メルハバ通信その11
ここトルコにやって来てから、ちょうど1年が経った。最初の1ヶ月は異常にゆっくりと感じられたが、それ以降はあっという間に過ぎ去った。残された任期はあと1年、悔いの残らないよう、気持ちを再起動させてボランティア業務を遂行していきたいと考えている。
さて、アンカラの家族のもとに行っていた11月2日の夜、とうとうトルコで初雪が降り始めた。ちょうど家族と共に世界的にも有名なアナトリア文明博物館を訪れている時であった。
自宅のアパートを出る時に外があまりにも寒いので、家族と冗談半分で “雪が降ってもおかしくないな” と話していた。しかし、まさか本当にこんなに早く降るとは・・・。昨年は11月下旬か12月に降ったように記憶している。
博物館を出たあたりから、雪は夜中ずっと降り続き、翌朝は一面の雪景色となった。12階のアパートから見る雪景色に娘のmilima(美里麻)も大感激。
翌日、私が夕方6時半の最終バスでアンカラからカマンに帰る時、降り積もった雪のためにカマンの自宅に辿り着けるか、心配していた。しかし、運転手の腕前は誠に見事なもので、安心していて乗っていられた。
でも、翌日のカマン行きバスが雪で横転したことを聞かされた。1ヶ月ほど前にもコンヤという街で日本人旅行者を乗せた観光バスが、雨で出来た水溜りでスリップして横転し、乗客が1人死亡したことを思うとバスに乗る時はある程度の覚悟が必要である。
しかし、日が暮れて満月の光に照らされたバスから見た道中の雪原はなんとも言えない美しさであった。春以来しばらく忘れかけていた雪景色の素晴らしさと共にトルコに来れた感動が心の中から湧き出てくる。ここ最近はあまり感じなかった登山意欲も頭をもたげてくる。やはり雪のトルコ、特にここカマンの雪景色は素晴らしい・・・。
翌日、日本庭園に行って、またまたその雪景色を堪能することができた。雪面がキラキラと眩しいばかりに輝き渡り、誰も歩いていない雪の上を思う存分歩き回り、一人で写真を撮った。昨年は春まで日本庭園の剪定作業は休んでいた(トルコにまだ慣れていなかったのと、非常に寒かったため)ので、この素晴らしい日本庭園の雪景色を見ることができなかった。
《紅葉と雪景色》
《すっぽりと雪に埋まった》
《十三重塔》
《雪見灯籠》
今から考えると実にもったいないことをしたもんだなあと思う。今年の冬は天気の良い日を選んで日本庭園での現場作業を続けよう。しかし、いくら冬山装備を身につけている私でも-20℃以下での作業はさすがに遠慮させてもらいたいが・・・(昨年の冬は−30℃を記録した)。
《一足早いクリスマスツリー》
《一面の雪景色》
《冬の間はこの水槽に日本庭園の鯉を集める》
《研究所と日本庭園の名物犬たちも雪にびっくり》
先月も少し書いたが、トルコのラマザン(断食月)についての続編を書きたいと思う。9月23日に始まったラマザンは10月22日に無事に終わった。
私も1日くらいは断食を経験しようとは思っていたのだが、初日に寝過ごして肝心の朝飯を食べることができず、あまりの空腹で夕食まで待てずに結局未経験に終わってしまった。ちょっと残念であるが、来年もう一度機会がある。オロチ(断食)は来年に持越しである。
アンカラでは街に出ると、閉めている(営業していない)レストランもあるのだが、営業しているレストランでは多くの人々が何事も無いかのように食事をしている。ところがカマンに帰ると、利用しているレストランが軒並みに閉まっている。目立つ所には営業している店が見当たらない。ようやく探し当てたピデ(トルコのピザ)屋さんでクイマール(ひき肉)ピデとペイニール(チーズ)ピデを注文したが、店内で食べている人は誰もいない。アパートに持ち帰って、こっそり食べた。
何日か後で、この店の隅っこで食べている人を見つけたので、勇気を出して一緒に食べた。しかし、パンやピデを買いに来ている客にじろじろと見られて、食事している相手に対してする挨拶、“アフェイトースン”と言われた。その口調は明らかにいつもとは違うものであった。非難の口調である。
人前でラマザン中に食べ物を口にするのは勇気が必要だ。欧米化されているアンカラと違って、それだけカマンはまだまだ敬虔なイスラム教徒が多いといえるのだろう。
仕事場の日本庭園でも殆どの作業人たちがオロチ(断食)をしていて、休憩中にチャイを飲んだりパンを食べるのは、私とジェンギンズの二人だけであった。しかし、ジェンギンズが全く悪びれた様子も無く、私に “自分は今は仏教徒だ。” などと冗談を言って場を和ませ、他の作業人たちの目をあまり気にしないで食べることができている。日本庭園で作業するにはエネルギー補給が必要であるから・・・。
私が樹木を剪定していると、断食している作業人が疲れてフラフラになり、“あなたも休め。ちょっと働きすぎだ。”などと、付き合いで作業を中断させられることも多くある。
断食をする意味は、貧しくて食べ物もろくに食べられない人の気持ちを知ることにあると聞いた。しかし、働いている者にとって、作業効率は確かに悪い。ラマザンがイスラム国家の生産性に大きく関わってくることもあるようだ。
昼間は確かに宗教心を持って頑張っているとは感じられる。でも、日が暮れると普段以上に食料を馬鹿食いしているという噂もあり、胃袋にも負担をかける。果たしてこんなんでいいのかなと疑問を感じてしまう。
とにかく、やっとそのラマザンも終わり、生贄祭のクルバンバイラムと並んでトルコの2大祝日であるラマザンバイラム(シェケルバイラム=砂糖祭り)が23日から25日まであった。
アンカラでは子供たちが家に飴やチョコレートをもらいに来るので、用意しておくようにと言われていた。果たして日本人の元にも来るのだろうかと半信半疑でいた。
朝10時頃、ピンポーンというベルが鳴り、ドアを開けると、いかにも貧しそうな子供が二人立っていた。陰に隠れてお母さんらしき人が・・・。とにかく飴とチョコレートを差し出すと、片方の子はこぼれんばかりに掴んだが、もう一人は遠慮している。こちらから“ブユルン(どうぞ)”と掴んで渡した。これでちょっとはラマザン中に断食していない罪滅ぼしになっただろう。
その後、2組がやって来た。一人は高校生くらいの男の子で、チョコレートを掴みとった後に、怪訝そうな顔でパラ(お金)を催促する。子供なら1リラ(80円ほど)渡せば良いと聞いていたが、どうもうさんくさそうだ。“パラヨク(お金は無いよ)”と答え、知らん振りした。礼も言わずに帰っていった。
カマンでは誰もアパートにやって来る者もいなくて、ちょっと拍子抜けしてしまった。とにもかくにも、トルコでのラマザン初体験は終わったのである。
10月29日はトルコ共和国宣言記念日であった。28日にカマン市役所の前にあるアタチュルク(トルコ建国の父と慕われており、公の場所では今でもアタチュルクの像や顔を掲げる。)広場で花輪が掲げられた。何か催しがある度にこの広場で花輪が掲げられる。様々な団体の代表者が次々に花輪を置いていく。最後に広場に整列した全員での国家を斉唱で催しが終わった。
《アタチュルク広場にて》
《カマン市長》
《市長や郡長、警察署長など、お偉いさんが参列》
1時間足らずの催しだったが、本番の29日はサッカー競技場で本格的な式典があった。いったいどんな式典だろうかと大いに期待していた。
朝9時頃から笛や太鼓、ラッパの音が響き渡る。道路を学校の旗を先頭に生徒たちが行進する。さあ、会場であるサッカー競技場へと私達家族もみんなと一緒に向かった。
カマンは小さな町なので、競技場までは歩いても10分程度。クラクションを鳴らす車が目の前で止まったので、誰かなと覗くと副市長だった。彼の車に乗せてもらい、既に街の人々が大勢集まっている会場へと到着する。
あいにく真冬のような寒さだ。雪でも降ってくるのではと思える。会場に集まった人々もみんな震えている。
寒さに負けないで、民族衣装を着た女の子たちのダンスとサズ(トルコギター)の演奏で式典は始まった。バシカン(市長)やカイマカン(郡長)の挨拶があり、各学校の生徒たちによるパレード。 ブラスバンドでは職場のデスクがある学校で顔見知りのヨンジャが小さな体で小太鼓を演奏している。
《サズの奏者、役所の同僚ムラットの晴れ舞台》
《トルコの民族衣装を身に着けて踊る》
次々と知り合いの子供たちが目の前を通り過ぎる。私と目が合ってニヤッとはにかんだり、手を振る者もいれば、一心不乱に行進するものもいる。
日頃やんちゃな子供たちも実に真剣な表情だ。子供たちの中にはまだ私たちの顔を知らない子もいて、“わあ、日本人だ”と、驚いている者もいた。みんなの行進が済んで、盛大な式典も終了した。寒さで体はガクガク震えていた。
ところで、この式典の時にも私たちに、人懐っこい笑顔を向けてくれていたカマン市長が、1週間ほど前に心臓発作で倒れて意識不明になってしまった。式典の寒さが応えたのだろうか? 式典の間中、ずっとスタジアムで起立していたから・・・。市民からも慕われていて、気の良い尊敬できる市長だ。この時は元気そうだったのに、ビックリしてしまった。
まだ生死は五分五分の状態だが、何とか元気になって私たちにその笑顔を見せてほしいものだ。心から祈っている。