お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

うつ病

2012年10月17日 | 日記
今、出先にいる。
メシができるのを待っている。

それはそれとして・・・・

このところ心というよりも精神のバランスがどうもおかしい。
隠すことでもなんでもなく、俺は過去にうつ病をやっている。

正確に云えばきちんと精神科医のところに行ってそう診断を受けたのは35歳くらいのときだが、
自分の感覚としてはもっと以前から軽度のうつ病には罹っていたのだと思う。
思うだけでなく、その点を細かく医師に申告・相談したら「その可能性は大」とのことだった。

自分の記憶を遡れば、子供のころからその兆候は出ていたのだ。
しかし、アホな子供だった俺にそれが解ろうはずもない。
子供から思春期にかけては精神が不安定な時期を誰しもが経験するし、
俺の場合は症状も軽かったのだと思う、日常生活に大きな齟齬はなかったのだ。

ところが、これが20代にくる、社会人として仕事を始めるとなると問題は表面化する。
今から思うに20代は非常に苦しかった時代で、自分の弱さも加算されて精神は揺れに揺れていた。
起きれない、体が動かないということはあったけど、俺はそれは自分の弱さゆえだと断じてしまっていた。
事実、こういうのって、ある部分はそうなのだと思う。
重度のうつ病に苦しむ方々の手記本などを読むと、自分の症状がいかに軽いものかが解ったし、
ちんけなプライド、つまりは無益な虚栄心のせいで意地を張って弱さを克服しようと思って病院は避けたのだ。

その結果、たまりに溜まったうつ病エネルギー(?)は30代半ばに暴発することとなった。
すごかった。
死にたいとか、それよりもっと落ちて「消えたい(過去、現在、未来)」になった。
ものの本によるとうつ病ってそうなるらしい。
死ぬ元気も削がれたその先だ。
あれは・・・・
今、少し思い出しただけで寒気がする。 恐怖、嫌悪、負のパルス、最悪の自分だったから。

ここから先は少し書くのが恥ずかしい。

この頃、過去にそう診断を下されたことはないのだが、「被害妄想」が顕著(かもしれない)。
だから、明日久しぶりに主治医の所に行くつもり。(主治医ったって、ようは担当の先生ね)

なんだかつまらない事にやたらと腹を立てて、他人に対して過剰に悪意を感じてしまっていた(かもしれない)。
普段好感を持ってる相手なのに。 冷静にみると相手は普通に応対してくれているのに。
今日、ある人のお陰でそれに気づけた。
思い出したのだ。
「そうか、忘れかけていたが俺にはその気があったな」と。
もしかしたら単なる疲労など重なったゆえの一時的な勘違いかもしれんが、
これって放っておいて悪化の一途を辿ったら大変なことになる!

こんなこと・・・仮に他のブロガーさんがこの記事(日記)を読んで、こいつ気が変な奴だ、
なんて思われることもあろうからホントなら黙っておくべきことなのかもしれない。
俺だって頭がおかしい奴と思われるよりは、ナイスガイ(死語?)と思われたい時もある。
しかしながら、それじゃ駄目だと、今は思っている。
うまく説明できないが・・・。
例えば、このブログを読んでくれる奇特な人が存在するならば、
俺にはこういう性質もあるんだよということを明白にしておきたい。
その方がフェアだと思う。
近い将来、この考え方が変わる可能性もあるけれど、今はそう思ってる。

こう思う

2012年10月17日 | スピリチュアル
人は、天使にはなれない。
でも、天使のような人、にはなれるかもしれない。
俺も好きなアッシジのフランチェスコはそういう人だったと思うのだ。
十字軍の騎士として従軍し、負傷し心傷つき故郷に逃げ帰ったフランチェスコ。
死線をさまよった先にあったのは「出家」という選択だった。

多くの使用人を召し使う裕福な実家を捨て、両親に別れをつげ、出家したフランチェスコ。
彼は徹頭徹尾に清貧をつらぬき本当のキリスト者として生き抜いた。
(今現在のフランシスコ会はカトリック修道会随一の資産持ちだそうだが、それは後世の話)

俺はフランチェスコにあこがれる。
何度「出家したい」と思ったことか。
だけどその願いは弱かったと言われても言い返せない、俺は今でも俗世で生きているから。
俺は単に「天使のような人になりたいと思う者」だ。
だいぶんあやふやな、いいかげんな者だ。

しかしそれでも、どうやら俺はそれを目指した方がいいらしいのだ。
俺は普通には生きれない欠陥人間だ。
それは甘え。否定できない。それは逆に傲慢。否定できない。
でも現にまともには生きれなかった。
定職につかず、家庭ももたず。

人並みに焦燥や疑問を抱くことも多々ある。
人はそんなにスッキリ納得ずくで生きられないものだと思う。
みんな悩みながら生きている。(悩んでない人間はいない)
悩んだ先に見えてきたもの、それが「~者」になることだった。

但し、その為には何より忍耐が必要になる。(今までも必要だった)
物事に拘らず、権益確保のための自己主張を捨てるとそうなるのだ。
いわく、
「頭がおかしい」
「単なる偽善者だ」
「自己満足に逃げる負け犬」
これらの言葉や視線、あつかいが胸に突き刺さる。
満身創痍になることもめずらしくない。
でも、俺にはそういう生き方しかできないのだと悟ったのだ。(釈迦の言う「悟り」ではない)

つらい生き方。
だけど喜びは大きい。
それが一番自分に素直ということだから。
世の中を捨てるということではなく、自分の中の「欲」を捨ててしまうのだ。
もう半分はできている。
しかしもう半分、これが難しい。本当に難しい。試行錯誤の連続。失敗もある。

でもね、これが一番「ああ生きている。人生はすばらしい」と思えるから。
覚悟は何度も揺らぐし迷いはいつも混ざるけれど。

少しずつ、少しずつ。
そうやりながら歳を取れたらいいな。
それで充分。

アーメン