「 夢職で 高貴高齢者の 叫び」←という方のブログのブックマーク欄には戦争体験や戦争を語り継ぐ証言集が多数載せられています。
以下 ブログ主の高貴高齢者さんからのコメントと一部、戦争中の食糧事情についての記事を抜粋して掲載しましたので、是非全文をお読みください。
「私は7歳のときに戦争の恐ろしさを体験しました。幼い時の記憶ですが、戦争を知らない人たちへ戦争の悲惨さを伝え、戦争とは何かを考えてもらいたいと思っております。たくさんの人たちに《ボクノ見た戦中戦後》を読んでもらいたいと思っております。
年金者組合の方に紹介してくださるとのこと、有り難く思います。
その他の方々にも《ボクノ見た戦中戦後》が読まれ、広まって行くことを期待しております。どうぞ、よろしくお願いします。」
人間の食事用に豚の餌を配給*ボクの見た戦中戦後(23)
あの頃、ボクは空腹を我慢できなくて、母へ食べ物をねだっていた。母は決まって「縄でもかじっていなさい」という返事をしていた。駅の売店(キオスク)にニッキというものが売られていた。木の小枝を鉛筆ぐらいの太さに割ったようなもので、その皮を歯でしごくと良い香りと味がした。ニッキの木をかじったりしゃぶったりして空腹を紛らわしていたのだ。
~中略~
父に頼まれてボクはタンポポを摘んで花びらを乾燥させ、タバコを作った。当時のほとんどの成人男子は喫煙者でありタバコの配給があったが、これでは不足だったからであろう。空襲や警戒警報の合間に、食べられる草を探して歩いた。皆がひもじい思いをしていたのだ。
まともなご飯がなくても、よもぎや大根の葉や大豆などの入ったお粥が食べられるのは良い方だった。大豆の油を搾った残りかすが食料として配給された。 大豆かすである。直径20~30センチ、厚さ10~15センチ程だったろうか、灰色で石臼のような形をしたものだった。岩のように硬いものだ。それを鉈で削って食べた。人間の食べ物ではない。本来は粉末にして豚や牛に食べさせる餌なのだ。ボクたちは豚の餌を食べて生き延びてきたのだ。
~中略~
飽食の時代「ひもじい」は死語になった。しかし、いつか戦争が起きれば庶民はボクたちが食べてきたものを食べざるを得なくなるであろう。戦中戦後の食べ物を体験しようと「すいとん」を試食するイベントがある。すいとんは贅沢な食事なのだ。現代風に味付けし、ただ一度だけ、すいとんを食べただけで、戦中戦後の食事が理解できようか。ボクたちが食べてきた野草の入ったお粥や豚の餌を一口でも味わっていただきたいものだ。特に戦争を知らない国会議員の先生方には一食分を残さずに食べてから、戦争を論じていただきたいと思う。