難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

黒塚古墳から、大和川沿いを、応神 仁徳陵へ

2014年10月23日 | 歴史

平成26年10月23日
黒塚古墳に行ってきました。

場所は、柳本古墳群と言われる、奈良県天理市にある、祟神天皇陵や景行天皇陵などの古墳群のひとつです。





 箸墓古墳のある、巻向古墳群の1kmほど、北にあり、造営時期が、巻向古墳群の次の時期とされているようです。
 私の興味の主体は、乙巳の変から、壬申の乱までの、大動乱で、あまり古墳には興味がなかったのですが、歴史のガイドブックに、古墳の上を歩いて見学できる。と書いて、可愛いレポーターが散策している写真に興味がわき、やってきました。(女房には勿論内緒。)
古墳を車で一回りして、駐車スペースを見つけ、公園になっていたので、歩いて中へ。
公園の中に資料館がありました。
天理市立黒塚古墳展示館でした。


 
早速、見学。
発掘された時の、状況や、発掘された品々が、展示させていました。興味を引いたのは、やはり、銅鏡で、銅鏡の中に何種類かの区分があり、使われ方も違うということを知りました。私が学校で習った三角縁神獣鏡は、その中の一つで、一番多く発掘される種類らしい。中学の歴史の授業で、社会科の清水先生に、「耶馬台国の卑弥呼は魏志倭人伝に、魏から多くの銅鏡、三角縁神獣鏡を貰ったと書かれているから、今後、発掘作業で鏡が多くでる古墳があればそれが、卑弥呼の墓だ。」と習ったんだけど、それから、多くの古墳から、銅鏡が出てきて。肝心な天皇陵は発掘されないし。
この黒塚古墳からは、33面の銅鏡が発掘されたとのことです。



三角縁神獣鏡をよく見たことが今まで無かったけれど、今日は来場者がほとんど無く、じっくりと顔を近付けて見れて。恥ずかしいけれど、三角縁って、銅鏡の内側は磨かれれば、顔が男前に(私の場合は特に。言った者勝ちです。)、美女はより美しくにはっきりと、そうでない人はそれなりに映り。その裏面の外周が尖るように三角形に加工されている為と、知ることが出来ました。レプリカが展示され、自由に手に取って顔を写すことが出来ました。



神獣鏡の意味も、裏面に虎や龍の浮き彫り、神様の(中国人が考えている人物像で、私達日本人には馴染めない紋様)浮き彫りがあるためと知りました。
何より、裏面に円周状に漢字が刻まれ、年号や製作意図、効能が記載されているのは、見て初めて知りました。今回の旅行で、7支刀が見れなかったのは、これを見るためだったのか?(強く自分に言い聞かす。グッスン💧)



発掘された時の状況が再現されていて、興味が涌いたのは、棺の埋葬者の頭の部分の周りを、囲むように、銅鏡が鏡面を埋葬者に向け、飾り面が外に向くように、ズラリと並べられて置かれており、何かの意図を感じられました。案内では、埋葬者の権威を表現するためと、今の日本人にも通じる、死者の祟りを封じる為とされており、周りに置くのは三角縁神獣鏡で、種類により、割られて壊され、埋葬者の頭部の延長線上に置かれる銅鏡があり、今の葬儀で出棺の際にその死者が使っていた、お茶碗を割る習慣に通じると教えていただいた。(こんな昔の習慣が続いていたんだ。)



そういえば、九州探訪のおり、吉野ヶ里遺跡で、案内人さんから、埋葬者の墓の中にはよく、割られた銅鏡が同時に出土しますと。聞いたことを思い出して、吉野ヶ里遺跡の弥生時代から、古墳時代、そして今の日本に続いている大きなモノを感じました。
前方後円墳の周りの池、水の緑色の濃さに威厳を感じました。



案内では、江戸時代武家屋敷に成っており、池のある裏庭とされていたようです。


黒塚古墳の後円部に登る階段


後円部の上から望む






後世に、古墳が城、砦、屋敷、お社等、色々なものに流用されたようです。




 何人かの、歴女が、訪れていました。私が声を掛けられるはずもなく......(写真 削除)
 
 古墳が色々なものに流用された事は、後世に、その意味が伝えきれなくなり、忘れ去られ、池と小山があるから、丁度良いと庭や砦になっていったんだろう。特に、武士の時代に激しくなったようです。朝廷と武士の歴史伝承の戦いを見るようです。

天理市立黒塚古墳展示館
奈良市天理市柳本町1118-2
TEL 0743-67-3210


大和川沿いを下り、応神 仁徳陵へ

 黒塚古墳の見学を終え、古墳巡りとして、河内、中百舌鳥古墳を目指した。
黒塚古墳のある、天理市から、斑鳩の里を越え、藤井寺市、羽曳野市の河内に行くには、大和川を下るコースと、葛城の里を経由する、竹ノ内街道を利用するルートがあり。今回は、古代にはおそらく船で行き来したと聞いていた、大和川を下るルートを愛車のホンダLIFEで、河内王朝へ向かいました。所々に、昔からの家並みや、道筋があり、とても興味を沸き起こしてくれました。
 高速道を使わず、なるべく大和川沿いを走りました。走りながら、思いの外に多い水量と、その流れの早さ、山あいを抜ける時の高低の大きさに驚き、「本当に、古代人は此処を船で行き来したんだろうか?」と大きな疑問を持ちました。

 山間が開けて、河内平野に、立ち並ぶ街並み、マンション、等の中に、埋もれるように、幾つかの古墳が見え隠れしだし、交通量の多さと、大阪人の運転の荒さに、(自分も同じ関西人で、運転は荒い方かもしれないと反省しつつ)気を取られながら、ナビで応神天皇陵を探し、「此処か?」(後から、地図を見直し、どうも裏手に回ったようで)小高い、木の生い茂った森と、その周りを取り囲む池があり、そのギリギリまで、近くに立ち並ぶ民家と、果樹園に歴史的な感想は出てこず、写真を撮ろうという思いすら思い付かずに(後から、写真を取っていなかったことを思い付いた。)只、確かに大きい古墳という印象だけが残りました。地元の人(周辺に住む人)は、此処を観光地にしよう、などとは決して考えていないだろうということが、ハッキリと確認できました。


仁徳天皇陵
 大仙陵古墳 百舌鳥古墳群

応神天皇陵から、堺市の仁徳天皇陵へ車で移動しました。
 応神天皇陵から、仁徳天皇陵までは、15分ぐらいで、私の認識より近く、応神天皇から仁徳天皇への、歴史的な繋がりを感じました。
何故そういうかと言えば、私の現役時代に営業で堺市、藤井寺市、羽曳野市はお得意様が多く、よく車で、走り回っていたもので。知っているつもりだったのですが。
そういえば、中百舌鳥地区(堺市)を廻るときに、古市地区(藤井寺市、羽曳野市)に行くことはほとんど無く、逆に古市地区を廻るときは、そこから中百舌鳥地区へ行った記憶はほとんど無く、頭のなかでは随分離れた地区と思い込んでいたせいです。そういう人は多いんじゃーないでしょうか。
もう一つ反省している事に、それぞれの、天皇陵が何処に在るかさえ、知りませんでした。中学時代に、歴史の時間に、担任の社会科担当の清水先生に、堺市や藤井寺市に(もしかしたら、藤井寺市はその当時名称が違ったかもしれません)世界一大きな古墳、天皇陵があると教えていただいた記憶は有ったのですが。仕事中にサボって探す程の興味がありませんでした。
今日、先の応神天皇陵をナビを見ながら探すのに、交通量の多さに苦労し、その周辺の道の狭さに悩まされて、おうじょうしました(大変だった)。
仁徳天皇陵は、案内板も整備され、迷うこと無く辿り着けました。堺市と、藤井寺市の古墳に対する、対応の違いを感じてしました。周辺の整備もとても大事にされていると思いました。(後から、その理由が分かります。大阪人がタダで銭出すかいな!)
 陵の前に(どの天皇陵も、前方後円墳の前方の前を正面として、鳥居や〆縄や、案内板があります。)駐車場があり、(有料でした。)そこに止め、いざ仁徳陵へ。
陵の前一帯は公園に整備され、参拝者(?参観者)も多く、外国からの人も見受けられました。天皇陵だから、宮内庁の管理で、此処には職員の派遣所があり、職員が定期的に、敷き石を庭棒木で清掃している光景を見ることが出来ました。
陵の前でたたずんでいると、ボランティアの案内員のお母さんが、寄って来て頂いた。案内は、仁徳陵の歴史に始まり、明治から現代に至る保存の苦労話や。
「明治以前は、100以上あった、中百舌鳥古墳群が、住宅開発等の為に、今は40基程になってしまった。」と、教えて頂きました。
また、「仁徳天皇陵などの、大きな陵のそばには、倍陵と言われる小さな陵が幾つかあり、これは、なき天皇を偲ぶため、血縁者や、家来が、自分が無くなったとき、その側にお墓を作ったものです。」と教えていただいた。
「今、前方の正面から見ているから分かりづらいんですが、この先の後円部の方が位置が高く、前方部から後円部の麓までは平坦になっています。このへんの上下の感覚は今丁度、この公園の中にある、堺市博物館で、上空から見える映像が公開されていますから、是非体験してください。」 
「小型の無人ヘリコプターに撮影機を積んで撮ったものです。宮内庁から、上空撮影を特別に許可頂いて出来たことです。」

「さすがに商売が上手ですね。」 (ごめんなさい m(__)m)

「明治以前に100以上あった、古墳が40基程になってしまって、このままではいけないと、堺市は、ここ中百舌鳥地区と、古市地区古墳群をユネスコの世界文化遺産に認定してもらおうと、運動を始めているんです。暫定登録は2008年にしていただけたんですが。」


「認定されるといいですね。」
(そうか、それで周辺状況が良かったんだ! 宮内庁も職員を派遣するよな。)
案内頂いている内、常にここが仁徳天皇陵てして、話されていて、大仙陵の言葉が一言も無いので、つい悪い癖で。
「ここの大仙陵に間違いなく、仁徳天皇が葬られているんでしょうか?」

「間違いありません!」「百舌鳥古墳群の中には、推定天皇があべこべじゃあないと言われる陵も在るんですが。」「調べることができれば、間違いないことが証明できるんですけどもね、何しろ、天皇陵の発掘調査は宮内庁が絶対許可しそうにありませんからね。」


「まっ、私も自分の先祖代々の墓を、他人が勝手に掘り起こすと言われたら、絶対嫌ですもんね。」


 














 案内人さんの、ご推薦で、道を隔てた同じ公園内の堺市博物館に、見学に行かせてもらいました。
常設展示場で、ご推薦の仁徳天皇陵の上空ジオラマを大画面で見、その雄大さに感動しました。ようもまあ、こんな大きな陵が築けたものと感心し、それが可能だった政権の基盤の強固さを実感しました。
展示されているもので、明治時代の写真があり、今より随分木の少ない事は、近隣の住民の薪取り場なっていたのではと思え。またやはり、盗掘があったのではないかと思える照会文も気になり、明治以前はやはり、今とは随分違う物として、人々が見ていたと思えました。
 それに、この中百舌鳥地区には、その当時、100以上もの古墳があり、大昔から、そこにあったのですから、そこに住む人々にとっては、古墳は普通の丘や小山、お堀は、池として、認識していても不思議ではないと思われました。

堺市博物館
大阪府堺市百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
TEL072ー245ー6201


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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


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