お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

あたたかさは無償の愛・・・?

2012年10月11日 | スピリチュアル
気がついたことがある。

自分の中に燃えるもの・・
情熱というか、
やる気、というか、
向上心のような前向きな心、

自分の中がそういうもので満たされている時には、気持ちも自然と優しくなれる。
瑣末なことが目に入らなくなる。
矮小なものを簡単に許せる。(小物がそれなりに、小さく見える)
周りの人々にもそれは通じるみたいで、自然とその場が暖かい空気に満たされる感じ。

逆に心が冷えると駄目。
世の中の小物たちにいちいち腹が立つ。
とげとげしくなって喧嘩腰になる。
周囲にはそれは「寂しさ」や「孤独」と映るのではないか。

人間、一生、ずっと、あたたかでいることは無理なのだと思う。
しかし、常に「心がけること」はできる。
嘘でもいい、偽善でもかまわない、桜井章一じゃないけど、「あたたかきは万能なり」。

あれはどうも本当らしい。

でも、このあたたかくある・・・というのが案外難しいんだ。
何故か?

それもちゃんと考えた。
多分だけど・・・

そこには無償の愛が必要だからだ。
無償の愛は難しい。
本当に難しい。

でも、それに生涯をかける価値は十分にあると思う。




しかし、いつも、いつでも人間強くなれるわけじゃない
へこむことだって へこむことのほうが多い
それでも生きなきゃいけない
自分が生きれるようにする作業をするべきだ
それが修行なんだろうと思うからだ
修行は死ぬまで続く
それで、その上で、自分が不幸でも、軽蔑を受けようと、
自分より不幸で軽蔑を受けている人を助けなくちゃいけない
それが無償の愛だからだ
愛を受けずに、与えるだけというのは、相当に苦しい
ほとんどできないのではないか
でも、できなくても、めざすことは出来るんだと思う
めざせ、それが人生
イエスが言ってるのはそういうことだと思う
それが嘘じゃないことを証明するためにイエスは死んでみせた
会ったこと無いけど立派な人だと思うのだ
だから俺はキリスト教なのだ
「キリスト教会」教じゃない
いうなれば「イエス主義」だ
イエス主義を他人に伝えるために、どうすればいいのか悩む
教会勧誘ではないだろう
勧誘はしない けれど伝えたい
じゃあどうすればいい?
いま、ここで悩んでいる