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竜宮に棲む人魚(九)

2006-09-06 23:20:07 | 竜宮に棲む人魚
 茜は目を開けた。
 鍋から立ちのぼる湯気を夢うつつで見つめ、首を傾げる。
 今現在、自分がどこにいるのか分からなかった。
「意識が戻ったわ」
 気がつくと、人影が茜を見おろしていた。その角度から、自分は地べたに座り込んでいるのだと気づく。
 身体を起こそうとすると、痛みは走った。頭痛とともに吐き気がして口を押さえる。
 ふわふわして、力を入れても定まらず、その場にへたばってしまう。
「大丈夫?」
 声の主は手を貸してくれた。握ると温かい手で、小さくても力強く、茜を支えてくれた。
 もう片方の手を壁に添えて立ちあがった。
 すると、女の子であることに気づいた。背は低く、胸はペチャンコ。表情はまだあどけない。小学校の高学年くらい。
 その横にはもう一人、気づかってくれる女性の姿があった。女の子とは対照的で、しっかりとした骨格にうっすらとできた小じわと剥がれかけの赤いマニキュアが成人であることを示していた。年齢は三十代前半だろう。
「歩ける?」
 女性に聞かれ、茜は首を縦に振った。
 親子でも姉妹でもない。友人にしては歳の幅がいきすぎている。
 二人はうしろ髪を束ね、金と銀の糸を織り込まれた長い布を巻きスカートのような形で肩にかけておろしていた。民族衣装に近い。
 変な恰好だわ。
 茜は黙って見据えた。
 ところが、そういう自分も彼女たちと同じ格好をしていた。誰かに着替えさせられたようだ。しかも靴を履いておらず、素足だった。
 いつから気を失っていたのだろう。前後の記憶が不透明。それに髪は湿っていて、体はかすかに磯の香りがした。
 はっとして周りを見渡す。
 事故に出くわし、海の中に落ちた……。
 そこまでのことは思い出したが、状況を判別する能力が乏しい。
 もし海に落ちたのであればなぜこんなところにいるの?
 海に落ちたのは夢だったのか? ならば怖い夢。今もなお夢は続いているのかもしれない。
「私は、みづほよ。こっちは由美子さん」
 おませな女の子は自ら名乗り、隣の女性も紹介した。残念ながら教えてもらっても不信感は消えない。
 茜はきょろきょろと目を動かした。
「Tag31 、すぐに料理を運べ!」
 いきなり怒鳴られて茜はびくっとする。振り返ると中年女が仁王立ちでこちらを見ていた。
 31?
 不可解な番号と指図は自分に向けられている。茜は困惑した。
「ぼけっとするな、早く動け! 我らの手足となって働くのだ!」
 苛立ちを募らせた中年女は目尻をあげて大声を出す。
 問いかけようとする間を遮ったのは、みづほだった。「命が欲しかったら命令通りに動いて」周りに聞こえないように耳打ちする。
「こらっ、無駄口をたたくな!」
 ただならぬ雰囲気を感じ取って、茜はのっそりと動き出した。
 少々、身体がふらついていたが歩けそう。
 魚料理が盛られた食器を持ち、みづほと由美子のあとに続く。不本意だったが命令に従うしかない。
 広間に出た。中央に長方形のテーブルが十列ほど並び、間隔を保って椅子がある。少数の男たちが席についていた。
 先方の見よう見まねで動き、テーブルの上に次々と料理を置いて回る。
 質問や勝手な行動は許されない。監視される威圧感がまとわりつく。茜は女中のように働いた。
 男より女の数が増さっていた。統一された女の身なりとは異なり、男性陣の服装はまちまちである。
 男は丁重にもてなされ、雑談をかわし、膳立てに口をつけていた。特別扱いされているのは歴然としていた。
 注目すべきは、色分けされた女性の腰ひもだ。食事を運ばされ、差別的待遇の者は白帯。その他は黒帯だった。
 黒帯女のほとんどが年輩者。男にぴったりとくっついて芸者のまねごとみたいな態度を取っている。さきほど怒鳴っていた中年女も黒帯だった。
 茜は白帯。親切にしてくれたみづほと由美子と名乗る二人も同様に白だ。白帯は比較的、若い層といえる。
 察するに、腰に巻かれた帯は上下関係を示しており、白帯は下等な立場に位置している。
 
 厨房とは逆側の扉から、一人の美しい女が現れた。
 由美子が茜の横に近寄って「あれが李瑠よ。頭を下げて」と小声で教えてくれた。
 黒帯の女たちも姿勢を正し、いちように礼をしている。茜も頭を低めにし、上目でうかがう。
 あの人が李瑠……。
 贅肉のない、均等の取れた身体。背は高く、胸を張って堂々と歩く姿はモデルみたい。
 漆黒の髪はかすかに揺れて、後れ毛は襟足に束ねている。
 東洋的な顔立ちできめ細かい肌にほんのりと化粧がのる。ふっくらとした唇に紅をさし、色白が際立っていた。口角を軽くあげて笑みを浮かべていた。
 一枚の薄い絹布をまとっているが、色別された腰ひもはなく、裾はワンピース状に広がっていた。
 細い眉がぴくりと動き、妖艶な流し目を送る。他の女とは別格の風貌。女帝の貫禄もみなぎっている。
 一度見たら忘れられない美女だ。それを象徴するかのように、男たちは食事をする手を止め、魅了されていた。
 なんて美しい人なのだろう。
 茜もしばらく目が離せなかった。
 李瑠は辺りを見渡している。そのとき、由美子は小声でまた呟く。「李瑠は今、自分の男を物色している」
 物色?
 その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
 茜が突っ立っていると、「かわいいじゃないか」と濁声が聞こえてきた。
 灰色の作業着を着た男がやらしい目つきでこちらを見てくる。
「なぁ、おじょうちゃん。俺といいことしようか?」
 すくうように抱きしめられ、茜は身を縮める。服をまくりあげ、尻をわしづかみにされた。
(助けて)
 出ない。声を出そうとするが音となって出てこない。
 誰もが見て見ぬ振り。みづほと由美子さえ、顔をそむけている。
(誰か、助けて)
 叫びは心の奥にこだまする。目で訴え、必死で抵抗するが男の力にはかなわない。
「拒んでいるのか、かわいいな」
 男はうれしそうに唇を奪おうと顔を寄せてきた。
(いやぁぁぁ)
「離してあげなさい」
 急に男の手が止まり、力が弱まった。
「李瑠の頼みならそうするよ」
 茜は解放された。
「あとで私がお相手してあげるわ」
「そういうことなら」
 男は引きさがってもとの席に戻る。
 つかまれた尻の感覚がおぞましく残っている。茜は男から遠ざかるが怖さで震えは止まらなかった。
 李瑠は目を細めて優しく微笑みかけてきた。
 助けてくれたの? この女性は味方? 

 何気なく、男たちの席に目をやると、夏彦がいた。
 彼は茜の存在に気づいていない様子。
 私はここにいるよ。
 足はとっさに動いた。
 茜は手を振る。それでも彼は遠い目をして視線は素通りしていく。
 近づいて彼の肩に手を置く。彼は振り返る。きょとんとした目で首を斜めにした。
 どうして?
 態度は初対面のようによそよそしかった。
 茜だよ。忘れてしまったの?
「おい、Tag31、何をしている! 自らの意志で動くな! さっさと仕事に戻れ!」
 夏彦と話がしたい。
 茜は命令を無視し、彼から離れずに詰め寄った。
 黒帯女は茜につかみかかり、「奴隷の分際で男に媚を売るのか!」目が光り、殺気立った。
 凄みのある睨みに、茜はおびえた。
『命が欲しかったら命令通りに動いて』
 みづほの言葉を思い出す。あのとき把握できなかったが今になって分かった。
 怖い。殺される。
 茜は厨房に戻るしかなかった。与えられた仕事をこなしながら、ちらちらと夏彦の姿を目で確認した。
 一方、彼はこちらを気にすることはなく、周囲の男たちと会話していた。
 もどかしげな手つきで箸を持とうとしている。どうやら手に怪我を負っているようだ。
 心配で見つめていると、またしても黒帯女が背中を押して邪魔をしてくる。
 彼の横に李瑠が座った。箸を受け取り、彼の口元に食べ物を運んだ。そしていきなりキスをした。飲物を口移ししたのだ。
 彼も驚き、李瑠をはねつけていた。拒絶した態度は茜を安心させた。
 今の状況に浸り切っていない証拠だから。
 直後、男たちに声が飛び交った。また何ごとかと思うと、女たちの歌声が響き渡った。
 四人の黒帯女が歌にあわせて優雅な舞いを披露しはじめたのだ。その激しい動きで服がはだけ、胸があらわになった。
 男たちは目の色を変え、手をたたき、歓声をあげ、口笛を吹く者さえいた。
 踊り子たちは狂ったように踊り続ける。隠すこともやめることもしない。
 あれは故意に見せているに違いない。茜はそう直感した。
 それを皮切りに、異様な光景が展開していく。男女が抱きあい、胸をまさぐり、濃厚な接吻がかわされた。
 誰も驚かない。なかば普通のことのようにおこなわれている。
 恥じらいはなく、性行は続いた。
 みづほも由美子も軽く触られているが、歯を食いしばって耐えている。
 どうなっているの? 疎ましく思う方が変なのか。
 まるで不思議の国のアリスの奇妙な世界に迷い込んでしまったかのようだ。
 表情を揺るがしているのは茜と夏彦の二人だけ。まともな精神状態ではいられない。
 茜は混乱し、気持ちを落ち着かせるのに必死だった。