難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

続「壬申の乱」を訪ねて 1日目 

2015年08月17日 | 歴史

 壬申の乱の史実を求め、祟りを納めようと、
天智天皇陵、天武天皇持統天皇陵 お参り

平成27年8月14日

天智天皇陵 京都山科

 地下鉄 山科駅の側にあり、便利で分かり易い場所にあり、旧盆だったので、観光客が多いかなと思っていました。
 愛車の ホンダLIFE を近くのコインパーキングに停め、天智天皇陵探索。
 台風14号崩れの低気圧のせいで、雨模様。
アレ?そういえば、前回の、大津京へ行ったときも、台風6号のせいで雨だったよな!? しかも、暴風警報まで出ていた。 (〃'▽'〃) 
 甘い予知能力、それがどんな災いが身に及ぶか、少しも分からず。気楽に、天智天皇陵へ。
 場所は地下鉄の駅 地下鉄東西線「御陵駅」が( 「え!? 京都に地下鉄があるの ?と思った人は、私と同年代か年上の人。京都もどんどん変わってきているんですよ。それがいいか悪いかは別ですけれどね。)大きな道を挟んで、その向かいが、天智天皇陵。
 やはりというか、旧盆の休日にも関わらず、訪れている人は少なく、いや、誰一人もいらっしゃらなかった。私が、陵を参拝し、外にでるまで、誰一人とも出会わ無かった、いや出会えなかった。世間が興味をまるで持っていないことに、首を突っ込んでしまったのかな。こんなに不思議だらけで、分からないことが多いのに、興味をそそる謎がいっぱいなのに。日本の古代史の根幹の部分なのに。(ちょっと大袈裟か (^-^)v )

 天皇陵をいくつか参拝させていただいて、感じたことなのですが、正面の入り口を?(入り口でいいんだよね?)入っていくと、そのとき、何か特殊な雰囲気に襲われるんです、神社やお寺を訪れるときとは違う、もちろん、有名観光地に向かう時とも違う、何かを掻き分けて行く感覚、両ほほを何かが通り過ぎる感じ、もしかしたら、これは今の現在から、陵が造られた時までの時間を遡る感覚かもしれません。
 そんな大袈裟なと思われるかもしれませんが、一度行ってみて体験してみてください。キット分かってもらえると確信しています。

 

 この天智天皇陵が何故、大津の宮から遠いこの京都市山科に造られているんだろうか? 
 今回、陵を参拝させていただいて、素直に感じられた「不思議」でした。陵と、陵以外の周辺とは何の脈略も感じられなかったからです。

  謎の一つなのですが、天智天皇の陵が、何故ここに築かれたんだろう?
 唐の侵攻を恐れて、造られた大津の宮の周辺でなく、病気で亡くなった大津の宮でなく、ましてや、生まれ育てられた飛鳥地区でもなく。なぜ山科の地の此処に?

 何人かの歴史家、脚色好きの小説家が、以下の同様な、見てきたような想定話を、構成しています。

◎ 西暦671年9月 天智天皇が病を患ったとき。自分のお気に入りの息子、大友皇子(弘文天皇)をその次の後継者にしてくれることを条件に、大海人皇子(天武天皇)に政権の(天皇家)譲渡を、提案したが。

 何か良からぬ企みを感じた、大海人皇子がこれを固辞し、「天下のことはすべて皇后(倭姫王)におまかせになり、大友皇子を皇太子にお立てなさいませ。」(日本書紀)と進言し、出家して、吉野へ逃げてしまった。

 宇治橋で大海皇子を見送った、天智天皇の家臣は「虎に翼を着けて放すようなものだ」とつぶやいた。(日本書紀)

  この後から、歴史家の見解が大きく分かれるようなんですよね。

1)禅譲を断られた、天智天皇は、もしかして、大海人皇子が謀反を起こすかもしれないと心配し、病をこじらせ、大津の宮で崩御された。

  崩御されたあと、誰がどう弔ったか。そして陵は誰が造ったか? 

  671年9月の禅譲話の後 天智天皇 旧暦12月崩御し、わずか半年後の、672年6月に壬申の乱が勃発しているので、この乱が収まってからだろう。勝者の大海人皇子の妃 鸕野讃良姫は天智天皇の実の娘でありまた、天智天皇の実の子でありながら、大海人皇子側についた皇子もいたので、その人達なのでしょうか?
  どこに陵を作るか?と話がなり、負けた近江朝廷の本拠地 大津の宮周辺ではまずいだろう。でも飛鳥の宮のそばも、天武天皇がいやがるだろう。両方の間にある、山科では。と決まった。

  今でも日本では、亡き人を偲び、初七日、四十九日、一周忌、命日等、法要、供養として、お墓には訪れる機会は多いよね。この時代も同じで、陵が遠くては不便だから、飛鳥の宮からさほど遠くない場所として山科が選ばれた。 少し、話の流れに無理があるか。?

2)禅譲を断られた、天智天皇は、もう大海人皇子は政権に興味がないと感じて、安心し、病が一時的に快方し、馬にも乗れるほどとなり。病の間出来なかった、狩りをされたくなり、馬に乗り、それまでも幾度か狩りに行かれていた、山科の原へ。そこで何か不測の事故で、行方不明になられた。探してもついに見つからず、お亡くなりになったとされた。それ故、亡骸が残されていないので。行方不明の場所に陵を設けた。

 探したけれど見つからないから、亡くなられた? 何か強引だよね。無理があるよね、作為を感じるよね。

  この説を唱えている歴史学者は多いようです。ただ、日本書紀を買って、幾度と読んでいるのですが、どこにもその記述は見つからない。おそらく専門家はその他の有力な資料を基に展開されているようです。私はまだ、そこまでに行き着けていません。歴史学の奥の深さを感じます。
  万葉集の歌の中に、狩りに出かけ、行方不明になったことを、暗示している句が何種かあるとのこと。
  万葉集の知識は皆無。また勉強しなければならない事が、増えました。

3)倭国を利用しようと狙っていた、外国の勢力が強く介入してきて。その外国勢力に山科の原で暗殺された。

  そこでその地に、陵を設けた。

 その外国勢力の代表者が、唐からの使者、郭務悰でした。そして、白村江の戦いの後、幾度となく使者を送り込んできている、新羅。この時期まさに朝鮮半島では、百済、高句麗が滅びた後、覇権を得ようとして、唐と、新羅が戦争状態でした。

 唐と朝鮮半島の覇を競う新羅の勢力は倭国に幾度も使者を派遣し、自分の国に取り込もうと必死でした。

  大海人皇子は新羅派。天智天皇、特に大友皇子は唐派。とされている。

 ここで、白村江の惨敗の後、唐の使者 郭務悰は二千人以上の使節団(早い話が進駐軍)を率いて、度々来訪していた。
壬申の乱 (672年6月勃発) 直前の時系列を日本書紀から拾い出してみました。

(1)   664年 5月(白村江での大敗は前年の663年8月

   郭務悰 上表文を納めた函を持って来訪。正式な外交文書

 「お前達は負けたのだから、我が国(唐)の言うことを聞け。」

   大敗から僅か1年足らずの来訪、この強引さは、今の中国に被るようで、興味深いですよね。

(2) 664年10月1日 

   天智天皇は郭務悰に勅(みことのり)をお出しになった。正式な外交返書(謝罪文か?)

   「すみませんでした、唐国のオッシャることは何でもその通りにします。」m(_ _)m

(3) 664年10月4日 

   郭務悰等を饗宴し御機嫌を取った。

   「まあまあ一杯、お手柔らかく今後ともよろしくお願いします。」

(4) 664年12月    

   郭務悰等は帰途についた。

   (やっと帰って行った。)

(5) 665年 9月    

   郭務悰は使者の補佐役として上表文を納めた函を持って来訪。

(6) 665年10月13日 

   郭務悰の上役と共に饗宴し御機嫌を取った。

(7) 665年12月          

   郭務悰等は帰途についた。

   (何回くるんや!)

(8) 667年 11月      

   郭務悰 補佐役として来訪?

*  668年 5月   

   天智天皇ら皇族家揃って、蒲生野で狩り遊び。

   「ヤレヤレ、もう大丈夫だろう。」 ┓( ̄∇ ̄;)┏

    ここで、あの万葉の名歌 額田王姫(ぬかたのおおきみ) 

    「茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

    返歌 大海人皇子(おおあまのおおじ)

    「紫草の 匂へる妹を 憎あらば 人妻故に 我恋ひめやも」

    額田王姫と大海人皇子の遣り取りがあった。ほっとしてたんだろうな。

(9)   668年 7月  (蒲生野原の狩り遊びからたった2ヶ月後)        

    郭務悰 唐の属国になっていた、百済の使者を従えて来訪?

    甘かった、唐と新羅の関係が悪化し朝鮮半島情勢が険悪化に対応する為か。
    ますます、唐か、新羅かの難しい選択を迫られて行った。

(10)  670年             

    郭務悰 二千人の使者を伴い来訪

    (倭国の当時人口 五百万人、今の日本の人口 一億二千万、で換算して 四万人以上やんか)

     (進駐軍GHQマッカーサー登場、この年から、郭務悰が 672年5月に帰国するまでは、
          倭国は事実上占領された状態だった? (*´д`*))

(11)  671年 9月      

    天智天皇 政権移譲を大海人皇子に打診。

    「こんな、唐に占領されたような国いらんわ。大友皇子を世継ぎにしたいんやったら、取りあえず、皇后の倭姫王を天皇に立てて、大友皇子を皇太子にしたらいいやんか。私は郭務悰の目に着かんように吉野に隠れて、唐の敵国 新羅とコッソリ仲良くして、倭国を建て直すわ。」
        (そういえば、大海人皇子一行が吉野へ旅立つのを見送った、近江朝廷側の家臣が「虎に翼を着けて放すようなものだ」と言った、虎は朝鮮の獣だよね、(加藤清正の虎退治から妄想)新羅を暗示しているよね。)

(12)  671年 12月     天智天皇 崩御

(13)  672年 3月18日  

    筑紫に進駐していた、郭務悰に、天智天皇がお亡くなりになられたことを、大友皇子の使者稲敷が告げた。

     郭務悰 等はことごとく喪服を着け、三度悲しみの礼をした。(哀悼の意を表した。) 
     (郭務悰は、九州 筑紫に布陣していたんだ。北九州は唐の占領下?)

(14)  672年  3月21日 

    郭務悰 唐の皇帝からの国書を使者 稲敷に奉った。

    (断れない状況で、対新羅の戦争用物資の要望と、忠誠を命じられる。)

(15)  672年  5月12日 

    郭務悰(GHQマッカーサー)に、大友皇子(もしかしたらすでに即位して弘文天皇になっていたかも。)の指示で、朝鮮半島戦争用物資として。甲 冑 弓 矢等を賜う。

     (唐の対戦相手の新羅にしては、とても困るんだよね。戦争用物資を唐に献上した大友皇子側は完全に、唐派だよね。)

(15)  672年  5月30日 

    郭務悰 進駐軍は、朝鮮戦争に参戦すべく。 筑紫から帰途についた。

    (戦争用物資をせしめて僅か半月、待ちわびていたんだな。)

(16)  672年  6月22日  

    大海人皇子行動開始 諸国に近江朝廷との開戦を伝令。

      (目の上のタンコブ、郭務悰がいなくなったという、情報がわずか22日掛からずに、筑紫の太宰府から、吉野に届いたのでしょう。)

      (電話も、インターネットも無いこの時代に、早馬でしょうか? 瀬戸内海を船でしょうか?
      しかも、近江朝廷側(大友皇子側)が、大事な武器を大量に、唐国 郭務悰に渡してしまった、という情報と共に。近江朝廷側に武器が少ない。絶好の機会と容易に判断できたよね。)

(16)  672年6月24日 

    大海人皇子、鸕野讃良姫ら、吉野を脱出 壬申の乱の勃発

   なんか繋がっているよね。 (*^-^*)

  天智天皇稜の入り口に、日時計が設置されていました。近江神宮の中にも、水時計が設置されていて、時計をどう皆に伝えたかったんだろうかな?と思えました。

 天智天皇稜のお参りを済ませ、万葉集の恋バナ 蒲生野にホンダLIFEで。

 


 

 

蒲生野(がもうの)
  茜さす紫野(あかねさす むらさきの)ゆき

行ってきました。

 滋賀県東近江市船岡山に鏡神社があり、その隣が 万葉の森として、公園になっていました。
小さいけれど無料の駐車場がありました。駐車には困らないと思います。

 

 

 

 

 万葉集にある歌が、カタカナひらがなもまだ無かった時代、全て漢字であったことを、歌碑を見て実感しました。

「君が袖振る」 が漢字でどう表記されているか、確認してください。

 

 

 陶板製の、あの恋バナをモチーフにした、大きなモニュメントがありました。

 日本書紀に、668年1月 天智天皇が正式に即位され、その年の 5月(新暦7月の初夏の頃か)に天皇、皇族、群臣全て打ちそろって、即位のお祝いや、慰労をかねて、蒲生野(滋賀県東近江市 船岡山周辺)に行かれ、遊猟されたと記述されています。

男は狩猟、女は薬草などの草摘み。要するに、今で言う社員旅行、レクレーションのようなものらしい。

まあ軽いお遊びだから、皆が気が緩んで時間を過ごし、その夜の宴会で、歌会が始まり、当時絶世の美女 額田王姫が とんでもない恋の歌を。(-.-;)y-~~~ 壬申の乱の原因になったと言われる事態が勃発した。

 茜さす 紫野行き 標野行き 
  野守は見ずや 君が袖振る

 と額田王姫が詠った。

 大意(今日の狩りのために、用意された、見晴らしの良い綺麗な野原で、あなたが私に手を振ったりして、もお! 夫(天智天皇)に見つかってしまったらどうするのよ)

 その宴会に出席していた人々は、3人の事情を知っている人々であったろうから。その場が凍り付いたんだろうな。

 でも、そんなことは気にせず。(天然か?)

 紫草(むらさき)の 匂える妹(いも)を憎あらば
  人妻故に 我恋ひめやも

 と大海人皇子が皆の前で 返歌した。

大意(貴女は美しく匂い立つ紫の花のようで とてもステキだ。 貴女が他人の(兄の)妻だから 余計に恋しくなってしまうのでしょうか。)

  天智天皇 「酒の席とはいえ、皆の前で、ぬけぬけと、まだ切れていなかったのか! 何時か懲らしめてやるからな。」

 藤原鎌足 「あー、又兄弟喧嘩になりそうやな、俺が中に入って仲裁しているから良いけれど、俺が居なくなったらどうするつもりやろ。」

 (心配が現実になり、翌年669年10月 天智天皇と山科の原で狩りをしている時、鎌足が落馬骨折し、それが元で亡くなってしまう。もお、兄弟喧嘩を止めれるものは居なくなった。)

ここで私が気になるのは、その席にいたハラハラしている男性陣だけではなく、男女の情に敏感な女性陣です。

  天智天皇の正妻 倭姫王(やまとのひめみこ)は「後から入り込んできて、夫を良いようにもてあそんで、厚かましい女め!ヽ(*`Д´)ノ」

 大海人皇子の正妻 鸕野讃良姫(うののさららひめ)は「とおの昔に、夫から追い出されたくせに、まだ未練が有るんかいな、厚かましい女めヽ(*`Д´)ノ」「あんたには絶対返せへんからな。二人を遠ざける良い方法は無いかしら?」

 その他の、妻達 「もおー、そんな謡唄うて、兄弟喧嘩になったら大変やんか、なるべく関わりにならんようにしとこ。」

 

 

額田王姫(ぬかたのおおきみ)

   天智天皇の妃の一人(何人もいる)元は 弟の大海人皇子の妃の一人

   天智天皇(当時 中大兄皇子)が見初めて、是非にと 大海人皇子から譲り受けた。(奪った)

   その時、既に大海人皇子との間に女子を一人設けていた。

    その女子が、天智天皇の息子大友皇子と結婚し、男子を一人設けていた。

    壬申の乱の後、消息不明。乱に巻き込まれて、亡くなったか。

もしかして、どちらかの女人陣に??


万葉の、どろどろのロマンスに浸って、今日の見物は終わり。

 今日の泊まりは、以前にも泊まった サンホテル大和郡山、高速を使わず、ゆっくり見物しながら、ホンダLIFE

で行こう。

 途中の、瀬田大橋で、横に見える古そうな橋がもしかして、大海人軍と近江朝廷軍が争った、瀬田の唐橋?

あっ、前の信号が赤になった。ブレーキ、、橋の上、雨の日、皆さんスリップには十分注意しましょう。

キイーー ザーー 前の車に、止まれる寸前に 止まりきれずに、ゴツンと追突。

その後は、あれやこれや、もう大変!!!(x_x;)

前の車の運転手さん、心から「ご免なさい。」

 ホンダLIFEは前のバンパーが少し凹んだぐらいなので、旅行を続行。

ホテルにたどり着き、気晴らしに、前に利用した、大和郡山の居酒屋「おねえ」でガブ飲み。

朝ホテルの部屋で目覚めて、夜にカップラーメンをコンビニで買って、部屋で食べたようで。

アレ、持参のNECノートブックのキーボードにお汁がカカっている。何個かのキーが反応無し。

その後いろいろ試したが、ダメ。ホンダLIFIも、NECノートパソコンも  これは祟り以外の何物でもない。

 


続 「壬申の乱」を訪ねて 二日目へ進む 

 飛鳥 天武天皇 持統天皇 合葬陵へ 参拝

    助けてください! 

 


◎ 古代史 のんびり散歩 
   スタートページ です。
   (新作順表示)

◎ 目次ページ
   (創作順表示)

◎ 「難波宮ッテ?」
  古代史感のすれ違い

   メイン ブログです。


 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


コメントを投稿