milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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ジャバル・ハルーン(ホル)登頂記(ヨルダン通信番外編)

2012年07月19日 | ジャバル・ハルーン(ホル)登頂記

ジャバル・ハルーン(ホル)登頂記(ヨルダン通信番外編)

2度目のヨルダン赴任、私にとって一番のお気に入りの場所であるペトラで一大発見をした。それはハルーン(ホル)山。“モーゼの十戒”で知られる、モーゼの兄アロンがその頂で生涯を終えた山である。ガイドブックやインターネットで調べるが、日本人が登ったという記述が無い。いやそればかりか、日本人はまだ誰も登っていないだろうという記述がある。モーゼ自身はアンマンから南へ30キロ程離れたマダバの西に位置するネボ山が終焉の地であるが、その兄アロンもこのヨルダンで生涯を果てた。

イエス・キリストが信仰に目覚めたのも死海近くのバプティズム・サイト(べサニー)。そして、イエスの布教活動の中心地はヨルダン川付近であった。まさしくヨルダンは旧約聖書と新約聖書の舞台。その旧約聖書にはハルーン(ホル)山についてこう書かれている。

「『アロンと、その子エルアザルを連れてハルーン(ホル)山に登り、アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。』モーセは主が命じたとおりにした。彼らは共同体全体の見守る中をハルーン(ホル)山に登った。モーセはアロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せた。アロンはその山の上で死んだ。」民数記20章25

《夜明けのワディ・ムーサの街からハルーン(ホル)山を望む》

10月30日(金)に、ハルーン(ホル)山の偵察を兼ねて、ペトラの中央部に位置するビヤラ山に登った。そして、その奥に聳えるハルーン(ホル)山を真近に仰ぎ見て、直感的にガイド無しでも登れるだろうと踏んだ。

しかし、アンマンから日帰りで登るのは到底無理。最低でも1泊2日の行程になる。取り敢えずは、ガイドに頼らずに登りたい・・・。幸い頂上を含む岩峰の基部まで比較的はっきりした道が付いている。時間さえあれば、そこまでは容易に行けると考えた。岩峰基部まで行ってみよう。それから上は条件次第だ。少しでも不安を感じたら即座に引き返し、ガイドを付けて出直せばいい。そういう覚悟で計画を企てた。

さて、いつに決行すべきか・・・? しかし、好機は思いもかけず訪れた。以前から日本庭園に適した石がペトラへの道中、デザートハイウェイの近くに転がっているのを見つけ、調査に行きたいと公園事務所長のラーントに話していた。突然11月5日(木)に、そのための車が出されることになった。当然日帰りでアンマンに戻ってくる予定である。

ところが、職場の仲間が“Yoshi(職場で私はこう呼ばれている)はみんなと一緒にアンマンに帰るのか、それともぺトラに泊まるのか?”と聞いてくる。私が休日を利用してはペトラに行っているので、みんなは金曜日には私がペトラに行くものと決め付けているようだ。 

“いや、みんなと一緒に帰るよ・・・。”そう答えた後で、ふと気付いた。そうか、ペトラで降ろしてもらえれば、翌日は休日。仕事を休まなくてもハルーン(ホル)山に行けるではないか・・・? “やっぱり私はペトラで泊まる。”と仲間達に宣言した。こうして、あっけなく私のハルーン(ホル)山挑戦は決まった。

石の調査を午前中に終え、ペトラ遺跡の入り口で車から降りる。一緒に来た役所の仲間に別れを告げる。さあ、出発だ! 取り敢えず、この日は偵察を兼ねたペトラ観光。

シーク手前から右に折れた谷への道を行くため、ジン・ブロックスという墳墓群から入る。以前、シークの入り口にあるポリース・ステーションで、ここから谷への道はガイドが必要だと言われ、入るのを阻止された経験がある。しかし、殆どの者がガイド無しで入っているし、谷の奥のルートは反対側から既に調査済みである。ステーションの手前から入ればポリースには会わないで済む。

《ジン・ブロックスからハルーン(ホル)山を目指す》

《ジン・ブロックスの奥より遥かにハルーン(ホル)山を望む》

道から外れ、谷を目指す。周りに誰も居ないので気持ちいい。しかし、単独行はちょっとした事故が命取りになり兼ねない。岩場の昇り降りは慎重に慎重を期す。一部岩場をクライミングダウンし、想像通り目的の谷へと下る。途中狭いシークを過ぎると、以前に偵察済みの北の壁付近にたどり着いた。

《ベドウィンに出逢う》

《狭いシークにあった祭壇》

北の壁で一人のフランス人女性に出会う。見事な墳墓をバックに写真を撮っている。40代半ば位であろうか? 私に気付くと、“自分の写真を撮ってちょうだい。”と頼まれ、彼女の要望通り、全身とアップで2枚撮る。私の撮った写真を見て驚き、“今までいろんな人に撮って貰ったが、私の望む通りに撮ってくれたのはあなただけだ。”と言われた。“私の趣味は写真だ。”と言ったら、なるほどと頷く。

《北の壁を撮影するフランス人》

《天国へ続く階段》

私のカメラバッグに付けている本物のカラビナを見て、“あなたは登山家か?”と聞いてくる。“そうだ。”と答えると、“ワディラムには行ったか?”と尋ねられる。“奥の大きな橋を登ったが、ガイドが必要だよ”と私が言うと、“私はもっと簡単な所にしか行かないから大丈夫。”と答えた。もう夕方まではあまり時間が無いのに、彼女はエド・ディル(モナストリー)まで行くと言う。なかなか達者なおばさんだ。

《王の墓を望む》

さて、私もモナストリーへ行って夕陽を見ようかなと歩を進める。しかし、ここで名案が浮かんだ。少しでも明日の工程がスムーズに行くように、ハルーン(ホル)山に近付いて偵察しておこう。あわよくば途中にあるベドウィンの住居に泊めて貰えるかもしれない。ビヤラ山の麓にある住居で、先週気の良さそうなおばさんが“シャイ(紅茶)を飲んで行け。”と誘ってくれた。その時は先を急いでいたので断ったが、そこへ寄って宿を頼んでみよう。

案の定、今度は子供が私にシャイ(紅茶)を誘う。これ幸いとお邪魔する。シャイ(紅茶)にベドウィン特製のパン、羊肉の欠けらまでご馳走になる。ここのベドウィン達は観光地なので英語が達者だ。私がアンマンで日本庭園作りをしている話を聞かせ、親父さんや家族の写真を撮る。

《ビヤラ山麓の住居でシャイ(紅茶)を戴く》


そして、“ハルーン(ホル)山に行きたいのだが”と切り出すと、“ここから3時間以上は掛かるから、うちのロバに乗って行かないか?”とのこと。今回はガイド無しで行ける所までと思っていたので、丁寧に断る。 

さて、“ここで泊めて貰えないだろうか?”とお願いするが、“ペトラは宿泊禁止でポリースが夜中でも見回りに来る。以前外国人を泊めて見つかり、たいへんな問題になったので無理だ。”と言われ、諦めてワディ・ムーサのホテルに向かうことにする。彼らに“明朝、またここに寄るからね。”と挨拶して別れる。

ライオンのモニュメントから犠牲祭壇を抜けようと進むが、夕方になりトリクリニウムの土産店も閉店。近くに誰も居なくて、ひっそりとしている。もう誰もここを通る者は居ないだろう。ひょっとして、ここら辺りなら誰にも見つからずに野宿できるのでは・・・。

《途中にあるライオンのモニュメント》

名案が浮かんだ。道から少し外れると野宿に最適の場所が。ちょっとした窪みで周りからは見えない。しかも岩が平らで気持ち良く眠れそうだ。幸いベドウィンの家やホテルでも便利だろうと夏用のシュラフを持参していた。時刻は5時半ごろであったが、辺りもうっすらと暗くなってきていた。ビスケットとリンゴで豪華?な夕食を採り、他にすることも無いので早々とシュラフの中に入る。

シュラフの中はちょうど良い暖かさだ。山岳部時代、訓練で仲間とはやったが、テント無しで単独での野宿は初めてだ。ベドウィンが飼っているロバの妙に物悲しい鳴き声や何匹もの犬達の吠える声が岩に反射して非常に近くに聞こえる。犬達が襲ってくるのではという恐怖も感じ、ちょっと悔やんだが、もう遅い。槍ヶ岳で熊に襲われたのを思い出す。携帯ナイフと石ころ(トルコでは犬除けの必需品である)を準備する。騒々しい周りの音を消すため、iPodで音楽を聴きながら寝ることにする。

         

《野宿場所とビヤラ山》

 

《野宿場所で》

 

空は絵の具を塗り重ねるように、どんどんダーク色を増してくる。金星が瞬いた。まさしくプラネタリウムのスイッチを入れた様に、一つまた一つと輝き始める。そのスピードが増し、程なく満点の夜空に。シュラフからちょこんと出ている目の前には半球形の星空が広がった。天の川もくっきりと判別できる。結構なスピードで動く星・・・。人工衛星だ。

そして点滅を繰り返す飛行機のライト・・・。夜空の天体ショーの始まりだ。ところが、肝心の流れ星はなかなか見えない。今日は無理かなと諦めかけた時、スーッと星が動いた。あっ、流れた・・・。恐怖感もだんだんと薄れ、天体ショーの真っ只中にいる幸せが溢れてくる。

しかし・・・。時間は思うようには経ってくれない。眠ろうと思っても意識は逆に冴え渡り、一向に眠くならない。だいたい夕方の6時前から寝ることに無理がある。今までの山行でも初日に熟睡できた記憶はあまり無い。身体も次第に岩の硬さで軋みを上げる。一睡もすることなく、ようやく12時。まだ夜明けまでは半分以上有ると思うと、ぞっとする。

その時、前方の岩をライトの明かりが照らした。ポリースが見回りに来たのだろうか? 身じろぎせずに息を潜める。どれくらい経ったろうか・・・。よし、もう大丈夫だろう。

今まで隠れていた月が後方の岩陰から現れ、周りの岩々を照らし始める。岩が自分たちの個性を解き放つ瞬間だ。月の光に輝く荘厳かつ華やかなペトラ。古代から岩と共に暮らしてきたナバタイ人やベドウィン達の悠久の想いに心を馳せる。このペトラの大地で寝ることで、自分もペトラの一員となった気がした。

ちょっと風も吹いて寒くなってきた。用を足すと同時に寒さ対策。ヤッケをザックから取り出し、シュラフの中に入れ、靴下も2枚に。そして、手袋もはめて帽子も被る。夜明け前はもっと冷え込んでくるだろう。この調子だと眠れそうに無いな、と覚悟を決めた。寒さに堪える為、身体も海老のように折り曲げる。やっぱりきついなと思いながらもだんだんと意識が薄れ、夜明け前にうとうととまどろんだ。ああ、ちょっと眠ることができたなと感じた頃、空は白み始めた。

そして、急速に周りの岩々が赤みを帯びる。いつもながら山で迎える夜明けの色は暖かい。夜明けのペトラを写真に収めようとカメラを出すが、うんともすんとも言わない。そんなばかな・・・。バッテリーを交換しても同じだ。ちゃんとバッテリーを充電してきたのに。もし、ハルーン(ホル)山に登れたとしても証拠写真が撮れないではないか? まあ、仕方ない。仲間を連れてもう一度登りに来いということか・・・。

あまり早く出発すると、ペトラで野宿したことがばれてしまう。わざとゆっくり過ごし、6時半頃に出発した。7時前に昨夜のベドウィンの住居でシャイ(紅茶)をよばれ、いざハルーン(ホル)山へ。

車の通るしっかりした道を進む。要所要所にはベドウィンの住居があり、“ロバや車に乗らないか”と誘われる。誘いを断りつつもハルーン(ホル)山への道を彼らに確かめる。途中大きな丘を越えると眼前に見覚えのあるハルーン(ホル)山と頂にあるアロンのドームが見えた。ちょうど真上にはまだ力強く光を放つ月の姿が・・・。

《遥かハルーン(ホル)山への道。下山後に撮影。山頂のドームが見える》

輝く月とハルーン(ホル)山。絶好のシャッターチャンス。カメラが使えればともう一度スイッチを押すが、やはり動かない。諦めて、誇らしげな山の姿と美しさを心に焼き付けて進む。

広い高原で、道も何本か現れるが、とにかくハルーン(ホル)山の方角を目指し、歩を進めた。途中の道も実にのどかで、その景色や周りの雰囲気も素晴らしい。ああ、いい山だなあとつぶやく。そして、見慣れたホル山岩峰の基部も真近に迫ってきた。

しかし、ここでその岩峰へのルートで迷いが生じた。するとそこにベドウィンの少女が・・・。彼女は私に“シャイ(紅茶)を飲んで行け。”と勧める。私は“先を急ぐので、帰りに立ち寄るよ。”と答える。“ところで、ハルーン(ホル)山へのルートは知っているか”と身振り手振りで聞く。彼女はベドウィンにしては英語が上手くない。しかし、ルートを指差し、“マイウェイこれこれ!マイウェイこれこれ。”と方角を丁寧に教えてくれた。

私の思っていたように、岩峰を左から回り込んでいくのが正解のようだ。確信を得て、彼女に礼を言い登り始めた。見えていたドームも手前の岩峰に隠れるが、頂上の方角を頭に叩き込んでいる。その方角をひたすら目指す。

やがて、目指す岩峰の基部に到着した。ここで道は右と左の正反対に別れている。左の方が明らかにはっきりしている。おかしい。私の目指すドームは明らかに右だ。決心して踏み跡の少ない右のルートを取る。岩場に沿った道は傾斜を増してくるが、しっかりしていて不安は無い。

しばらくすると最後の岩場に出た。しかし、ここはロッククライミングの道具が無ければ登れそうに無い。岩峰を回るように左側に道が続いていた。それを進む。そして、コル(鞍部)に立つと岩峰の割れ目にしっかりした階段が現れた。ああこれがドームに至る道なのか? 普通なら登れそうに無い所にしっかりとした階段が続いている。

《ハルーン(ホル)山頂上直下の岩峰》

登り始めて直ぐに白いドームが見えた。やった、俺は頂上に立てるんだ。そう思うと目頭が熱くなり、鼓動も激しさを増してくる。そして、憧れの頂へ・・・。

ドームに立ち、ひょっとしたら?とカメラを出す。スイッチを押すとレンズが動いた。アッラーの神の思し召しか? 諦めていた頂上のドームを撮影することができた。アッラー・アクバル(アラーは偉大なり)。天に向かって、そう叫ぶ私がいた。頂上の展望も実に素晴らしい。360度の大展望を一人きりで堪能し、アロンのドームに別れを告げた。

《山頂のドーム》

《山頂に聳えるドーム》

コルから下るのに別のルートを取る。おそらく下で迷った左のルートがここに繋がっていると確信した。コルにある小屋にいた一人の男に尋ねる。やっぱりこの道でも下れるとのこと。彼はベドウィンだと思ったら何とポリース。このコルには結構大きな発掘中の遺跡があり、ここに常駐して盗掘を防止しているのであろう。こんな厳しい場所にも立派な遺跡が存在するとは・・・。ペトラには想像を遥かに超えた文明が存在していたことを改めて思い知らされる。

無数の踏み跡が交差し、どうも登りとは違う道を辿ってしまった様だ。シャイ(紅茶)を約束した彼女の場所から離れそうになるが、御礼を言うために道を戻り彼女の元へ。妹と二人で私の帰りを気長に待ち続けていた。

シャイ(紅茶)を注文し、持参した昼食用のビスケットを3人で仲良く食べる。お姉さんの名はファーティマ。預言者モハメッドの娘の名で、タンザニアやトルコでもメジャーな女の子の名前である。聞き覚えのある名前なので、直ぐに覚えた。妹の名は聞きなれない名前で聞き流すのみ。ご免ね・・・。二人ともなかなか素朴で可愛い。

シャイ(紅茶)を飲んでいる時に二人の登山者が。ここで始めて見た私以外の登山者だ。ハルーン(ホル)山をバックに姉妹の写真を撮って、次回の再会を誓い別れを告げる。

《ハルーン(ホル)山をバックにファティマとその妹》

帰りに昨夜今朝とシャイ(紅茶)をよばれた住居に寄るつもりだったが、犠牲祭壇へと直接向かうルートを取った。お礼の挨拶はまた次回に。犠牲祭壇からローマ劇場横に下り、観光客でごった返すエル・ハズネを横目で睨みながら帰途に着いた。

《犠牲祭壇付近の岩峰とロバ》

《ハルーン(ホル)山をかなたに振り返る》

 

《犠牲祭壇から王家の墓を望む》

生涯忘れることのできない、充実した山行となった。

 

 


ヨルダン通信その7(2009年10月)

2012年07月18日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その7

アンマンで、9月中はまだ夏のうだる様な暑さが続いていた。そして、9月30日に夏時間から冬時間になった。時計の針を1時間早めるので、日本との時差は1時間広がり7時間となる。冬時間になると同時に、季節も秋を通り越して一気に冬へ突入といった感じである。アンマンでは殆ど無縁だった雨も降り出し、気温も急に下がった。

秋の合い服がここでは必要無いとは聞いていたが、まさしくその通り。冬の外出用にダウンタウンの古着屋で見つけた5JD(700円程度)均一のLLビーンのジャケットとカナダ製のダウンジャケットが大活躍となりそうだ。

実は日本庭園の工事が着工してからこのヨルダン通信を送る予定であった。しかし、事は思うようには進まず、本格的な着工はいつになるか解らないのが現状だ。私の様子を心配されている方も多いと思う(希望的観測)ので、取り敢えず最近の様子を知らせたいと思う。

<活動編>

10月19日にイスラム最大の行事であるラマダン(断食月)が終わった。待ちに待った日本庭園の工事開始だと意気込んでいたが、一向に始まる気配がない。市役所本庁の技術者に呼ばれたと思ったら、以前に打ち合わせした事の繰り返しである。図面にあるこの部分の石はどんな物を使うのか・・・?どれくらい必要なのか・・・?どんな仕様なのか・・・?等々。

前に説明して、サンプルの石も提出済み。なのに、そのサンプルもどこかへ無くしたようで説明は最初からやり直し。一体どうなっているんだ・・・。工事の苦労ならともかく、それ以前の問題で頭を悩まされるとは。時は私の思いに反してどんどん経過していく。果たして来年の3月に完工できるのか? 次第に不安が増してきた。

少しでも市役所に対してプレッシャーになるのではと、一人でアブドゥーンの現場での人力整地や事務所の周りの公園の清掃を再会したが、全く気にも留めていない。余りに事が進む気配がないので、工事が始まるまでは事務所にも来るものか!!と出勤拒否を企てようとも思った。

大使館やJICAからも市役所に圧力を掛けてもらうように要請した。その甲斐あってか、“11月中には工事業者を入札により選定し、12月初めからは工事に入れるだろう・・・、インシャアッラー(神のご加護があればね?)”という新任の公園事務所長、ラーントからの返事をやっともらった。

一歩前進と思ったら、石の第一候補地であったウンム・カイスが遺跡に近いので採取許可が出ないと言う。“ならば、もっと早く言えよな!”という気持ちだったが、他の候補地を検討するようにとラーントから要請があり、ペトラ近くのマアーンという街付近に調査に出かけた。

ここの石は色がもう一つ気に入らなかったので、他の場所から採取しようと考えていたのだが、既にダンプカーが用意されていて、せっかくだから採取して帰れとの事。日本庭園には合わないと言っても後の祭り。結局ここの石を採取することに。しかし、ダンプ2台分を採取した後は何とかストップを掛けることができた。やれやれ・・・。

《マアーンで石を採取する》

《アブドゥーンの現場に石を降ろす》

ルダンでの日本庭園建設は実に多くの妥協を強いられる。私がどれくらい妥協するかが工期に関わってくる。時間さえあれば、日本庭園に対しての妥協はしたくないが、現実は厳しい。スムーズに事を運ぶには、できるだけ彼女らと妥協していく必要性があるように感じられた。

石が現場に搬入できれば、12月からの本格的な工事の前に、重機を導入してもらい、滝組や護岸の石組みが進められる。そうすれば私の焦りも少しは紛れるだろう。

上手くいく様に、今までより真剣にアッラーの神にお祈りすることにしよう。 

<結婚式編>

事務所の同僚、ベドウィンのモハメットに誘われて、またまた結婚披露宴に行った。ベドウィンは《 砂漠の民 》 として、ヨルダンへの赴任前から興味を抱いていた。前に招待されたのはヨルダン人の結婚披露宴だったが、今度は待望のベドウィン。

《結婚披露宴の野外会場》

私は披露宴の撮影係を頼まれた。ヨルダンではあまりカメラを持っている人が居ないので、私のカメラは重宝がられている。この日は職場の仕事を終えてから出かけた。会場は膨れんばかりの招待客だった。そして、さすがにベドウィン。頭にカフィーヤという布切れを巻いた客が多く、アラブの雰囲気たっぷり。受付で日本と同じ様に、お祝いのお金を渡す。

《日本と同様、受付けでお祝いのお金を渡す》

披露宴はこの前と違って、歌ありダンスあり花火ありの盛大な催しだった。私もダンスに借り出された。カフィーヤを頭に巻かれ、ベドウィン達と一緒に踊る。単純なステップの繰り返しで、見よう見まねで踊ると、やんややんやの喝采! なかなか楽しい経験が出来た。翌日も催されるということだったが、あいにく日本人会の運動会がある。残念・・・。

《私も一緒に踊り出す》

《長老達の席》

<ワディ・ラム編>

南東部に位置するワディ・ラムはヨルダンきっての自然景勝地である。映画“アラビアのロレンス”の舞台となった場所で、ペトラと共に世界的にも有名な場所だ。サウジアラビアへと続く砂漠地帯の中で、無数の岩山が忽然と聳え立つ景観は登山家の端くれだと自負する私ならずとも、強烈に人々を引き付ける磁力を持っている。

《ロレンスの泉から見下ろす》

《ワディラムにて》

青年海外協力隊のメンバーがワディラムツアーを企画してくれたので、これ幸いと参加を決めた。20名程のメンバーで出かる。4輪駆動のトラックで砂漠をサファリし、ベドウィンのテントに泊まった。

《砂漠を4輪駆動でぶっ飛ばす》

今回は奥にある自然にできた大橋を登るコースだ。ここは岩場が多く、ベドウィンのガイドがいないと登れない所で、最後のアップダウンはザイルを使ってのロッククライミング・・・。日本での未公認山岳ガイドとして、ここは醜態を見せられない。久々に緊張した。

《自然にできた大橋》

《橋の上に登る》


<ペトラ編>

ペトラはここヨルダンで私が一番気に入っている場所だ。雄大な自然の中に古代からの人々の暮らしが今も息付いている。ナバタイ時代やローマ時代の無数の遺跡が点在し、今は観光に従事しているベドウィンたちの住居もその中に在る。また、ハイキングに適したルートが数々存在する。何度赴いても新しい発見が私を待っている。トルコで一番気に入っていたカッパドキアに共通するものを感じている。

《愉快な協力隊の仲間達、背後の山がアル・ビヤラ山》

私がラマダン開けのイード(休日)にペトラナイトツアーを企画した。協力隊やシニアのメンバー、10名程が集まった。近くの村、ワディ・ムーサで1泊4JD(560円程度)の安ホテルに宿泊し、ホテルでの星空観賞とペトラハイキングを楽しんだ。近くのスモールペトラでは岩の割れ目に潜んでいた、本物のサソリを発見。岩場を登行する際は注意が必要だ。

《本物のサソリを発見》

《スモールペトラのシークを行く》

《スモールペトラ》

先々週の休みにはペトラの中央部に位置するアル・ビヤラ山に単独で挑戦した。この日はヨルダンでの登山の最大目標であるホル山の偵察を兼ねていた。ホル山はモーゼの兄、アローンが神に導かれて頂へ登り最期を迎え、そこで先祖の列に加えられたと旧約聖書に書かれている有名な山だ。頂上にはアローンの墓を象徴するドームが立っている。日本人はまだ誰も登っていないのでは?という噂もあり、これは是が非でも私が登らなくてはならない。

《背後に聳えるアル・ビヤラ山》

さて、アル・ビヤラ山は日帰りで挑戦なので、あまり時間が無い。朝6時45分、アンマン発のジェットバス(国営バス)に乗り、11時前にペトラの駐車場に着く。途中、ローマ劇場の上にある犠牲祭壇近くからこの山の全容を見ることができる。

岩峰の傾斜がきつく、簡単に登れそうな山ではない。しかし、ルートファインディングには自信がある。唯一考えられるルートを見出し、頂上を目指した。すると途中でしっかりした階段が現れた。階段は天にも続くか如く上へ延び、頂へと私を導いてくれた。見えない力に引っ張られた様で、不思議な感覚がした。そして憧れの山であるホル山の偵察もできた。次はホル山だ!!

《天にも続くアル・ビヤラ山の階段》

《アル・ビヤラ山頂からペトラ王の墓群を見下ろす》

 

 

 

 

 

 


ヨルダン通信その6(2009年9月)

2012年07月16日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その6

<ラマダン編>

朝夕はめっきりと涼しくなってきたが、日中はまだまだ暑い日差しが降り注いでいる。今年は8月22日からイスラム恒例のラマダン(断食)が始まった。ほぼ1ヶ月間のラマダン中は夜明けから日の入りまで、一滴の水分も口にできない。

以前赴任していたトルコでは2日間、このラマダンを体験した。さすがに仕事に支障がある(日本庭園の手入れがはかどらない)ので、2日間で終了したが、食べ物のありがたさを身にしみて感じることができた。

ところで、トルコでは断食をしない人も僅かではあるが居た。レストランも開けている店もあり(堂々とは開けてはいないが・・・)、そこで密かに昼食することは可能だった。

しかし、ここヨルダンでは全くと言っていい程レストランの類は閉まっている。大型スーパーの中でもファーストフード店やレストラン街は日中は営業していない。

今年のラマダンが夏の暑い季節(毎年少しずつずれていく)で、なおかつヨルダンはトルコより緯度が低いので、ここ数年は相当過酷であろう。今回は最初から断食に挑戦するのは無謀だと諦めた。

とはいっても、断食をしている同僚達の前で公然と食べる訳にはいかない。職場に居る間はみんなと同じ様にラマダンを行う。作業時間がいつもより短縮されているので、終わるや否や、今まで歩いていた距離の半分程度をバスに乗り、アパートに帰宅してから遅めの昼食を採っている。

幸い私の住んでいるアパートは殆ど外国人ばかりなので、気が楽だ。朝も部屋できっちり(いつもより量も多く)食べているので、職場内でのラマダンもあまり苦にならない。

日本庭園の工事が始まっていれば、しっかり食べないと無理だろうが、予想通りというか工事はまだ始まらない。ラマダン明け(9月20日前後)の後にお祭り騒ぎの長期休暇があり、 本格着工はそれが終わった10月に入ってからだろうと考えている。

太陽が沈み夜になると、アパートの周りが急に騒がしくなる。それまであまり動かないでラマダンに耐えていた人々が食事をたらふく採って、ショッピングに街へ繰り出す。私も時々歩行者天国のある繁華街をうろつく。昨年も近くのホテルで過ごしていたので、ここスワフィーエ(私の住んでいる地域の名前で、トルコでも同じ名前の所があった)界隈は私の庭となっている。

《アパート近くの街並》

<作業編>

アブドゥーン日本庭園の滝組と池の護岸や飛び石等に用いる石の選定で、シリア国境近くのウンム・カイスと少し東に行ったマフラック、そして南の景勝地、砂漠と岩石群で有名なワディラム及び紅海に面した都市アカバに行った。

《ゴラン高原をバックにウンム・カイス遺跡にて》

昨年調査していたカラク及び死海近郊と今回調査した中では、日本庭園に適した石があり、なおかつピックアップしやすい場所はウンム・カイスだと思われた。ここの石を第一候補に選定し、わかり易いレポートを作成し市役所本庁に報告した。

様々な大きさの石が存在し、汚れも少なく少し丸みを帯びた味わいのある石だ。ただ、場所が有名な遺跡に近いので、採石の許可を得られるかが懸念材料である。だめでも他の候補地があるので、何とかなるだろう。

石張りや延べ段、タイル張り、砂利等の細かい石の選定はアンマン市内の石材店を数箇所訪れ、おおよその選定作業を済ませた。これに伴って、市役所本庁の女性技術者と工事方法や材料についての打ち合わせを重ねている。

《本庁の技術者と綿密な打ち合わせ》

同時にヨルダン人が工事の内容を把握できるよう、図面の様々な地点における断面図や詳細図を作成し、事務所のパートナーであるサウサンが私の図面をトレースし、アラビア語での図面作成をしてくれている。

《サウサンが私の図面をトレースしてくれた》

《トレース図面を元に距離を細かく測る》

たぶんラマダン中にはこれらを元に、工事業者が入札で決まるのではと考えている。ラマダン開けは1週間ほどの長期休暇があり、日本の正月の様に人々が帰省する。イスラム住民の大移動だ。休暇が明けて、気分も新たに日本庭園の本格的な工事に入りたいと考えている。

<観光編>

石の調査で紅海に面している港町アカバに行ったが、ここはヨルダンきってのリゾート地である。石の調査が終了してから、昨年日本から一緒に赴任した、青年海外協力隊員のKさん宅にお邪魔し、アカバでのシュノーケリングを楽しんだ。

珊瑚礁の海中を泳ぐ熱帯魚を見ていると、インド洋に面したタンザニア、ダル・エス・サラームの美しい海での思いが蘇ってきた。アカバではもちろん恒例?の刺身も美味しく頂いた。

《アカバ港からイスラエルの都市、エイラートを間近に臨む》

《アカバ港を散歩する親子》

アカバで過ごした後、私がヨルダンで今一番気に入っているペトラへ向かった。昨年に行かなかった場所を歩いたが、岩登りの技術が必要な所もあり、登山家としての血が騒ぐ。雄大な自然の中で、久し振りに納得いく登山が楽しめた。

《朝のエル・ハズネ》

《兵隊さんと記念撮影》

《ぺトラで出会ったレバノン美人》

《ペトラの警察官》 

幸いアンマンにある私のアパートからはペトラ行きの長距離バスの便が良いことを知った。日帰りも十分可能である。これから機会ある度にペトラに行って、傑作を撮りたいと思う。

以前に頼まれ庭木の剪定をした家で、娘さんの結婚披露宴に呼ばれた。イスラムでは男性と女性は別々の場所で祝う。女性の場所は歌や踊りで賑やかなのだが、男性の方は妙に静かだ。

まず新郎の親戚を新婦側の親戚が出迎え、新郎が参加者にキッスでのお出迎え。 その後、キュネフェ(クナッフ)という餅のようなお菓子(トルコでも一般的なもてなしのお菓子)とジュース類が配られ、一斉に食べる。

《新郎がキッスで出迎える》

《キュネフェ(クナッフ)という御餅のようなお菓子をみんなに配る》

最後は全員でイスラムのお祈りを捧げ、お開きとなった。女性の披露宴会場も見たかったのだが、テントと布で覆われていて中を見ることはできなかった。 残念!

ここはトルコのように、住まいの近くに青空市場が無いが、アブダリというバスステーションに毎週金曜日、市が立ち出かけてみた。古着や靴類が多く出品されている。安価で良い品物が手に入るので、非常に便利な所だ。

《アブダリで金曜日に開かれるスーク(青空市)》

《古着や靴、雑貨が売られている》

いつもは日本と同じような大型スーパーで買い物することが多い私だが、久しぶりに活気のある青空市を味わうことができた。

 

 


ヨルダン通信その5(2009年8月)

2012年07月15日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その5

2回目のヨルダン赴任でアンマンにいる。 2008年3月25日から6月24日までの3ヶ月間、日本庭園の設計でここに赴任していた。その工事が決定し、日本庭園建設のため、2009年6月2日にここアンマンにやって来た。

赴任してあっという間に2ヶ月が経ってしまった。最初の1ヵ月半はホテル住まいだったが、JICA事務所のあるスワフィーエに洒落たアパートが見つかり、アンマンでの生活を楽しんでいる。これまでの様子を報告する。

<作業編>

アンマンに着いた時は、至る所にジャカランダの鮮やかな紫の花と色とりどりのブーゲンビレアがとても美しかった。青年海外協力隊で赴任したタンザニアでもジャカランダの紫の花が非常に印象的であった。肌を刺す太陽の痛みと共に目の中まで飛び込む紫の花々が、心の奥底にある懐かしいアフリカの記憶をフッと思い起こさせた。

《シェラトンホテルの前でジャカランダの花が咲き誇る》

さて、アブドゥーン日本庭園の現場だが、私の赴任までにおおよその整地は完了しておくというアンマン市役所の話だった。しかし、到着して最初の休み(金曜日)に現場に行くと、全く手付かずの状態で放置されていた。覚悟はしていたものの、前途多難といったところであろう。

とりあえず、昨年と同じ公園事務所での事務作業や事務所に隣接する公園の清掃作業(とにかく公園はゴミが多い)をこなしていた。一向に日本庭園の着工日が決定される様子がないので号を煮やし、“私一人でも工事を開始するんだ”と言う気構えで、単身アブドゥーンの現場に入ることにした。

《女性部屋から男性がたむろする玄関に移された私のデスク》

日本人が一人で現場作業していれば自ずと目立つだろうし、工事現場近くの住人も集まってくるだろう。以前赴任したトルコに於いても興味を持った人々が次々と私の元にやって来た。ここでもやがて話題になり、役所も本腰を入れ始めるのではと言う目論見があった。 

《レーキを手に一人で黙々と整地作業をする》

ところが、ここヨルダンは違っていた。現場が高級住宅地の一角にあるために、平日の昼間は人通りが殆ど無い。誰に見られることも無く、ただ一人辛抱強く作業を続けるだけだった。

そして、整地のためのブルドーザを現場に入れてくれるよう、事務所長のシハームに口を酸っぱくするほど嘆願した結果、先日やっと念願のブルドーザが現場にやってきた。ブルドーザが入ると、何と半日程度で整地作業及び既存の松の移植が完了。私のあの苦労は何だったのか・・・。まあ、身体慣らしというところであろうか。

《ようやくブルドーザを入れて整地に取り掛かった》

《現場に植わっていたマツの移植》

これで一段落といったわけでは無いが、本局の工事技術者達との打ち合わせも始まり、建設工事の業者は入札で選定するという段取りが決定した。そのための詳細図作りや庭園に使用する石やタイル等の建設資材の選定作業に入っている。

《石の剪定にカラクに向かう。奥にアンマンの水瓶であるダム湖が見える》

《降水量が世界で2番目に少ないヨルダンでは貴重な水源だ》

《カラクの石》

願の工事もようやく動き出した。しかし、厄介な事には今月の20日からイスラムの最大行事であるラマダン(断食月)が始まる。それまでには工事業者を決定し、着工を開始するという話にはなってはいるが、果たしてうまくいくだろうか?

たとえ工事を開始しても、この暑さの中の断食ではちょっと肉体作業はきついだろう。断食が終わり一段落着いた、10月初旬当たりが本格的な工事開始になるのではと感じている。以後の工事がスムーズに捗る様、それまでの期間は周到な準備に当てる必要がある。

工事は一応、来年の3月末が完工の最終期限(日本の万博基金を充てるために、今年度中に完成させなければならない)である。私の任期も3月末までなので、昨年に作成した工程表もそれに合わせて修正する必要が出た。

昨年患った花粉アレルギーの季節も過ぎ去り、今回は体調もすこぶる良いので、若干の焦りを感じながらも、張り切って仕事をこなしている。

<観光編>

さて、ここでの休みは金曜日(イスラムの安息日)だ。今回の任期は10ヶ月。去年よりは時間が有るのであまり観光には行っていない。しかし、青年海外協力隊の若者達と共に大使館関連の催しなどに出席する機会が多く、それなりにいろんな体験をしている。

ハンドボール日本女子ユースのアジア予選がここアンマンの体育館で行われ、その応援に大挙して出かけた。 宿敵韓国に決勝で、32対31の1点差で惜しくも負けはしたが、声を限りに応援した。

《韓国コート内に攻め込む日本チーム》

《健闘を称えて、大使(中央右)を囲んでの記念撮影》

翌日は大使公邸で、彼女らとの懇親会。久しぶりに美味しい日本食を戴いた。大使公邸の料理人はあの“なだ万”から出向して来ている“げんさん”と言う好青年。協力隊員の間に溶け込み、料理の腕もさすがである。

ある日、事務所からの帰りに美しい教会(イスラムの国だが、ヨルダンではトルコよりも教会の数が多い)を撮影していると、中にいたヨルダン人に捕まり、教会の中に連れ込まれた。しかし、こっちも慣れたもので、落ち着いて身分証明書を見せ事情を話すと、逆にキャンディーやシャイ(紅茶)でもてなされた。内部の写真も自由に撮っていいよと言われた。こんな時は日本人で良かったと思える。

 《昨年から気になっていた教会へ行く》

《教会中庭のマリア像》

同僚のサートの住まいがあるザイでは、昨年仲良くなった彼の子供達とバーベキューを楽しんだ。後日、日本人の仲間達ともここでバーベキューをしたが、みんな大感激!! 素晴らしい自然とバーベキューの鶏肉に舌鼓を打った。

《サートの子供たちとバーベキューを楽しむ》

青年海外協力隊の若者達とワディ・ムジブという沢にハイキングに出かけた。想像以上にスケールの大きな沢で、水量も多く、泳がなければ通過できないところもある。日本の黒部川上廊下を思わせるような沢だ。

《黒部川上廊下を思わせる死海沿いにあるワディ・ムジブの沢》

久し振りの沢登りを体験できたのだが、新調した一眼レフが水に浸かり、おじゃんと相成った。昨年使っていたバカチョンカメラ(こっちの方が発色は良い)がもう一台あるので、何とかなるだろう。ここでの修理はあまり信用できないので、修理は日本に帰ってからにした。

次の休日は念願の死海へ浮かび(浮力がありすぎて泳ぐ事はできない)に行った。昨年はカラクへの石視察の帰りに眺めただけだった。浮かぶのは今回が初めて。想像はしていたが、身体がふわりと浮いた時の感激は想像を遥かに超えたものだった。

《プール付きの豪華ホテルで死海に挑戦》

水から上がるとヨルダン人に捕まり、泥パックをされてしまった。どうも私を泥パックの広告塔にという企みらしかった・・・。

《泥パックに挑戦》


この時期は死海付近の気温も50度近くになり、浮かぶのも15分が限界とは聞いていたが、一緒に行った者の中には死海大好き人間が多く、照りつける太陽に真っ向勝負を挑み、“負けてなるものか”と、1時間以上の浮遊体験をする。このまま数時間も浮いていれば、流されてイスラエルにも行けそうな感じだった。でも対岸に辿り着く前に機関銃の嵐が待っているのだが・・・。

《念願の死海で浮遊体験をする》

日本の援助で建設された、デッド・シー・パノラマから見下ろした死海とレストランでの食事がまた素敵だった。 

 

 


ヨルダン通信その4(2008年7月)

2012年07月14日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その4

6月25日に関西国際空港に到着する予定だったが、1日遅れてヨルダンから帰国した。アンマン、ドバイ間の飛行機(ロイヤルジョルダニアン航空)が遅れ、休息場所もあてがわれず、空港で24時間以上待つ羽目になった。一人での帰国、しかも真夜中の乗り継ぎ。こんなアクシデントは初めてだったので、さすがの私もちょっと焦った。

しかし、ドバイ空港でおとなしく待っているだけの私ではない。広い空港内を隅から隅まで探検し、アラブ土産の買い物や食事も満喫できた。

《ドバイ空港》

何はともあれ翌日無事に帰国し、直ちに羽田に飛ぶ。 27日、新宿にあるJICA事務所で今回の報告を済ませると、大阪にとんぼ返り。休む間も無く28日から会社に出勤し、植木の剪定作業に精を出している。

さすがに日本の暑さは厳しく、思ったように疲れが取れない。身体が自分の物では無いようで、日本特有の蒸し暑さと、そして歳のせいかなと感じていた。あまり経験の無かった頭痛も慢性的にある。しかし、周りの仕事仲間も全員暑さで参っていたので、まあこんなもんかなと自分では納得していた・・・。  
    
そして、久し振りにポレポレクラブ(私が主催している山登りのクラブ)のメンバーと山登りに出かけた。しんどい山でもないのに妙に疲れてしまい、やっぱりちょっとおかしい・・・。頭痛もひどく、あまり飲んだ事のないバファリンを飲む。上手い具合に薬が効いたのか、翌日からスッキリ回復。仕事でも気持ちの良い汗をかく事ができた。

《ポレポレクラブの活動再開》

考えるに旅の疲れから、軽い熱中症を罹っていたように思う。きっと血液がどろどろ状態になっていたのだろう。


ヨ ル ダ ン の 活  動  報  告 

《ヨルダン国旗とアンマン市役所の旗》


 【ヨルダンでの活動内容】 
    
1.アブドゥーンにおける日本庭園の設計、積算及び工程表の作成

来年度の工事を念頭に置いたもので、この計画を万博記念基金に申請し、基金が下りれば2009年4月から着工予定。 

2.日本庭園の紹介

職場の技術者達に、持参した日本庭園の本や写真,図面等で紹介した。
    
日本庭園の積算に関してはヨルダン側の工事単価算出が遅れ、結局日本側(私の計算できる単価)の工事費算出に留まった。今後は日本大使館の担当者とヨルダン市役所が中心となって、工事の実現を目指す予定。

《アブドゥーン日本庭園イメージスケッチ》

ヨルダンでは死海に浸かって、浮かぶのが夢だった。アンマンからは近く、いつでも行けると思っていた。ところが、自家用車かタクシーでないと死海に行くのが困難で、また気温が海に浸かれないほどに暑くなってしまったので、今回は取り止めることにした。アッラーのご加護があれば、また死海に浸かる日も来るだろう・・・。

その代わりにアンマン北部のアジュルンという街に行った。ここにはカラート・アル・ラバトという城がある。十字軍を迎え撃つためにイスラムの英雄、サラディーンの甥が築いた要塞だ。弓矢を射るための小窓が無数に開き、保存状態も非常に良く見応えのある城だった。

《アジュルン城となぜかフォルクスワーゲン》

《コーヒー売り》

《アジュルン城の城壁》

《アジュルン城にて警察官を撮影》

《敵に弓を射る窓》

《ナンバー・ワン》

《アジュルンの特産物であるオリーブの畑》

今回のヨルダンは3ヶ月という短い期間だったが、自分では納得する活動ができたと感じている。造園設計も工事を念頭に置いたもので、日本庭園の実現性も高いと言えるだろう。

ヨルダンの人々との交流も活発にできた。職場やその道すがら、暖かいヨルダンの人々の心に触れられた。アブドゥーン日本庭園の工事が決まり、縁があれば人々との再会を果たしたい。

《歴代ヨルダン国王達》

 

シュクラン(ありがとうございました)  そして、インシャッアラー!!(神のご加護があれば・・・)



《アンマン最大のブルー・モスク》