※以下に書いているのは8割方僕の妄想です。ちゃんとした裏付けがあるわけではありません。というか、これから古典を読んでいくなかで検証されるべき仮説です。
社会学の理論と言ってもいろんなタイプがある。
そもそも理論とは何か。佐藤俊樹は『社会学の方法』の冒頭で、理論とは「初期条件を入力したときに出てくる出力についての論理的導出」みたいな説明の仕方をしていたと思う。つまり、一定の条件を置いた時に、ある事柄はどのように帰結するか、についての説明である。
例えば、合理的選択理論でいえば、「人間は利害関心に基づいて効用を最大化するように行為する」という単純な初期条件を置く。その下で、ゲーム理論的なモデルを使いながら2人ないし多数の行為者が自分の効用を最大化する状況を考える。コールマンはそのような方法で、規範生成状況を理論化した。
さて、冒頭の問題に戻る。ひとくちに理論と言ってもけっこういろいろある。それらは、経験的世界を理論の中にどれだけ取り込んでいるか、という違いでざっくりと2通りに分けられるだろう。
1つめは、完全に理論の中で世界が完結するパターンの理論。「公理論をめざした」(佐藤俊樹)パーソンズやルーマンがこれにあたる。コールマンの『社会理論の基礎』もこれにあたるだろう。非常に少ない前提から出発して、社会のしくみ全体を分析していく。一般性・抽象性の非常に高い議論が展開される。シュッツとかもこれに入るかな。
2つめは、経験的世界を初期条件に取り込むタイプの理論。ベックの「個人化」、ボードリヤールの「シミュラークル化」などは、経験的世界で起こっている事象から着想を得て、そこから理論的・抽象的次元へとジャンプする(飛躍する)ことで生まれる理論だろう。
これは、経験的一般化とは次元を異にする。経験的一般化とは、観察された事象(たとえば、A地区の男性は女性より○○)を一般的にそうであるとみなす(日本の男性は女性より○○)ことであろう。一方、理論化はただ適用範囲を広げるだけではない。観察された事象の背後にある状況を抽象的なレベルで(経験的世界を離れて)組み立てていく作業である。
この作業を仮に「経験的理論化」と名付けよう。
経験的理論化に求められる作業は2つ。
第1に、理論的分析を精緻化すること。理論社会学がやってるような、抽象的レベルでの分析を深める。この初期条件を前提として○○を分析すると、A→B→Cと変化することが考えられ…みたいな(あくまで一例だが)。ここで何を分析したら良い研究になるかはよくわからん。
第2に、理論の妥当性の検証。経験的理論化が経験的世界を説明する理論である以上、これは避けては通れない。いや、もちろん理論社会学でも経験的世界との一致・不一致は常に考えらえるべきとは思うよ。マートンの「中範囲の理論」だって、調査のための小さな作業仮説と、抽象的な大きな理論を行き来するのを推奨しているわけだし。その点については、どちらの理論だって変わらない。
ただ、経験的理論化が持つ特殊性は次の2点である。すなわち↓
・経験的世界を説明する理論である。したがって、理論の説明対象に何らかの限定がかかっている。ボードリヤールにしてもベックにしても、議論は抽象的であるとはいえ、対象は現代社会という限られた対象である。場合によっては国も限定されるかもしれない(そんな理論は見たことないが)。一方、理論社会学のような営みは「社会」や「秩序」や「規範」などが説明対象であり、そのあたりに前提を設けることはない。結果的に近代以降の社会しか説明できないという可能性は大いにありうるが。
・説明対象に強い限定がかかっているがゆえに、それが本当に説明として妥当な理論かどうかは十分な留意が必要。それを示すためには、豊富な経験的証拠を提示する必要がある。
まあ、経験的な研究をするのであれば、目指すべきは経験的理論化でしょうね。
【2013/03/12追記】
理論の特性は何よりも第一にその一般性にある。
つまり、理論が指し示す対象は特定の何かでは決してないということだ。
例えばコールマンは「企業」とか「団体行為者」についていろいろ考察している。これは、「三井住友銀行」とか「東京大学」とかいった、特定のものを指しているわけではない。それらを含みながら一般的に成立すると想定している。
しかし、現実には当てはまらないケースも多いだろう。「例外のない理論はない」とも言える。
ではなぜこのような過度に一般的・抽象的な議論をするのか。理論はどうやって使えばいいのか。「社会学における理論の機能とは何か」。
この問いは、僕が簡単に結論を出せるものではないだろう。でも、自分なりに考えてみる。
ひとつには、予測という使い方がある。理屈で考えたらこうなるよね、っていう見通し。これは調査を設計するのに非常に役に立つ。
二つめに、比較と統合。異なるふたつのものを比べ、それらをまとめる上位概念みたいな使い方をできるかもしれない。
まだまだ理論の有用性はあると思うけど、とりあえずこんな感じ。
だからこそ、社会学の目的のひとつは理論の構築だし、理論はそれ自体でも研究されるべきだし、社会学の研究には理論を組み込んだ方がいい。そう思っている。
社会学の理論と言ってもいろんなタイプがある。
そもそも理論とは何か。佐藤俊樹は『社会学の方法』の冒頭で、理論とは「初期条件を入力したときに出てくる出力についての論理的導出」みたいな説明の仕方をしていたと思う。つまり、一定の条件を置いた時に、ある事柄はどのように帰結するか、についての説明である。
例えば、合理的選択理論でいえば、「人間は利害関心に基づいて効用を最大化するように行為する」という単純な初期条件を置く。その下で、ゲーム理論的なモデルを使いながら2人ないし多数の行為者が自分の効用を最大化する状況を考える。コールマンはそのような方法で、規範生成状況を理論化した。
さて、冒頭の問題に戻る。ひとくちに理論と言ってもけっこういろいろある。それらは、経験的世界を理論の中にどれだけ取り込んでいるか、という違いでざっくりと2通りに分けられるだろう。
1つめは、完全に理論の中で世界が完結するパターンの理論。「公理論をめざした」(佐藤俊樹)パーソンズやルーマンがこれにあたる。コールマンの『社会理論の基礎』もこれにあたるだろう。非常に少ない前提から出発して、社会のしくみ全体を分析していく。一般性・抽象性の非常に高い議論が展開される。シュッツとかもこれに入るかな。
2つめは、経験的世界を初期条件に取り込むタイプの理論。ベックの「個人化」、ボードリヤールの「シミュラークル化」などは、経験的世界で起こっている事象から着想を得て、そこから理論的・抽象的次元へとジャンプする(飛躍する)ことで生まれる理論だろう。
これは、経験的一般化とは次元を異にする。経験的一般化とは、観察された事象(たとえば、A地区の男性は女性より○○)を一般的にそうであるとみなす(日本の男性は女性より○○)ことであろう。一方、理論化はただ適用範囲を広げるだけではない。観察された事象の背後にある状況を抽象的なレベルで(経験的世界を離れて)組み立てていく作業である。
この作業を仮に「経験的理論化」と名付けよう。
経験的理論化に求められる作業は2つ。
第1に、理論的分析を精緻化すること。理論社会学がやってるような、抽象的レベルでの分析を深める。この初期条件を前提として○○を分析すると、A→B→Cと変化することが考えられ…みたいな(あくまで一例だが)。ここで何を分析したら良い研究になるかはよくわからん。
第2に、理論の妥当性の検証。経験的理論化が経験的世界を説明する理論である以上、これは避けては通れない。いや、もちろん理論社会学でも経験的世界との一致・不一致は常に考えらえるべきとは思うよ。マートンの「中範囲の理論」だって、調査のための小さな作業仮説と、抽象的な大きな理論を行き来するのを推奨しているわけだし。その点については、どちらの理論だって変わらない。
ただ、経験的理論化が持つ特殊性は次の2点である。すなわち↓
・経験的世界を説明する理論である。したがって、理論の説明対象に何らかの限定がかかっている。ボードリヤールにしてもベックにしても、議論は抽象的であるとはいえ、対象は現代社会という限られた対象である。場合によっては国も限定されるかもしれない(そんな理論は見たことないが)。一方、理論社会学のような営みは「社会」や「秩序」や「規範」などが説明対象であり、そのあたりに前提を設けることはない。結果的に近代以降の社会しか説明できないという可能性は大いにありうるが。
・説明対象に強い限定がかかっているがゆえに、それが本当に説明として妥当な理論かどうかは十分な留意が必要。それを示すためには、豊富な経験的証拠を提示する必要がある。
まあ、経験的な研究をするのであれば、目指すべきは経験的理論化でしょうね。
【2013/03/12追記】
理論の特性は何よりも第一にその一般性にある。
つまり、理論が指し示す対象は特定の何かでは決してないということだ。
例えばコールマンは「企業」とか「団体行為者」についていろいろ考察している。これは、「三井住友銀行」とか「東京大学」とかいった、特定のものを指しているわけではない。それらを含みながら一般的に成立すると想定している。
しかし、現実には当てはまらないケースも多いだろう。「例外のない理論はない」とも言える。
ではなぜこのような過度に一般的・抽象的な議論をするのか。理論はどうやって使えばいいのか。「社会学における理論の機能とは何か」。
この問いは、僕が簡単に結論を出せるものではないだろう。でも、自分なりに考えてみる。
ひとつには、予測という使い方がある。理屈で考えたらこうなるよね、っていう見通し。これは調査を設計するのに非常に役に立つ。
二つめに、比較と統合。異なるふたつのものを比べ、それらをまとめる上位概念みたいな使い方をできるかもしれない。
まだまだ理論の有用性はあると思うけど、とりあえずこんな感じ。
だからこそ、社会学の目的のひとつは理論の構築だし、理論はそれ自体でも研究されるべきだし、社会学の研究には理論を組み込んだ方がいい。そう思っている。