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Liberation of FREEDOM!

活動再開。いま関心があることについて書きます。

文化の社会学とカルスタ

2013年03月11日 | 社会学
それぞれの本の要約作業を遂行しつつ、両者のちがいを考えてみる。

まず、出版年にみる違い。「文化社会学」のほうは1994年、「カルチュラル・ターン」は2003年。英国カルスタ自体は80年代頃から興ってきているから、土台はあった。しかし、カルチュラル・ターンなるものが90年代末に起こったことを考えると、吉見が「文化社会学からカルスタへ」の転向を果たした理由はカルチュラル・ターンにありそうだ。

文化社会学 sociology of cultures は、「メディアや表現の世界に焦点を当て、文化の生産や消費を、そうした表象をめぐるコミュニケーションの重層的な過程として捉え直していく」という記述がもっともわかりやすい。
「コミュニケーションの重層的な過程」あたりは、文化をパフォーマティブにとらえていくカルスタと同じである。ポイントはふたつ。第一に、文化をそれ自体が統一的な何かとみなすような人類学的視点を解体し、プロセスの集積として考えること。第二に、単純な技術決定論やマルクス主義に陥らないこと。

正直、肝の部分はかなり同じな気がする。いちばんの違いは、権力作用への敏感さであろう。
文化社会学のほうが穏やかな文化観というか、歴史的な部分を十分射程におさめながら、文化の構成性と被構成性のダイナミックな相互性を考えていく。
一方、カルスタは行為主体の対立に敏感。グラムシのヘゲモニー論を視野に入れながら、「支配的な読み」「対抗的な読み」「オルタナティブな読み」などが織りなす文化を考える。文化が形成されてくる過程を徹底的に政治的な場として考え、そこでの権力の不均衡、不平等とかそういった闘争の結果文化が生まれてくるという過程として把握する。いや、文化が生まれてくるという言い方もミスリーディングかもしれない。カルスタにとって統一的な文化など存在せず、権力作用・闘争・読みの過程があるだけである(その結果としてある読みが支配的になることはありうる)。

結局、方法論として文化の社会学をとるかカルスタをとるかという選択は、論じ方として権力作用・闘争・読みという過程に敏感になるかどうか、の違いにすぎない。見えない抑圧構造を抱えているのであれば、それはカルスタ的な告発へと向かった方が良いだろう。一方でそうした「闘争の場」として捉えるのが妥当ではない文化的現象も少なくないはず。今研究していることは、どっちかといえば「文化の社会学」で行った方が良い気がする。まあ、それぞれの方法でやると扱う主題が変わる可能性もあるから、その辺は見通しを持ちながら考えていくことだな。