言葉にしないと伝わらないんだなぁ。

~どんなに心から想っていても、その半分も相手には伝わらないんだと分かってきた~

3.11。

2015-03-11 20:38:08 | 日記

人間には「想像する」というチカラがある。

「想像通りでした」というものも、もちろんある。

が、残念ながら、人間の想像力には限界がある。

それを思い知らされることが最近少なくない。

 

「癌かもしれません」 と言われた時の想像はついていた。
でも、実際「癌かもしれません」と言われた時の気持ちは想像をはるかに超えていた。

水害にあった町の様子を映像で見て、想像はついていた。
でも、実際、那須の大水害にあった時の衝撃は想像をはるかに超えていた。

ほんの数分前まで喋っていた家族が、
急な病気や事故で目の前から居なくなる辛さ。
それを思えば「お別れを覚悟する時間って優しい時間だ」と想像していた。
しかし「覚悟して下さい」と言われた時のその辛さ。
優しい時間という想像は甘かった。

地震。
地震体験車で「ほほう」と想像はついていた。
次々と襲う、日本の震災の映像で、頭では分かってた。
でも、それは想像をはるかに超え、記憶を破壊した。
覚えているのは、
「まるでフライパンの上で振られているウインナー」のように
家具や人間が床の上で遊ばれ、物が落下する音が響き渡り、
必死に出口確保の為、玄関を開けたら、
御神輿のように揺れる車が目に飛び込んできた・・・ということだ。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


2011年3月11日(金)朝。
前日少し風邪気味だった息子を、車で学校へ送った。
そして、休みで家にいた主人と、「今日は何をするか」を話す。
いつもだったら、少し足を延ばして、“ちょっとしたお昼ご飯”を食べるのだけど、
どうしても私の気分が乗らなかった。
なので家から一番近いハンバーグレストランで食べることに。
「俺の車、ガソリン無いんだよな。」というので、ガソリンを入れるべく、主人の車で出発。

レストランに着くと、親子連れが目立った。
あ、今日は合格発表の日だったんだな~とほほ笑む。
その時刻、2011年3月11日12時16分 。

食事を終え、ガソリンスタンドへ。満タンに。


レシートには 「2011年 3月11日 12:48」 の文字。

スーパーに寄り、買い物を済ませ、14時30分帰宅。
まもなく息子が帰ってくるのでストーブを点ける。
主人は外で植木に水やり。・・・と、そこへ、会社から電話が。
なにやらトラブルがあり、その対処法を聞かれているらしい。
14時45分。主人が電話をしながら家に入ってくる。 カンカンだ(怒)。
・・・・・・・すると地震が来た。
私はストーブの上のヤカンを、下へおろす。
その時、主人が携帯を手にしたまま、「この地震は大きいぞ」と言った。

一度おさまり掛けたかのように感じた地震が、巨大になって襲ってきた。
必死にストーブの“スピード消化スイッチ”を押した。
テレビが消えたことで、停電したことを悟る。
喋ることも、声を掛け合うこともできなかった。

家の中は メチャクチャになった。

長い長い揺れがおさまり(のちに6分間と知る)、外に出ると近所の人が声掛けに回っていた。
まずは怪我等無いかをお互い連絡し合う。
また、学校にいる子供達が心配なので、迎えに出ようということに。

車を出すと、瓦屋根やブロック塀が落ちて、道路を埋め尽くしていた。
それを茫然と見つめる家主さん。
道路中央で立ちつくしているので、大丈夫ですか?と声を掛ける。

学校に行くと、徐々に保護者が集まってきていた。
子供達は校庭の真ん中に座って、先生の指示通りにしていた。
ひとまず安心。
大きな余震が起こるたび、保護者の間から悲鳴があがる。
これに私は閉口していた。 怖いのは分かる。
しかし、子供達が必死に怖さと戦い、じっと静かに行動しているのに、
なんたる情けなさ。 私は大地に仁王立ちし「大丈夫。」と声に出す。
子供の前で、大人がしっかりしなくちゃいけないのは今だ。

そこへ降り出す雪。

子供達は教室にいた格好のまま外に出てきていて、そして足元は上履き。
寒さへの対応が迫られる先生方。 余震もあり、校内に生徒を戻せない。
そこで体育館へ一旦、寒さ避難することに。
そして 「迎えが来ていても、生徒は16時まで学校待機をする」とのこと。

すでに携帯は繋がらない状況なので、一旦家に帰り、主人や近所の人に学校の対応を話す。
主人が「会社に行きたい」と言うので、子供が家に帰ってくるまで待って欲しいと話す。

再び学校へ。
情報が無いので、憶測が飛び交っていた。
どこが震源地だったのか、なにがなんなのか、とにかく分からない。
16時。 すべての荷物を学校に置いたまま、上履きのまま、子供達は帰宅することに。
息子は私を見つけた段階から安心した様子で、落ち着いている。

息子帰宅。
家の中はメチャクチャで、ガラスも割れているので、靴のまま入室することに。
主人が会社へ。万が一、橋が落ちていたら、無理せず帰宅することを約束。
携帯が繋がらないときは、伝言板サービスを利用するよう話す。

強い余震が来るたび、外へ出る。 改めて家の中を見ると、
食器類が入るサイドボードが前に60cm、横に30cmほど移動、冷蔵庫もそれと同じくらい移動していた。
水が出ることを確認。 前述の通り、停電でも、うちはストーブなので暖が取れ、ありがたい。
いつ、停電から復旧するのか、暗くなるにつれ、段々不安になる。

この日、何を食べたのかは覚えていない。
うちはガスコンロなので、ガスで御飯を炊いたのかもしれない。
月が非常に明るくて、少し心の支えになる。
「真っ暗」というのがどういうことなのか、「機械の待機音すら無いという無音」がどんな感じなのか、
それが怖さとなって迫ってきた。 息子が「今」をとらえ切れず不安を口にする。
主人から「今日は会社に泊る」という連絡が来たので、息子の様子を報告。

すぐ避難できるよう、1階で寝ることに。
2階から布団を移動、“メチャクチャ”を、別のひと部屋に押し込み、なんとか寝る部屋を作る。
いざという時は掃き出しから逃げられる体制を取る。
裸足で逃げた時用に、予備の靴を車へ。車の鍵は開けたまま。
パジャマは着ず、洋服で布団へ。 
一度は会社に泊ろうとした主人が帰宅。 なにか思うところがあったのだろう。
多分、明日からは大変なんだし、今日くらいはゆっくりしたらいい。
実際、主人はここから6週間、連続出勤となった。

夜は余震で揺れっぱなしだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

実は、ここまでの文章を、震災から1年経つ前の、2012年初めごろに書いた。
本当は震災1年後として、2012.3.11に投稿しようと思っていた。
だけど、綴るにつれ、フラッシュバックして心臓が締め付けられるので、続きを書くこと、投稿するのを断念した。
そして震災1年半後の2012年9月、「続き」を書こうとしたら、震災当日の夜のことを思い出せない自分いた。
「夜は余震で揺れっぱなしだった」 の後が綴れないのだ。
これではいけない。  忘れてはいけない。
だから覚えているうちに書こうと思う。 再びキーボードを叩く。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

翌朝になっても、電気はきていない。
水が出ない地域の為に、給水車が出ます、と、防災無線が伝えている。
旦那は会社へ。
私と息子は買い物へ出ることにする。
しかし、電気がきていないのはスーパーの付近でも同じで、閉店のままだった。
そこで「自動販売機で飲み物だけでも買って帰ろう」と移動。 
でも電気がきてないんだもの、買えるはずない。
「バカだよねー」と、息子と目を見合わせた。
そう。まだ、ことの重大さが分かっていなかったのだ。

オール電化の御近所の家は、
「家に居てもなにもできないから・・・」と、親戚の家に一時避難する決定をし、車で出発した。
余震は相変わらず頻繁に起こってたけれど、
屋根瓦やブロック塀が壊れて道路に散乱していたものそれぞれが、片づけられ始めていた。
「今日も暗い夜を過ごすことになるかな・・・」
そう思っていたところに玄関のチャイムが鳴る。一瞬来客かと思ったが違った。
チャイムは通電している証しだ。 停電からの通電で、電圧が掛かり、チャイムが誤鳴したのだ。
御近所の人と復旧を喜び、親戚の家に一時避難した御近所さんにも、そのことを連絡した。
すぐさま「ガソリン入れに行ったらいいぞ!」と車を出す御近所さんがいた。
私はそれを少し冷めた気持ちで見ていた。
ガソリンスタンドに人が殺到するなんて無いと思っていたのだ。

電気が復旧。
つまりテレビが見られるようになったということだ。
どこが震源なのか、それも分からないままだったので、
その情報を得ようと思ってスイッチを入れた。
すると、そこにはもう、信じられない映像が流れていた。
「地震」ではなかった。
「つなみ」だった。

「え?」

という言葉以外は浮かばず、頭が真っ白だった。
そこへ「原子力発電所が爆発」というニュースが飛びこんでくる。
私には誤報であろうという気持ちがあった。
そんなはずはない。 そんなことはあってはならない。
でも、それは事実で、そして私の心を蝕んでいくことになった。

地域小中学校の休校を知らせる防災無線。
防災無線は頻繁に鳴っていた。
空には沢山のヘリコプターや自衛隊機が飛び交っていた。
「助けてあげて」「お願いします」「お願いします」と、ひとつひとつの爆音に手を合わせる。

家に灯油を運んでくれるガス会社さんが、我が家の灯油タンクを満タンにして去っていった。
頼んだわけでもないのに。
ガス会社さんに灯油を頼むと、自分で買うのに比べ割高なのは分かっているけど、
私は「いざという時の安心料」だと思ってお願いしている。
そして、残念ながらその「いざ」が起き、そして、安心料が私に「安心」をくれた。
灯油もガソリンも、どこへ行っても入れられない状態が既に起こっていたのだ。
でも「次の給油」があるかは約束されていない。
だから、ストーブに暖を入れるのは1日1~2時間に留め、
あとは、毛布に包まって過ごすことにする。

テレビではずっと、ずっと、ずっと原子力発電所の話が続いており、
画面左と画面下に「ブルーの帯の逐一情報」がずっと出たままで報告されていた。
わたしの精神が、この状態に耐えきれず、HDDに録画された、震災前のアニメや映画を見て過ごすようなる。
そのアニメや映画が終わると、自動的にHDDが停止となり、リアルタイムのニュースが映し出されてしまう。
私はその一瞬さえもダメになり、音声が聞こえないよう「わーわー!」と自分で声を出して誤魔化し、
HDDを再生するまで耳をふさぎ、目を瞑っていた。

テレビ〇京さんが通常放送を始める。

これに対して疑問を覚える人が少なくなく、批判も耳にしたけど、
でも、実はありがたかった家も多いと思う。 とにかく息子が「いつものテレビ」を見、ホッとした顔を見せた。
同じCMばかりが流れるし、「ブルーの帯」も出たままだけど、「いつもの番組」が流れたことは、
子供にとってプラスに働いたと思う。
しかし私にとっては、「ブルーの帯」はどうしても耐えられず、テレビの「ブルー帯」の部分に
切ったダンボールを貼って見えないようにする対策をとるまでになってしまった。

新聞も見られなくなった。
届いた新聞を、目をつぶったままポストから手に取り、そのまま仕舞いこんだ。
食べ物が無くなってきたが、買い物に行けない。
私の車のガソリン残量は1/4程度で、それは、主人の車のガソリンが底を付いた時、
会社へ行くために使ってもらおうと思っていたからだ。
このころ、ガソリンを入れるためのスタンドの列は数キロに及び、
3時間並んだ、7時間並んだ、という声が聞かれた。
それでも「10Lだけだった」と、疲れた表情を見せる隣人。
食べ物が無い と書いたが、うちには「米」だけは大量にあった。玄米。
義祖父のお陰。
野菜室にある玉ねぎを切り、タマネギだけが入った「カレー」を食べたりして、
息子の食欲に応えた。

1日の中で、夕方前になると、言葉を発すのがしんどくなる。
シンシンと涙が流れるようにもなり、
鏡を覗くと、顔が曲がってしまっていることに気付く。

3月後半になっても、掃き出しのある1階の部屋に寝ることは続けていた。
洋服で寝るのも続けていた。「いざ」という時に備え、「動ける」体制を保ち続けていた。

役立ったものがある。
それは「空いた2Lペットボトル」に水を入れ、保管しておいた50本ほどのもの。
うちは水道が止まらず済んだが、主人の会社が止まった。
飲料は支援物資として届けていただき、大切に大切に飲んで、
その空いたペットボトルを、今でも捨てられないほど感謝しています。ありがとう。
困ったのは「トイレを流す水」。
そこへ我が家の「50本」が役立った。
飲料はなんとかなっても、トイレの水が・・・という話を昔、テレビで聞いて、飲むことはできなくても
「使える水」を備蓄しておこうと思ったのがきっかけだった。
役に立てて良かった。

4月になり。
ガソリンスタンドが落ち着き、並ばずとも満タンに入れることができるように。
息子の体重が2kg減ってしまってることに気付く。
私は相変わらずテレビも新聞もダメ。
ジッとしてると色々考えてしまう。
計画停電中、息子とトランプや双六、オセロなどのゲームをしたりしたけど、
一番利用したのが「間違い探し」の本だった。
息子と二人、じぃ~~~~~~~~~っと絵を見て、
「ここ違う!」「やっと見つけた!」「無いねぇ・・・」なんて言って過ごした。
とにかく間違い探しの本には助けられた。
1人で過ごしている時も。
頭の中を空っぽにできたのだ。
本当に助けられた。

 

そろそろ新学期が始まる。
新3年生になる息子、髪の毛が伸び放題でぼっさぼさ。
そこで床屋へ行くことに。
息子が掛かってる間、私は待合室で待っている。
その待合室に「地方紙(新聞)」が置いてあった。
我が家は全国紙。
なんとなく「地方紙なら、表現が柔らかかったりするかも・・・」
と思い、意を決して手に取った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そこには。
もちろん、悲しい現実が書かれていたのだけれど、
「人間のあたたかさ」や「互いに思いやる心」、「世界中の人達の想い」
そんな記事が溢れていた。

私は、この地方紙を読んだことがきっかけとなって、
気持ちが前向きになっていくことになります。

学校が始まり、息子は3年生になりました(2011年4月)。
給食は簡易給食で、おにぎりを1つ、家から持って通いました。
8歳だった息子は、この頃よく、
「あんな地震、起こらなければよかったのに・・・」と口にしていました。
それは日本人、いや、きっと世界中の人が思っていることだった、
いや、 思っていることだ と思います。

そんなある日。
新聞に「亡くなられた方々」のお名前が載りました。
その日までに分かった、全ての方々のお名前でした。
新聞を
めくっても、
めくっても、
めくっても、
めくっても、
めくってもめくってもめくってもめくっても、
ずっとずっと続いていました。
めくっても。
めっくても。
それを見て、私は涙が止まらなくなって。
呼吸をするのも辛くなって、声を出して泣きました。 

半年後、とある大学病院の先生と話す機会がありました。
東北に近く、ヘリポートもあるこの病院には
震災時、沢山の方がドクターヘリで運ばれてきたそうです。
泥だらけの体を綺麗にし、なんとか助けようとしたけれど、
多くの方を助けることが出来なかったと、
あれほどの無力感は無かったと話されていました。

~~~~~~~~~~~~~~~~

みなさん、こんばんは。
今日は2015年3月11日です。
2012年9月に綴るのを再開し、2013年3月11日に投稿しようと思っていました。
しかし、2013年2月に最愛の父を突然死で亡くし、
私の生きる気力はゼロになりました。
2014年3月11日も、残念ながら投稿にまでは至れませんでした。
そして4年経った「2015年3月11日」、やっと投稿することが出来ました。

愛する人が、ある日突然いなくなるという辛さを私も経験しました。
それは地震、津波で愛するひとを亡くした皆さんの心に
少しだけかもしれませんが、寄り添えるものだと思っています。
今。
私の「ゼロになった生きる気力」は、プラスに復活しています。
沢山の人に助けてもらいました。
薬にも助けてもらいました(パキシルを最大で3錠飲んでいました。今、1錠にまで減りました。)
「助けて」というのはちょっと勇気が要るけど、どうぞ助けてもらってください。
いつか返せばいいだけです。
助けてくれた人に返すことを考えるのではなく、助けを求めている人に返せばいいと思います。
ペイフォワードでいいと思います。

本当は「声を出して泣きました」の後も綴りたいのですが、
ここで一旦投稿します。
物語ではないから、きちっと着地する文章にはならないからです。
2011.3.11~2011.12までを綴りました。

長文をお読みくださり、ありがとうございました。

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿