お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

人による 時による

2012年10月03日 | キリスト教会
人間っておもしろい。

レコードにもA面B面あるが、人間にはC面もD面もある。


池波先生は「剣客商売」の主人公・秋山小兵衛に、

「世の中、白と黒だけで切り分けようとするから無理だ出る。

 人間には白と黒の中間もあれば黄もある緑もある、赤があって青もある。

 ひとつの色だけではとてもおさまらない。 それが人間さ」

というようなことを、うる覚えだけど、言わせていたと思う。


俺は世の中の仕組み「のようなもの」をサラリーマン時代の経験と池波正太郎から学んだ。
ひと頃、いや今も、日本の中学校国語教育は漢文と万葉集、
そして「池波正太郎 全巻」を教材にすればいいと真剣に考えているのだ。
「司馬遼太郎 全巻」まで加えれば歴史教育も同時に済んでしまうだろう。

ちなみに「歴史観」なんて基本はそんなものだ。
みんなそれこそ「分かったつもり」になっているにすぎず、
誰でも必ず誰かの「史観」の影響下にある。(日教組、時々の歴史教師、司馬さん、海音寺などなど)
新選組の近藤勇の歴史観のほとんどは頼山陽の「日本外史」だった。
興味があったら「日本外史」、読んでみるといい。
中身なんてペラッペラでびっくりすると思う。
でもそのペラッペラで幕末では「その時歴史が動いた」のだから馬鹿にできないではないか。

先日、教会の兄とも慕うペテロさん(仮名)に、悩みのことであれこれ話をしてた。

その際ペテロさんが言うには、

「君は心臓に毛が生えたみたいな人なのに、馬鹿に神経質なときがあるねえ」

そうだよ。 「心臓に毛がはえてる」時の俺も俺。

だけど、水滴が落ちる音にさえビクつく神経の持ち主である俺も俺、なのだ。

どっちも本当の俺。

そこで俺はペテロさんにこう説明しておいた。

「俺は、例えば仕事をする時には全身に鎧を付けて、左手に盾を、右手には剣を持ちます。

 戦いだから非情になるときもあるし、巧緻を屈指するときもある。

 だけど、『家の自室にいるときと教会にいるとき』だけは別なのです。

 教会にいるときの俺はほぼ素っ裸に近い。 ごくごく自然体。 心から安心してるです。

 そんな時、悪意を持った完全武装の敵に急襲されたらどうなるか?ということなんです。

 当然、瀕死の重傷を負うでしょう? 今はその状態なんですよ」