*私を忘れて
視界を通り過ぎる人々が皆、突然地面に倒れかかった。一瞬そう思ったが、倒れかかったのは自分だった。9月に入ったというのに灼熱の陽射しがアスファルトに照りつけ、熱気が3倍に増幅されて体を煽る。
月曜日の朝一番で仕事をしくじり、謝罪と説明のため、取引先とようやく3時の約束を取り付けた。上司からの叱責、対策の検討などに追われ、昼食はおろかろくに水も飲んでいなかったことに気づいた。このままでは熱中症になってしまう。時計をみると2時のところに両針がそろっている。昼食を取る間はないが、一休みする時間はありそうだ。
辺りを見回すと、人通りのとぎれた場所に白いドアがぽっかり浮かんでいる。吸い寄せられるようにドアを開け、外の熱気から逃げるように大急ぎで閉め、振り向いた瞬間、熊と目が合った。言葉を失って立ちすくんでいると「大丈夫。その熊は襲ったりしないわ。熊にだっていろいろな性格があるのよ」という声がする。声の主は黄金のティアラを片耳に飾ったウサギだった。あらためて熊をみると以外にひょうきんな顔をしている。
しばらくすると微かに蝶の羽音が聞こえてきた。これほど密やかな音に耳を澄ましたのはいつだったか記憶にない。やがて睡蓮のゆらぎをみつめているうちに体が重くなり、気づいたら周りは夜の森になっていた。
暗がりをあてもなく歩いていたら、木々の間に妻の横顔が浮かび上がった。
「どうしてこんなところにいるんだ。早く家に帰ろう」
叫んで手を伸ばすと、彼女はすっと遠のき「それが無理なことはあなたがよくわかっているでしょう」とささやいた。
そうだった。妻は2年前に事故で亡くなっていた。
「なぜ君が死ななければならなかったんだ」
「理由などないわ。死は宿命だから」
「世の中には別れたがっている夫婦が山ほどいる。なぜそいつらではいけないんだ」
「お互い傷ついたまま、永遠の別れをしては取り返しがつかないでしょう。私たちは違う」
「君は死ぬには若すぎる。世の中には生きていたって仕方ない奴だって沢山いる。僕はどうしても納得できない」
彼女の輪郭が少し滲んでぼやけた。
「君を失ってから、君のことを想わない日はない。途方に暮れながら毎日どうにかやり過ごしているんだ。きょうだってぼんやりして仕事をしくじった」
「そうしていつまでも私を失ったことに縛られているから、私はあなたと生きることができないの」
「何をいっているのかわからない。もう君は死んでいるじゃないか。そうだ。なぜ気づかなかったんだ。僕が君の所へ逝けば良い」
言い終わらないうちに、妻にしては珍しく決めつけるような口調で切り返してきた。
「だめよ。宿命で亡くなった人と自分で死を選んだ人との邂逅はないわ」
「そんな馬鹿な話があるか」
涙がこみ上げ、子供のように大声で泣きじゃくった。妻を失ってから思い切り泣いたことはなかった。泣く気力さえ失せていた。
「一体僕はどうすればいいんだ」
彼女の頬から涙が幾筋か伝い、生い茂った葉が受け止め、露となって光った。唇がゆっくりと動いた。
「私を忘れてほしいの」
耳を疑った。
「そんなことができるとでも思っているのか。なぜだ」
妻は一言一言、言葉を慈しみながら静かに語った。
「人は過去を忘れながら生きていくものよ。忘れてはいけないのは伝えていくべき事実だけ。それ以外の過去を忘れることは、喪失ではなくて、過去に囚われず自由になることなの。私を忘れることで私はあなたの一部になって蘇るのよ。そうすればあなたの幸せが私の幸せになって、ずっと寄り添って一緒にいられるわ。わかってくれた?」
泣き疲れて空になった心が、思いがけない言葉で満たされていき、いつの間にか微笑んでいた。すると妻の横顔がかすみ、やがて彼女の好きだったレモンの香りだけが夜の闇に残された。
気がつくと、さっきのウサギの絵の前に佇んでいた。ウサギの耳からは黄金のティアラが消えていた。
我に返って時計をみると5時を過ぎていた。約束を2時間も過ぎている。ドアを開けて飛び出しながら、もう自分はおしまいかもしれない、と思ったが、不思議に後悔はなかった。
外は暮れかかり、こもった暑気に混ざって、乾いた秋風が泣き濡れた頬に触れた。とりあえず取引先に連絡を入れようと携帯電話をだしたら日付が昨日の日曜日になっている。目を疑い、通りがかりの若い男に「きょうは何曜日ですか」と聞くと相手はけげんそうな顔で「日曜日」とぶっきらぼうに答え、気味悪そうにそそくさとその場を立ち去った。
そういえば周囲は皆休日の服装をしている。さっき出てきた場所を振り返るとドアに案内のポスターがあった。
「ギャラリー椿 武田史子 銅版画展 9月3日(土)から17日(土)まで。11時~6時30分 日曜休廊」
ドアに手をかけるとまだ5時半なのに鍵がかかっていて入れない。間違いなくきょうは日曜日のようだ。
薄墨色の空を見上げると半月に雲がかかり、さっきのウサギが耳に付けていた黄金のティアラがぽっかり浮かんでいるようだった。
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