難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「壬申の乱」 を訪ねて 3日目

2021年02月01日 | 歴史

平成27年5月14日 

壬申の乱を訪ねて3日目

     追記補正 令和3年1月24日

 今日は不破の関を訪ね。大海人皇子軍の動きに合わせ、
大津宮へ。

 紀行 三日目の朝、朝食は、泊まった、スーパーホテルの気に
入っている、自然食バイキング。
 ついあれもこれもと、お皿に取ってしまいたいのを抑え、
スッキリ快食。

  不破の関目指して、いざ出発。

 朝一番は、大垣から、不破の関に向かう途中に、
最前線の不破の関には、総大将に高市王(たけちのみこ)を
あてて、大海人皇子は不破の関の少し手前に(約3Km手前)
行宮(かりみや)を作り、そこで、乱の間、指揮をとった
とされている、野上行宮(のがみのかりみや)の伝承地に、
向かいました。

 ナビが、 「その先右折です。」  
 オイ! 車で右に曲がれるような道なんて無いぞ!!
 国道21号線の、大型車の交通量の多のなか、3回ほど、
行ったり来たり。
ナビの指示する、少し手前に、右に入る細い舗装されていない
道があり(もちろん、何の案内板も見かけられなかった)、
その先に小さな鳥居が見える。「これを入ってみるか。」
 ナビが 「コースを外れました。」「リルートします。」
を無視。
 右に曲がって入った時に見えた、鳥居をくぐり抜けると、
正面を、東海道新幹線の土手が遮っており、その土手に
トンネルがあり、向こうにくぐって行けるようになっており、
向こうが見えるんですが、その先に柵があり、向こうへは
行けない様になっていました。
 そのトンネルのところで、
「向こうへどうして行くんだろう?」と、20人程の人が、
ウロウロ。どうやら、私と同じ、行宮散策の歴史好き
グループのよう。それなら、ここで間違いないんだ。
少し先にも、トンネルが見えたので、田んぼの畦道を
新幹線の土手に沿って、ゴトゴト。
未舗装道路になっており、それ以上は進めないので、
車を降りて、トンネルを歩いてくぐり、線路の向こう側へ。
 そこは、原っぱが広がっており。ここがそうなのかな?
 ウロウロしていたら、畑で仕事をしている地元の人が、
「マター ひま人がウロウロと、迷惑やなあー。」
という雰囲気で、こちらをチラ見されていました。
 ホンダLIFEで、狭い畦道を3回ほど、スイッチターンを
繰り返して。鳥居のところまで、帰って来て、車を停めて
散策。そこに、案内碑を見つけました。 



 鳥居の奥に、新幹線の線路土手がありました。


 新幹線の線路橋を潜れそうなのですが、未舗装!

 そこは、案内碑と鳥居だけが、田んぼの中に、ポツンとあり、
時の流れと、風情を感じてしまいました。
 まあ、ここをわざわざ訪ねてくる観光客は少ないよね。!!
 さっきの団体さんは、もう見受けられなかった。

 不破の関を目指して、国道21号線を西進。ナビには、
「不破の関資料館」と入力。
ナビに従い、 「この先300m先左折です。」
「まもなく左折です。」
で左に入って行くと、
結構細い道。小さな公園があり、「え?ここ。」取り合えず、
ゴミ集積場所の横に車を止め、辺りを散策。
左手の坂道を登ったところに、広場があり、地元の叔母さんが、
楽しそうに、ゲートボールをされていました。
その広場の向こうに、あった! 「不破の関資料館」だ。
その向こうに駐車場があり、あそこへ止めよう。
でもどお行けば? Googleマップで確認。さっき曲がった
手前に、入ってくる道が別にあるようだ。ナビで確認しながら、
もう一度21号線に出て、入ってくる道を探して。
「あっ、ここか。」 その入口には確かに、
「不破の関資料館」の案内板がありました。
少し小振りで、少しはずれた所にありました。
私のようなウッカリ者には、見つけるのが少しーー。




 駐車場に車を止め、資料館の中へ。今日は開館日でした。
 ヨカッター。
 入館料は200円でした。中では、「不破の関」の案内
ビデオが流されており、参考になりました。
「不破の関」自身は、壬申の乱以後に設けられたようです。
 資料館の中の見物を終え、入り口の受付の人に、
「すみません、不破の関を散策したいのですが、
 車を駐車場に止めておいて良いでしょうか?」

 これから、親切で丁寧な案内を頂けました。

「駐車場に停めておいてもらって、結構ですよ。
 散策されるんですか?」

「不破の関跡は、ゲートボールをやっている、
 広場の先の坂道を降りて、その前が、不破の関跡です。」

「それを右に降りて行くと、川があります。
 そこで、近江軍と、大海人皇子軍がにらみあって、
 戦闘が始まったんです。」

「その川が、藤古川言うんですけど、
 川の向こう側が、近江軍、こちら川が、大海人皇子軍。」

「それで、地元の人がそれぞれの軍に、味方して、
 戦争になってしまったんですけれど、戦が終わってからも、
 川を挟んで、仲が悪くなってしまい、
 行き来すらしない関係になってしまい、
 川を挟んでの結婚は決してあり得ない程だったそうです。」

「そんな、関係が戦争が終わる前まで続いていたそうですよ。」

「今は、そんなことはないんですけれど。」

「何時の、戦い迄ですか?」

「いえ、この前の太平洋戦争、までですよ。」

「えっ! 壬申の乱は 西暦672年だから、
 第二次世界大戦の終了は、西暦1945年。
 約千三百年間も続いたんですか。!!」

「日本人の怨念て凄いですね。
 たしか、奈良地方でも、敵味方に別れた地区が、仲が悪く、
 行き来がないと言う話を聞いたことがありましたが。
 それと同じですね。」

「散策楽しんでください。」

「楽しいお話、有り難うございました。」










 それから、小一時間、不破の関跡、藤古川の両岸を見て
回りました。 先ほどの話が頭の中にあり、つい、
見比べてしまっていたのですが。
 確かに、こちら岸の村と、あちら岸の村の雰囲気が違う。
ある意味、言葉にしにくいですが、・・・・。

 皆さん、行って見てきてください。私が言葉に出来ない
意味が、必ず解るはずです。


 672年7月2日 大海人皇子軍は、3部隊に分け
 ①大津の宮 直撃本隊
 ②飛鳥方面 経由部隊
 ③琵琶湖を反時計回りに長浜 高島 経由部隊
 3隊に進撃を命じた。

 672年7月7日 大津京直撃本体が不破の関から
出発し、息長横川の地で、大津京軍とが激突したんだよね。
 この戦いで、大海人皇子軍は、大勝し、この後は、逃げる
近江軍の追討戦になったようなんです。
 近江軍の中には、大海人皇子に味方したいと思っていた、
豪族もいて、まとまらなかったようですね。
少し面白いのは、大海人皇子軍は、敵味方の見分けが
出来るように、兵員皆に、赤い布を着けさせ、戦ったのです。
面白い作戦だと思うのです。味方同士の一体感が取れるし、
目立つ赤い布を見た、敵に与える圧迫感は、凄いものが
あったんじゃないでしょうか。
 これを考えて、実行したリーダーはかなり大きな戦いを
熟知した、優れた人物と思えます。もしかしたら、倭人では
無かったのではないかと思うのですが。

 恐らく、倭国の歴史の中では、大海人皇子軍 
2万から3万人、近江軍 同じく2万から3万人が
ブツカリ遇うなんて、戦は今まで、無かったと思うんです。
いかに、戦団を整え、統制された戦いが出来るかが、
勝敗を決めれたと思うんです。
 そう考えると、大きな陸戦になれている国の軍師が
大海人皇子軍にいたと、
思えてくるんですが。

 あっさり、戦いの勝敗が決してしまった。不破の関から
息長横川の戦場を、 LIFEで通り、この山間の道で両軍が
ブツカリ合ったんだろうなと思いながら運転。

 近江軍が逃げながら、軍を引き締め、2度目の決戦を
行った、安河の畔(やすかわのほとり)(現 野州川)へ
向かいました。


 その途中、前から一度は行ってみたかった、
 信長の安土城 を見物しました。







 やはり、この地区は、戦乱の時代にあっては、
最重要地であり、信長はここを、しっかり握って
いたかったんだなと思えました。

 安河の畔に到着

 大津宮側の、堤防の駐車場にLIFEを停め、
 堤防を降りて、河向こうを望みました。



  7月13日、二回目の決戦を向かえ、近江軍は、向こう岸に
攻め寄せてくる、赤い色の軍勢を、どんな思いを抱いて
見ていたのでしょうか。?

 追記。
 今回の旅行で、行き忘れていた場所がすぐ側にありました。
 蒲生野(がもうの)です。この近くにあったんです。
次回の機会には必ず訪ねたいと思っています。
 そうです、大海人皇子と、額田姫王(ぬかたのおおきみ)の、
恋の歌のやり取り。
 「茜指す 紫野行き 標野行き
   野守りは見ずや 君が袖振る」

 茜指す紫野が、蒲生野なんです。今の八日市なんです。
 将に、ここから、「壬申の乱」が始まったんです。


7月23日 瀬田の唐橋の最終決戦
 安河から、大津方面へ向かい、最後の決戦になった、
瀬田の唐橋を渡りました。この一帯は繁華街、
観光地の中心地で、車を止めるところは
見つけられませんでした。
 大海人皇子軍も、琵琶湖の、唯1つの出口で、水量が多く、
川幅も広く、この瀬田の唐橋を越えるしか無いと思えました。

 少し気になっていた事なのですが、幾つかの文献、小説に、
大海人皇子 鸕野讚良姫の一行が、吉野へ都落ちするとき、
その一行を、この瀬田の唐橋で見送り、
「野に虎を放したようだ。」と逸話が、
書かれているのですが。
 大津の宮から、瀬田の唐橋を越えてしまっては、
吉野へ行く道は、道の険しい伊賀越えになり、距離的にも
木津を越え、飛鳥経由で、芋ヶ峠を越える道の方が
子連れには正解と思えます。



 今日の予定を終わり、泊まりの、大津駅前スーパーホテルへ。



 今回の旅行で、「壬申の乱」以外に、楽しみにしていた、
大学時代の旧友との飲み会です。

 大津に住んでいる、旧友とは、大学時代とても気が合う
ヤツで、卒業後に会えたのは、卒業1年後に1度だけ、
大阪で逢えたキリで、40年以上会えていない、
年賀状だけの友達でした。
 大津駅前の、居酒屋 「養老の滝」で、胸襟を開いてとても
楽しい時間が過ごせました。



「壬申の乱」を訪ねて 1日目 へ飛ぶ。



 平成27年5月13日「壬申の乱」を訪ねて 2日目



平成27年5月15日「壬申の乱」を訪ねて 4日目



「額田王姫へ、君が袖振る」
  恋歌 ⇒ 反戦歌です。



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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。




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