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竜宮に棲む人魚(四)

2006-03-05 10:55:56 | 竜宮に棲む人魚
 渡辺夏彦はホンダの二五〇ccバイクで疾走する。
 スピードは六〇キロ。タコメーターは二八〇〇回転で針が触れる。シフトダウンし、クラッチを離しながらアクセルをあげていく。
 マシンのけたたましいエンジン音が鳴り響き、風を切って直進。
 身体全体で振動を感じ、バイクと一体化する瞬間が気持ちいい。いやなことを忘れることができる。
 さっき、灯台の下で小柄な少女に出会った。
 灯台の下にいたから観光客だろう。でも赤のサンダルは旅行に似つかわしくないと気になった。
 前髪が多いショートヘア。白と紺のボーダー柄ラガーシャツ。ベージュのだぶだぶカーゴパンツ。
 自分の妹と、歳や背恰好、服装の趣味まで似ていたから思わず話しかけてしまった。
 そのとき、意地悪ないいぐさをしてしまったから嫌われたはずだ。
 夏彦は後悔していた。
 少女は澄んだ目をしていた。優しさの中に秘められた気の強さも妹とそっくりだった。
 二年前、二つ年下の妹が行方不明になった。
 いったい、どこにいるんだろう。沙織、早く戻ってきておくれ……。
 
 夏彦が大学に入って間もない頃、名古屋で沙織と落ち合う機会があった。
 喫茶店に入ってきた沙織は少し見ない間に、身体はほっそりと引き締まり、大人っぽくなっていた。
 唇は口紅では出せない自然のピンクに発色し、艶のある肌は光っていた。子供から女性への成長過程を兄として眩しげに見つめた。
「少し痩せたか?」
「うん。少しね」
 表情は相変わらずあどけない、十八歳の笑顔だった。
「兄ちゃん、彼女できたの?」
「ああ、できた」
「へぇ、いくつの人?」
「同じ歳」
「どこで知りあったの?」
「大学のサークルで」夏彦は苦笑し、「おいおい、質問責めだな」
「だって兄ちゃん、めったに家に帰ってこないんだもん。妹としては兄の東京生活を、ちくいち知っておきたいから」
「母さんに頼まれたんだろ?」沙織は驚いた顔になる。
 図星か、と夏彦は笑った。
「うん、ばれたか。母さんは兄さんのことを心配しているんだよ。父さんだって、口には出さないけど家を継いで欲しいと願っているわ。たまには家に帰ってきて親に顔を見せてあげてよ。それだけで親は安心するんだから」
「おまえからもいってくれよ、俺はもう子供じゃないって。心配しなくても大丈夫さ。俺は自分のやりたいことを見つけて、何とかやっていくから」
「東京のどこがいいのかしら?」沙織は首を傾げた。「私は大王崎の方がいい。都会はごみごみしているから好きになれないわ」
「分かってないな、都会の良さを」夏彦は首を振った。
「ところで、その彼女とは結婚するの?」
「馬鹿、まだしねーよ。大学生は金がないんだぜ。結婚なんて考えたこともない」
「兄ちゃんの彼女、早く見たいな。今、写真は持っていないの?」
「残念ながら今日は持ってない」
「今度、実家に連れてきてよ」
「ああ、そのうちな」
「あのさ、夏休みに東京へ遊びにいってもいい?」
「都会は好きになれないんじゃなかったのか」
「旅行だからいいの。兄さんのところで泊めてもらうわ。ホテル代が浮くから」
 ちゃっかりしているのは母親譲り。夏彦は苦笑した。
「ホテル代わりにするなよ。俺のアパートは狭いんだぞ」
「いいの。そのときに彼女も紹介してね」
 何でも勝手に決めてしまうオテンバ娘。だけど憎めない。
「ところで、沙織の方はどうなんだ? 彼氏はできたか?」
 沙織は赤くなった。「いないよ。でも……好きな人はいる」
「そうか、恋しているのか。おまえも頑張れよ」
 夏彦は妙に納得してコーヒーをすすった。「父さんに伝えておいてくれ。来月は帰るからって」
「うん、分かった」沙織はうれしそうに頷いた。
 その会話が、沙織との最後だった。

 夏彦が大学一年の夏。悲劇は起こった。
 沙織が海水浴中に忽然と消えた。母の電話で聞きつけ、急いで帰省した。
 海で一緒だった沙織の友人によると、目を離したすきにいなくなったという。
 警察にも捜索を頼んだがいっこうに見つからなかった。
 沙織は泳ぎが得意だった。そんな彼女が溺れるとは考えにくい。
 海女になりたい、と笑顔で話していた姿を思い出す。海で素潜りの練習をよくしていた。だから海女小屋にも捜しにいったほどだ。
 沙織が海からあがった姿は誰も見ておらず、高波を受けて、海中にさらわれた可能性があった。
 少しの油断が命取り、ということもある。
 あるいは、どこかに流れつき、記憶をなくしているかもしれない。あらゆる憶測を考えた。
 人に聞いて捜し回るが決定的な情報は得られなかった。
 小説やドラマでありがちな失踪や、ニュースで取りあげられるような思春期の家出は、沙織に限ってあり得ない。
 友達はたくさんいたし、勉強もほどほどにできた。普通の女の子で恋もしていた。
 家族を悲しませるようなことをするような子ではないと断言できる。 
 二年目の歳月が流れたが、日めくりカレンダーはその日のままで、妹が消えた日から時が止まっている。
 それでもまた夏がくる。心は置き去りで癒されることはない。
 夏彦は東京の大学を中退し、故郷に戻った。今ではガソリンスタンドで、しがなく働いている。
 自由がきく、フリーターを選んだ。空いた時間は沙織の捜索に費やせるから。
 親は何もいわなかった。沙織がいない家族には活気がない。大学をやめたことを問いつめる気力すらなかったのかもしれない。
「家業を継いでくれればいい」とだけ父はいった。夏彦は頷かなかったが、いずれそうするつもりだった。
 その頃、つきあっていた彼女とは別れた。沙織のせいではない。自分の力不足と、大人になりきれなかった性格に落ち度があった。
 夏彦は昔からこの町から出たいと思っていた。都心の大学を専攻したのもそのためだ。都会への憧れもあった。
 地元では就業者の半数が漁業や海の仕事に携わっている。夏彦は海とはかけ離れた道に進みたかった。 
 中小企業でもいい、都心の会社に就職し、サラリーマンにでもなろうとしていた。
 でも、この町に戻ってきた。結局は離れられなかった。沙織の愛した町、大王崎を夏彦も同様に愛していたのだ。 
 そして、海に訪れるのが習慣となった。
 ヒューヒュー。
 磯笛と呼ばれる海女独特の呼吸法。海から聞こえると、沙織が近くにいるようでつい見渡してしまう。
 いつか帰ってくると信じながらも、心の奥では覚悟していた。
 沙織は死んでしまったのか?  
 いまだに沙織の墓はなかった。父は諦めた様子で「墓をたてよう」と口にしたが、夏彦は反対した。
 墓をたててしまったら沙織の死を認めたことになる。
「沙織は絶対に帰ってくる」といい切った。もし戻らなくても、この目で遺体を確認するまで墓はつくりたくない。
 
 日が傾きかけている。
 再び、灯台で出会った少女のことが脳裏をかすめる。
 沙織と似ている少女。手ぶらでサンダル姿。やけに丸くなった背中がさみしげに映った。
 連れはいなかった。一人で観光にきたのは不自然だ。
 妙な胸騒ぎがして、夏彦はバイクをUターンし、引き返した。