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カルチュラル・ターン、文化の政治学へ

2013年03月10日 | 社会学
【序章】
<1.「言語論的=解釈学的転回」以降>

言語論的転回において登場した構造主義は、「文化を何らかの言語的な構造に基づく象徴と意味の統一体として理解する」(11)手法であった。ここからギアーツ人類学は、構造主義の言語論的テクスト理解をパフォーマティヴな出来事として再文脈化し、歴史化しようとした点で評価される。
しかし、ギアーツに対してはロサルドの鋭い批判を受けて吉見もコメントしている。「文化のパフォーマティヴな次元に留意しながらも、なお文化を制御機構を備えた同一性のシステムとみなすならば、緩く束ねられた日常的実践に生じる無数の軋み音を聞き落としてしまうのではないか。ギアーツの解釈学的パラダイムは、文化や象徴の地平を前景化させることで、権力や政治、諸々の抗争を象徴システムの論理に還元しているのではないか」(10)。

すなわち、文化のパフォーマティヴな次元に注目したことは評価できるが、結局それが統一的な文化を形成するという風に考えてしまうと、主流から排除された文化的実践の数々には目を向けられないことになる。そうではなくむしろ、「分裂し、抗争し、矛盾に満ちた複数形の文化、またそれらと記述する者との不均衡な関係を問題化することを通じてしか、今日では「文化」を語ることができない」というのが吉見のスタンスであり、カルスタの姿勢である。


2.社会理論のカルチュラル・ターン

1で述べたような文化概念の転換こそが、カルチュラル・ターンである。「文化は記号的に構成され、解釈され、さまざまな不平等、差別と排除を伴って政治的に構築されている。それは表象の戦場であり、この戦場では異なる次元の権力の力線が分節=接合されている」(13)「カルチュラル・ターンとは、まさにこのような知的=歴史的局面において、すでに述べた言語論的ないしは解釈学的転回を受けながら、現代の社会理論のなかに浮上してきた「文化」への新しいまなざしを指している」(13)。
そしてこのような流れの中で、文化への注目が集まっていくのである。


3.「文化」を問題化すること

以上を踏まえ、吉見は次のように言う。
「ここでいう「カルチュラル・ターン」とは、単に社会理論において「文化」が機軸的な役割を果たすようになってきたことを示すのではない。あるいはまた、現代の資本主義が、「文化」を通じて大きな変容を遂げつつあることだけを指すのでもない。さらにこうした「文化」の概念が、ロマン主義以来の本質主義や象徴システムとしての統一性から解放されて、無数にずれや亀裂を含んだ記号的な抗争の場として理解されるようになってきたことだけを指すのでもない。ここでの観点からするならば、これらのすべてを含みこみつつ、カルチュラル・ターンは、一連の文化マルクス主義の系譜を背景に、社会のなかでの「文化」という領域限定に対する異議申し立て、すなわち「文化」を社会の実践にかかわる脱領域的な問いの場として組み立てなおしていこうとする企図を含んでいるのである」(25)

そして、このような考えのもとに現れつつあるのがカルスタなのである。
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