メルハバ通信その9 <カイセリ日本庭園奮闘記2>
今年は格別に暑かったトルコの夏もようやく峠を過ぎた。朝夕は肌寒いくらいに感じるこの頃である。チャウルカン村の日本庭園での作業も随分楽に感じられるようになってきた。
さて、8月に妻と娘がトルコで暮らすためにやってきた。娘がアンカラの学校に通う(ここカマンではインターナショナルスクールが無いため)ので、アンカラのチーデンマハレシでアパートを探し、トルコでの生活を始めた。長男も夏休みを利用してトルコに来て、久しぶりに家族で外国?(トルコ国内であるが)旅行をした。
《トルコ人に成りすましたmilima(美里麻)》
《カッパドキアにて》
さあ、それでは気分も新たに、カイセリ日本庭園奮闘記の続編を送らせてもらう。
3月に市役所との打ち合わせを終えて、4月から工事に入った。作業は主に週末の金曜、土曜、日曜日の3日間である。木曜日、カマンでの仕事を終え、夕方のバスでカイセリに向かう。そして、日曜日の夕方にまたカマンに戻る。宿舎は市役所が提供してくれた宿泊施設である。市役所で建築を担当しているギョクハン が英語も話せるので、彼が通訳がわり。また、役所内の造園工事等のプランも彼が担当している。今回の日本庭園も彼が責任者といったところだ。
まず、一緒に庭園で用いる景石を探しにカイセリ近郊の山に出かけた。日本のように石材屋があって、そこで適当な石を探すのではなく、自然の山から探し出す。いろいろな場所に出かけるが、なかなか良さそうな所が見当たらない。ちょっと良さそうな石が見つかっても半分以上は土に埋まっているため、形もなかなか把握できない。また、どのような方法で運び出すのかも解らない。
ギョクハンと共に何箇所か回って、ようやく苔が付いて日本庭園に適する石が多く存在する場所を見つけた。石の選定にちょっと時間が掛かるからと彼にはひとまず役所に帰ってもらい、私一人で選定し始めた。
すると村の子供たちが珍しそうに話しかけてきて、私にずっと付いて来る。一緒に探すことにした。 彼らは“ヨシ、こっちにいい石があるぞ。ヨシ、これはどうだ、使えるか。”と熱心に探してくれた。
使えそうな石に目印のガムテープを貼り付けていく。だんだん彼らの仲間が集まってきた。10人ほどが集まり、その中にはヤギの子供もいる。賑やかな石探しになった。やがて夕暮れも迫り子供たちも家に帰り、ギョクハンが私を迎えにやってきた。
《ヤギを従えて、日本庭園の石探し》
ところが、次の日にはギョクハンが他にもっといい場所があると言う。それならどうして最初に言わないのだと不審に思ったが、行って見ると確かにこちらの方が運びやすそうだ。彼はどんな場所でも石は運び出せると言うのだが、道が無い山の奥や急な斜面にある石など、どのようにして運び出すのか不思議であった。とりあえず、彼の言うことを半分程度信用することにして、出来るだけ運び出させそうな石に目印をつける。この週は景石の選別で費やし、翌週に運び出すことになった。
そして翌週、市役所で作業人たちを待つ。3人の作業人がやって来た。ちょっと強面の作業人が握手を求めてきた。彼も公園課長(ムスタファ・トルクメン)と同じ名前のムスタファであった。昔ボクシングをやっていたそうで、そういえばあのマイク・タイソンに似ている。彼に“マイク・タイソンに似ている”と言うと非常に喜んで、みんなにその事を自慢し始めた。彼のことを公園課長と区別するため、ムスタファ・タイソンと呼ぶことにした。彼は非常に私を気に入ってくれて、何度も自宅での食事に招いてくれた。彼の子供たちともすぐに仲良くなった。息子の名前はアリ。しかし、彼が途中で配置換えになり、日本庭園の現場には来なくなってしまった。非常に残念だ。
《ムスタファ・タイソン》
《タイソンのお母さんと子供達》
さて、作業人たちと石を取る現場に向かった。どんな機械で運び出すのかと思っていると、穴を掘るバックホウが後ろに付いたブルドーザの登場。キャタピラーの代わりに大きなタイヤが付いている。こちらの言葉でケプチェと言う。
運転手に“どの石を取るのだ?”と聞かれたので、選定した石を指差したが、 “ここにはケプチェが入れない。”と言う。そんなバカな、ギョクハンは“どこでも取れる”と言ったのに・・・。想像はしていたが、やっぱりなという感じである。取りあえず下の方にある石だけでも取ってくれと頼んだ。
運転手が渋々斜面を登ろうとするのだが、今にもひっくり返りそうだ。運転手も怖くなって、早々に諦めてしまった。道路脇の取り易い所でもう一度石を選定し直すとしよう。 新しい場所を探し始めると、私に断りも無しにケプチェが帰ってしまった。おいおい、どうなっているんだ・・・。
途方にくれていると作業人たちが“タマム、タマム”と私に言う。トルコ語でタマムはノープロブレムの意味である。トルコでは少々の問題は殆どこの言葉ですまされる。まさしくここはタマム(ノープロブレム)の国である。
しばらくすると、古ぼけたケプチェ(ブルドーザー)が猛スピードでこちらにやって来た。作業人たちは“この運転手はカイセリで一番のケプチェの使い手だ。”と言う。
ちょっと渋い運転手が“どの石を取るのだ?”と私に尋ねる。“この石を取ってくれ!”と言うとバックで登り始め、いとも簡単に取ってしまった。それならこっちの石はどうかと尋ねると、またまた簡単に取る。しかし、斜面から転がり落とすので、石が傷ついたり、途中で割れてしまう。でも仕方ない。ここはタマム(ノープロブレム)の国だから・・・。
《バックで急斜面を登るケプチェ(ブルドーザー)》
一度大きな石が斜面で停まり切らずに、道路まで転がり落ちた。下に車があればぺちゃんこである。この時はさすがに肝を冷やした。どんどん上部の石を取ってくれとお願いすると、彼はことごとく取ってくれた。見事な運転である。最初にやって来た運転手は一体何だったのか・・・? 石が大分貯まったので、落とした石を大きなダンプカーに載せて日本庭園の現場に運び込んだ。
翌日はさっそくエルジェス山をイメージした景石据えに取り掛かった。しかし、日本のようにチェーンブロックやレッカーを使うのではなく、またまたケプチェ(ブルドーザー)を使って巧みに据えていく。この日のケプチェの運転手は昨日のダンプカーの運転手とは違っていたが、彼もなかなかの腕前であった。
《ケプチェの運転手》
しかし、中心になる一番大きな石をなかなか据えることが出来ない。ロープで吊ろうとしても直ぐに石の重量のため、切れてしまう。私がワイヤーロープを買ってきても、直ぐに切れてしまった。諦めてケプチェで気長に据えることにした。
なんとか夕暮れまでに3石だけを据えることができた。しかし、翌日に行って見ると、どうも位置が端により過ぎているのが気掛かりになってきた。運転手に非常に気の毒だったが、今回はタマムと妥協せずに、やり直すことにした。彼もさすがに気を悪くしているようであったが、昨日より要領を覚えてきて、短時間で移動することが出来た。その後の作業も非常に効率的に捗り、半日程でエルジェス山の石組みを終える事が出来た。最後は運転手と私との間で阿吽の呼吸が生まれたように思う。彼も石庭の出来上がりに非常に満足していた。
後日作業した回遊式庭園の方も殆ど彼との共同作業で石を据えた。もし、彼がいなかったら今回の仕事はもっと時間が掛かり、相当困難なものになっていたように感じる。良い運転手に巡り会えて良かった。
しかし、他の作業人たちはあまり仕事熱心とは言えず、一つの仕事が終われば私に“次は何をすればいいのだ?” “今お前は何をやっているのだ?” “何のためにやっているのだ?” 等々、うるさいばかりに聞いてくる。その上、直ぐに“さあチャイの時間だ。休憩しよう”と言って作業が捗らない。
日本庭園に必要な微妙な曲線や地盤の起伏なども彼らが理解できるはずも無く、結局私一人で作業する時間が多くなった。時々、話の解る作業人も居たが、ころころと人が変わる。その度に一から説明しなければならない。そんな中で、水道課から手伝いに来てくれたアフメットは熱心に仕事をしてくれた。他の水道課の仲間にも私を紹介してくれて、公園で一緒にチャイを飲んだり昼食を採ったり、彼らと楽しい時間を持つことが出来た。彼が公園課の人間だったら仕事はもっと捗っていたのだが・・・。またまた残念だ。
《水道課の仲間達とピデ(トルコのピザ)で昼食》
さて、回遊式庭園の方は石張りの部分が多く、職人次第で庭の出来上がりが左右される。基礎工事のコンクリート職人はひどい作業であった。私がいない間にやっておくから心配は要らないということでカマンに帰り、翌週にカイセリの現場へ行って見ると、せっかく据えた石にコンクリートは付けるは、適当に切り石を立てたりで、全く呆れ果てた。
しかし、石張り職人のラマザンはなかなかの腕前だった。日本でもやっていけそうな感じだった。私の言うこともある程度は理解してくれ、何とか庭の格好は付いてきた。細かい部分に不満は一杯ではあるが・・・。ここはタマムの国、諦めというか妥協が肝心だ。
《石張り職人のラマザンと助手》
灯篭も日本から輸入するのでは無く、今後のためにもこちらで製作させた。時々石屋の製作現場に行っては指導していたのだが、出来上がってみると、やっぱり日本のようにはいかなかった。まあ、日本の雰囲気が少しでも出ているなら、これもタマムとしてもらおう。
《一応骨格が出来上がり、庭の格好が付いてきた。中央にトルコで作った雪見灯籠》
8月に日本から家族が来るので、7月中に作業を完了したいと、ムスタファ・トルクメンには伝えていた。彼もタマム、タマムと答えてはいたが、資材の納入もままならず、思っていた通り完成までには至らなかった。後はラマザンとギョクハンが我々に任せてもらえればタマムと言うことで、任せることにした。
《メルクガジ市役所》
私も時間が出来れば、もう一度か二度はカイセリに出かけて、後の指導や手直しをするつもりである。庭の骨格はだいたい出来上がった。植栽が残っているが、図面を基本に工事してもらえるだろう。後はタマム、タマムでご勘弁願おう。
《カイセリでのいつもの朝食、ひよこ豆のスープとパン食べ放題で250円程度》
《ちょっと豪勢に、美人姉妹のレストランで》
現場の近くで店の家具屋さん、床屋さん、そして美容室を営む人達に非常に世話になった。入れ替わり立ち代わり、私に話しかけてくれて、お茶やジュース、果物等差し入れてくれた。真夏の作業時の冷たい差し入れは何物にも変え難い思いであった。
また、作業していると、近所の子供達や通り掛かりの知らない人達までもが、“コライゲルスン(ご苦労様)”と、必ずと言っていいほど暖かい励ましの声を掛けてくれる。一人で辛い作業をしている時など、本当に嬉しく感じた。日本ではあまり見かけられない光景である。
《現場で友達になった可愛い子供達》
現場隣の有名な〈イスケンデル・レストラン〉では私が植木を手入れしたお礼に本場のイスケンデルケバブや本格的な中華料理をご馳走になった。また、いつも私が食事していたクルド人経営のレストランでは看板の美人姉妹始め、従業員のみんなが暖かくもてなしてくれた。今思い出してもジーンと胸がこみ上げてくる。
《行きつけのレストランの美人姉妹》
花粉症が悪化して病院へ通ったり、暑くて作業も辛い時もあったが、様々な心暖かい人達と知り合い、助けを得られた。みんな私の大切な友人である。ここでの活動がほんとに良い経験になった。カイセリでの日本庭園製作でお世話になった人々に心から感謝したいと思う。
《私のお気に入り、カイセリ名物パスツルマ(生肉と香辛料で作ったソーセージ)の店》
ところで、日本の家族がトルコにやって来て、カッパドキア、イスタンブールを旅行した。例に違わず珍道中であったが、機会があればお伝えしたいと思う。