milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その12(2006年12月)

2012年05月23日 | メルハバ通信

メルハバ通信その12

11月16日に心臓発作で倒れ、アンカラの病院に入院していた、トゥルグット・アスラン、カマン市長が亡くなられた。とても気さくで、市民からも本当に愛されていた市長であった。カマンにとって、また我々シニアボランティア3人にとっても非常に大きな損失だ。しかし、いつまでも悲しんでばかりいられない。ネジャティ・チョラック新市長の下、新しいカマンの街作りのために尽力せねばと思っている。

カマンでは亡きトゥルグット市長のために、荘厳かつ盛大な市民葬が執り行われた。このメルハバ通信で、どの様な葬儀が執り行われたのか、報告したいと思う。

市長が亡くなった当日16日、私はカイセリに作った日本庭園の仕上がりを視察に行くため、隣町であるクルシェヒル行きのドルムシュ(小型の乗り合いバス)に乗っていた。クルシェヒルからカイセリ行きのオトブス(長距離バス)に乗る。ドルムシュの中で市長が亡くなったという一報を、シニアボランティア同期隊員のSさんから携帯電話で聞いた。

クルシェヒルからカイセリ間のオトブス(長距離バス)に乗っていれば、携帯電話の電源は切らされるので、Sさんからの電話も通じなかったであろう。今から考えると非常にラッキーであった。急遽カマンに帰り、Sさんが待つ市役所に駆けつけた。

葬儀の模様を私のカメラで撮影してほしいとの依頼を、Sさんのカウンターパートであるセルメットから受けた。市役所の写真班として葬儀に臨んだ。セルメットは市長の甥っ子にあたり、彼はまた英語も出来るので、我々日本人の世話係でもある。市役所ではコンピュータを担当していて、市役所のホームページも彼が管理している。

いつもは非常に明るく冗談を言っている彼が、さすがに時折悲しそうな表情を見せる。しかし、葬儀ではおじさんである亡き市長のために、悲しみを押し隠し、気丈に中心的な役割を果たした。

《棺を担ぐセルメット》

さて、本葬儀は翌日17日に執り行われた。前日の昼から副市長が亡くなった市長を迎えに行くための車に、私とSさんを乗せてくれた。カマンから15キロほど離れた草原に向かう。バスや自動車に分乗してきた人々が、草原で大勢待っていた。雲一つ無い快晴で、この季節にしては驚くような暖かさである。トルコの天候も市長に対して敬意を払ってくれたのだろう。ここでアンカラの病院から帰ってくる市長をみんなで出迎える。

《亡き市長を乗せた霊柩車を迎える》

やがて1台の霊柩車らしき車を先頭に長蛇の車列がやってきた。先導する霊柩車は日本の様な作りではなく、普通のトラックを改造したものである。この霊柩車を先導にみんなが車に乗り込み、カマンを目指した。 

《霊柩車を先頭に、カマンを目指す。》

バスなどはフロントに喪章として黒い布を掲げている。草原の道を何十台もの車が列を成す。こんなに多くの車が列を成すことはカマンではまず無いであろう。

カマンに到着し、唯一の病院へと棺は向かう。近くにあるジャーミー(イスラムの教会)でみんなが集まり始めた。ここでお通夜が執り行われるのだろうか? 我々は翌日の葬儀に参加するということで、この日は市役所に戻った。

葬儀当日、参列する人々がすべて市長の顔写真を喪章として胸に掲げる。そして、市長の棺が安置されている病院まで、1km程度の道を市民が歩いて出迎えに行く。病院から市長の遺影を先頭に霊柩車が出てきた。人々が続々と集まって、その霊柩車に続く。

《亡き市長の写真を胸に掲げる》

《トルコ国旗と市長の遺影を先頭に参列者が続く》

ジャーミー(イスラムの教会)の近くで霊柩車から市長の棺が降ろされた。おそらく市長の遺族であろう女性たちが棺に泣きすがる。一人の若い女性が最後まで棺を放れようとしない。市長の孫娘さんであろうか・・・? 

《霊柩車から棺を降ろす》

ここで人々が棺を肩に担ぎ、市役所まで行進する。棺を担いでいない人々は互いに腕を組み合っている。担ぎ手を交代しながら、市役所まで全員で進んだ。

《みんなで交代しながら棺を担ぐ》

私もどうしても棺を担ぎたい衝動に駆られ、少しの間だったが、棺を担がせてもらった。行進する人々がどんどん膨れ上がり、市役所の前で待つ人々の元に到着した。多数の花輪が飾れている中に棺が安置され、ここで葬儀が執り行われた。

《我々カマン3人組の花輪もある》

《女性は後ろの方でじっと見つめている》

《多数の市民が集まった》

棺の傍らでは、市の警護に当たっている警護員が身じろぎせずに、敬礼をし続ける。いかにも平静を保つその表情の奥からは明らかに悲しそうな感情が読み取れる。棺の上にはカーネーションの花々が置かれた。悲しそうな顔をしたおじいさんが棺のそばから離れようとしない。

《役所の警備員がずっと棺の横で敬礼を続ける》

《悲しそうなおじいさん》

ジャーミーでイスラムの祈りが済んだ昼過ぎから本格的な葬儀が執り行われた。少し広い場所に棺を移動し、我々のデスクがある学校の先生が葬儀の司会を担当する。

まず、市長と共に仕事をしていて、先日配置換えになったカイマカン(カマン郡長)が日本でいう弔辞を述べる。そして新任のカイマカン、他の人々が弔辞を述べた。最後にイスラムの僧侶と共に、葬儀に参列した人々が祈りを捧げる。無事に葬儀が終了し、市長の遺体は市長の故郷であるオメールハジュルの墓地へと向かって行った。

《イスラム教の僧侶が祈りを捧げる》

長が倒れてからも、また元気な姿を我々の前に見せてくれると心から信じていた。市の公園計画など、私の業務にも市長が深く関わっていた。おそらく私の仕事においても、今後は支障が生じることと思う。しかし、新市長の元、少しでもカマンのために役立てる様に頑張って生きたいと考えている。それが我々に常に暖かい態度で接してくれた市長に対する、せめてもの恩返しである。

思い起こせば、寒い冬の日の帰り道、我々の前で止まってくれた1台の車があった。市長の車だった。“家まで送っていくから乗っていけ。”と人懐っこい笑顔で言ってくれた。会う度に、“時間が出来たら君たちをカッパドキアに招待するからね。”と言ってくれていた。暫く私たちが市役所に行かない( もう一つの職場である学校の方で作業をしていたので)と、 “君たちの姿が見えないから、私はずっと泣いていたよ。”と、冗談を言って、私たちを笑わせてくれた・・・。

赴任早々、私がカメラの撮影中にクルシェヒルの警察に捕まった時も、これからは捕まっても大丈夫な様に、市長の名詞に、“この人は大切な日本からのボランティアです。何かあった時には私が保証します。”と裏書してくれた。今でも私の財布にはこの名詞が大切に閉まってある。今となっては私の大切な宝物になってしまった。いつまでも大切なお守りとして財布の中にあり続けるだろう。

トゥルグット・アスラン市長のご冥福を心からお祈り申し上げます。

翌週末はカイセリに日本庭園を見に行きました。私が仕事を終える時に、“あとは自分たちに任せておけ。”とはメルクガジ市役所は言っていたのだが、おそらく日本庭園とは程遠い状態であろうとは覚悟していた。

夕方にカイセリに着き、とりあえず現場視察に訪れた。庭園灯が綺麗に灯っていて、一見するとなかなか雰囲気の良い庭園である。しかし、雪見灯篭が設計では1基だけなのに、なんと5基も配置してある。私は1基しか作らせていないのに、現場に持ち込まれた灯篭が5基もあるのは不審に思っていたのだが、他の公園等で使うためのものだと考えていた。

その中の一つはエルジェス山をイメージした枯山水庭園のメインの景石の上にも置いてある。日本庭園のイメージもぶち壊しである。灯篭が多くあるので、トルコ人から見れば日本風だと思ったのだろうが。設置する場所が間違っているので、日本人から見れば笑いものだ。

翌日にメルクガジ市役所を訪れ、公園長のムスタファ・トルクメンに、設計に入れている灯篭以外はすべて外すように指示した。彼はせっかく据えたのにと、怪訝そうな表情であったが・・・。私がこれだけは絶対に譲れないと言ったので、仕方なく撤去するだろう。

しかし、その他は設計通りには行っていない部分もあったが、芝生も綺麗に生え揃い、樹木も植えて、一応庭園らしくなっていた。まだ手水鉢と織部灯篭が入っていなかった(これもずっと前から催促してきていたのだが)ので、来年の春までには必ず入れてほしいと要求した。

《芝生が奇麗に生え揃った》

《枯れ池とトルコで作った雪見灯籠》

《あずまやと園路》

それらが入ったら、最終的な手直しに行こうと考えている。まあ、トルコ人だけでそれなりに仕上げてくれたので、とにかく格好はついた感じである。手付かずの心配もしていたので、これでも感謝しなくてはいけないだろう。

メルクガジ市役所に文句を言うのは雪見灯篭だけにしておく。公園長の話ではこの庭園の評判が非常に良いので、カイセリで一番大きなブユックシェヒル市役所でも真似をして、韓国庭園をこしらえたそうだ。しかし、こんなに立派な庭園ではないということでちょっと安心。 

日本庭園の本当の完成は来春まで待つとしよう。


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