴に値する。
事件が起きた後、マスメディアは犯人の異常性をこれでもかと取り上げて、ネットでは犯人を英雄視する投稿が相次いだ。そして3年経った今、この事件の事が人々の記憶から消えていた。風化した感すらある。
そんな中私がこの事件について語るのは思う所あるのも確かだが、それ以上にこの事件は犯人個人の異常性に還元すべきではないからだ。
私はこの事件は今の日本のひずみから生じた、つまり社会がおかしくなった結果こうなったと思っている。もちろん犯人が一番悪いのは言うまでもない。しかし、その犯人にしても、社会の障害者蔑視の風潮を敏感に感じ取っていたのは確かだろう。社会のため日本のためになるとも供述している。
いわばこの事件は今の日本社会が遠因となっている。なぜ今の社会が遠因なのか。それは時代性と日本の国柄が関係している。今の時代は新自由主義、グローバル化の時代である。それらの考えは一部の勝者を益して、残りの大多数の敗者を生むこととなった。我が国では中曽根首相あたりから始まった。その経済政策は80年代の急成長から90年代の停滞に表れているようにその落差の激しさはあまりに極端だった。その後、小泉政権はそれを受け継ぐように進行させていった。構造改革で徹底的に日本社会のあらゆる分野(経済はもちろん教育や医療など)を改造し、破壊し尽くした。その結果、二極化が進み格差社会となった。さらに現在の安倍政権になって格差は拡大するばかり。自殺者はかなり多く、自殺大国などという不名誉な呼ばれ方まで登場した。勝ち組と負け組は依然として存在し、しかも後者の方が圧倒的に多い。教育も完全に競争を煽るためのものになり学ぶ楽しさ、やりがい、知的好奇心といった観点は忘れ去られた。
特に注目したいのは勝ち組、負け組である。これは強者、弱者に置き換えることも可能だ。強者は他人を蹴落とすことで頂点に立とうとする。一番になりたがる。一方、弱者はあえなく脱落してしまう。これが競争だ。
話が長くなった。言い換えると今の日本が弱肉強食国家と化したから弱者に属する障害者にとって不遇の時代となったのだ。この時代性は優生思想と深く結びついている。だからこの事件は犯人が悪いだけで済まされないのだ。今後の社会のあり方を再考する時が来たという事だ。その鍵となるのは「優生思想」だと私は思う。
さて、本題の障害者について。障害者はやたら増えすぎているのが現状なのだが、それを問題だと認識できているのはごく一部の医療関係者だけである事に驚きを隠せない。私は今の障害者は2つに分類できると思う。まず1つ目は本来の障害者。これは重度の障害者で、意思疎通も日常生活を送るのもままならない人を指す。2つ目は軽度、中度の障害者。これが圧倒的に多い。かつては障害者は少数だったのに今や全人口の7.4%との事だが、いくらなんでも多すぎる。特に精神障害者の人数は障害者の中では身体障害者に次ぐ多さだが、その増加した人数だけに限って言うと、精神障害者が最も増えているのだ。
これは精神医療と製薬業界、厚労省による「精神疾患ビジネス」によるものだ。精神科医は障害名、病名をレッテルとして貼りまくり、製薬業界は薬をばらまき、厚労省はその双方に協力し、国民にこれは「障害者」の為です、「障害者」になることで医療、福祉の対象になるので支援が受けられますよなどと聞こえのよい事を暗に言う事によって国民、障害者を騙してきた。その結果がこれだ。
障害者は社会から欠陥人間の如く扱われ、人としての尊厳を奪われ、薬漬けにされ体も心も蝕まれ、社会で成功する道は閉ざされてしまった。精神疾患を乱造している連中は障害者を自分達の金づるとしてしか見ていない。人として終わっているのだ。
発達障害、適応障害、不安障害、人格障害、強迫性障害などいろいろな病名がある。確かに病気で苦しんでいる人もいるだろう。だが、それは薬漬けによって治せるものなのか?結局これらの「障害」は人間の性格的側面に拠る所が大きい。例えば、適応できないのは適応できない本人が悪いのではなく、その人が適応できる環境を見つけることは難しい事ではないだろう。また、不安なのは誰だってあるものだ。問題なのはその不安を分かってくれる理解者が近くにいるかどうかだ。
今の障害者というのはある環境(学校、会社など)に適応できないだけで容易になれるものだという事だ。だからここ数十年で発達障害、PTSDなどの新しい障害名、病名が作られて障害者、病人の範囲をどんどん広げている。そしてその激増した患者を獲得して医療、福祉の対象にしているのが現状なのだ。しかし、少なくとも軽度、中度の障害者は障害者の範疇に収まる訳がないし、ちょっと人と違う所があるだけで、障害者認定するのはいくらなんでも無茶苦茶だ。彼らは精神疾患ビジネスの被害者ではあっても、障害者ではない。その事を我々国民は認識する必要がある。
また、同じ障害者でもいわゆる障害者と自称障害者とがいる。自分が障害者だという事に屈辱、不満を隠せない、だから障害者であることを隠し通す人の事をいわゆる障害者と言う。その次は、自分が障害者だという事に居心地の良さを感じ、自分のアイデンティティーを「障害者」に見いだす事に喜びを感じる人の事を自称障害者と言う。言うまでもないが、私自身はいわゆる障害者に共鳴する者の一人だ。なぜなら私も精神障害者という名のレッテルを貼られているからだ。彼らこそ私の同志だ。私と同じく怒りに燃え、悲しみに暮れ、苦悩している一個の魂なのだ。
このままでは精神医療、製薬業界、厚労省の三者によって一億総患者になってしまうだろう。日本人よ!早くこの重大かつ深刻な大問題に気づけ!今日は健常者でも明日は障害者になっているかもしれない。いい加減目覚めるべきだ!相模原の事件をなぜ教訓として生かさない?日本人は元々情に厚い民族だったはずだ。なのに昨今の日本人を見るとその冷酷さに、私は「嗚呼、日本人はいずこ」、「日本人がいない、日本人はどこに行ったのか」と嘆かざるを得ないのだ。それだけ今の日本人は目を疑うほど、日本人らしくない。異星人なのではないかと思ってしまうのも無理からぬこと。
精神医療、製薬業界、厚労省によって精神疾患という呪いがかけられているのが現代という時代だ。経済成長よりも弱肉強食体制を打ち崩す方が先決に思われる。そして優生思想をこの日本から一掃し、正気を取り戻す。それが我々日本人の使命なのは確かだ。
2016(平成28年)7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件の事だ。
この事件は多数の犠牲者が出たことも社会に衝撃を与えた。しかし、この事件の特異性は重度の障害者が生活している障害者施設における殺人事件だという事をまず最初に想起させるべきだ。アメリカのケリー国務長官(当時)に言わせると「テロリズムの一種」だそうだ。日本人とは違いその危機意識の高さからのこの発言。傾聴に値する。
事件が起きた後、マスメディアは犯人の異常性をこれでもかと取り上げて、ネットでは犯人を英雄視する投稿が相次いだ。そして3年経った今、この事件の事が人々の記憶から消えていた。風化した感すらある。
そんな中私がこの事件について語るのは思う所あるのも確かだが、それ以上にこの事件は犯人個人の異常性に還元すべきではないからだ。
私はこの事件は今の日本のひずみから生じた、つまり社会がおかしくなった結果こうなったと思っている。もちろん犯人が一番悪いのは言うまでもない。しかし、その犯人にしても、社会の障害者蔑視の風潮を敏感に感じ取っていたのは確かだろう。社会のため日本のためになるとも供述している。
いわばこの事件は今の日本社会が遠因となっている。なぜ今の社会が遠因なのか。それは時代性と日本の国柄が関係している。今の時代は新自由主義、グローバル化の時代である。それらの考えは一部の勝者を益して、残りの大多数の敗者を生むこととなった。我が国では中曽根首相あたりから始まった。その経済政策は80年代の急成長から90年代の停滞に表れているようにその落差の激しさはあまりに極端だった。その後、小泉政権はそれを受け継ぐように進行させていった。構造改革で徹底的に日本社会のあらゆる分野(経済はもちろん教育や医療など)を改造し、破壊し尽くした。その結果、二極化が進み格差社会となった。さらに現在の安倍政権になって格差は拡大するばかり。自殺者はかなり多く、自殺大国などという不名誉な呼ばれ方まで登場した。勝ち組と負け組は依然として存在し、しかも後者の方が圧倒的に多い。教育も完全に競争を煽るためのものになり学ぶ楽しさ、やりがい、知的好奇心といった観点は忘れ去られた。
特に注目したいのは勝ち組、負け組である。これは強者、弱者に置き換えることも可能だ。強者は他人を蹴落とすことで頂点に立とうとする。一番になりたがる。一方、弱者はあえなく脱落してしまう。これが競争だ。
話が長くなった。言い換えると今の日本が弱肉強食国家と化したから弱者に属する障害者にとって不遇の時代となったのだ。この時代性は優生思想と深く結びついている。だからこの事件は犯人が悪いだけで済まされないのだ。今後の社会のあり方を再考する時が来たという事だ。その鍵となるのは「優生思想」だと私は思う。
さて、本題の障害者について。障害者はやたら増えすぎているのが現状なのだが、それを問題だと認識できているのはごく一部の医療関係者だけである事に驚きを隠せない。私は今の障害者は2つに分類できると思う。まず1つ目は本来の障害者。これは重度の障害者で、意思疎通も日常生活を送るのもままならない人を指す。2つ目は軽度、中度の障害者。これが圧倒的に多い。かつては障害者は少数だったのに今や全人口の7.4%との事だが、いくらなんでも多すぎる。特に精神障害者の人数は障害者の中では身体障害者に次ぐ多さだが、その増加した人数だけに限って言うと、精神障害者が最も増えているのだ。
これは精神医療と製薬業界、厚労省による「精神疾患ビジネス」によるものだ。精神科医は障害名、病名をレッテルとして貼りまくり、製薬業界は薬をばらまき、厚労省はその双方に協力し、国民にこれは「障害者」の為です、「障害者」になることで医療、福祉の対象になるので支援が受けられますよなどと聞こえのよい事を暗に言う事によって国民、障害者を騙してきた。その結果がこれだ。
障害者は社会から欠陥人間の如く扱われ、人としての尊厳を奪われ、薬漬けにされ体も心も蝕まれ、社会で成功する道は閉ざされてしまった。精神疾患を乱造している連中は障害者を自分達の金づるとしてしか見ていない。人として終わっているのだ。
発達障害、適応障害、不安障害、人格障害、強迫性障害などいろいろな病名がある。確かに病気で苦しんでいる人もいるだろう。だが、それは薬漬けによって治せるものなのか?結局これらの「障害」は人間の性格的側面に拠る所が大きい。例えば、適応できないのは適応できない本人が悪いのではなく、その人が適応できる環境を見つけることは難しい事ではないだろう。また、不安なのは誰だってあるものだ。問題なのはその不安を分かってくれる理解者が近くにいるかどうかだ。
今の障害者というのはある環境(学校、会社など)に適応できないだけで容易になれるものだという事だ。だからここ数十年で発達障害、PTSDなどの新しい障害名、病名が作られて障害者、病人の範囲をどんどん広げている。そしてその激増した患者を獲得して医療、福祉の対象にしているのが現状なのだ。しかし、少なくとも軽度、中度の障害者は障害者の範疇に収まる訳がないし、ちょっと人と違う所があるだけで、障害者認定するのはいくらなんでも無茶苦茶だ。彼らは精神疾患ビジネスの被害者ではあっても、障害者ではない。その事を我々国民は認識する必要がある。
また、同じ障害者でもいわゆる障害者と自称障害者とがいる。自分が障害者だという事に屈辱、不満を隠せない、だから障害者であることを隠し通す人の事をいわゆる障害者と言う。その次は、自分が障害者だという事に居心地の良さを感じ、自分のアイデンティティーを「障害者」に見いだす事に喜びを感じる人の事を自称障害者と言う。言うまでもないが、私自身はいわゆる障害者に共鳴する者の一人だ。なぜなら私も精神障害者という名のレッテルを貼られているからだ。彼らこそ私の同志だ。私と同じく怒りに燃え、悲しみに暮れ、苦悩している一個の魂なのだ。
このままでは精神医療、製薬業界、厚労省の三者によって一億総患者になってしまうだろう。日本人よ!早くこの重大かつ深刻な大問題に気づけ!今日は健常者でも明日は障害者になっているかもしれない。いい加減目覚めるべきだ!相模原の事件をなぜ教訓として生かさない?日本人は元々情に厚い民族だったはずだ。なのに昨今の日本人を見るとその冷酷さに、私は「嗚呼、日本人はいずこ」、「日本人がいない、日本人はどこに行ったのか」と嘆かざるを得ないのだ。それだけ今の日本人は目を疑うほど、日本人らしくない。異星人なのではないかと思ってしまうのも無理からぬこと。
精神医療、製薬業界、厚労省によって精神疾患という呪いがかけられているのが現代という時代だ。経済成長よりも弱肉強食体制を打ち崩す方が先決に思われる。そして優生思想をこの日本から一掃し、正気を取り戻す。それが我々日本人の使命なのは確かだ。