母の膵臓ガン闘病記

2009年9月に膵臓癌を宣告された最愛の母の記録
2010年3月永眠…それからの私

原因不明の高熱

2010-05-30 20:09:31 | 日記
親友と電話で話し終えた途端、激しい腰痛が襲った。
そんなに無理な姿勢で話していたかな…と考えていると…
今度は激しい悪寒が始まり、身体が震え出し、指先が痺れてきた。

何なんだ!? 

取り敢えず布団に潜り込み暖を取るも、震えは一向に治まらない。

熱を計ってみた。
何と!
39.9度!!

何じゃこりゃ~? 

私は普段から熱を殆んど出さない。
何年かに一度、微熱っぽいのを出すくらいだ。

もしかして、インフルエンザ? 
えらい季節外れだけど…。

取り敢えず、バファリンを飲んで眠る。

38.5度まで下がった。

しかし、またさっきの悪寒・震え・痺れの3点セットがやってきて、再度バファリンを飲む。5時間経ったし。 

娘に救急病院に行くよう言われて、夫に車で連れて行ってもらった。

検査の結果、インフルエンザではなかった。
「取り敢えず解熱剤と抗生剤で様子を診て、下がらなかったら検査しましょう。」と医師の言葉である。

じゃあ何??

布団の中で携帯から『高熱』を検索。
私の推理では『肺炎』でなないかと思う。

ちょうど3年前の今頃、母が肺炎になり、さっきの救急病院に入院したことがある。 

明日、大好きな掛かり付け医院に行ってみよう。

親友からの電話

2010-05-29 19:54:54 | 日記
先日14日にお母様が亡くなられた親友から電話があった。

今日あたりメールでもしてみようと思っていたから、気持ちが通じているようで嬉しかった。

お互いに母のことばかりを延々と話す。
病気は違うが母への想いは同じである。

「母に逢いたいよね~」
「幽霊でもいいから出てきてほしいよね~」等々。

いつまでも母を忘れず、いつまでも母を語ろうと誓い合った。

少しずつ元気を取り戻す私達。
今度会う時は更に元気になっていたい。 

そして…彼女の電話を切った途端、私は高熱を出して寝込んでしまった。

娘の親友

2010-05-23 22:15:13 | 日記
娘にも高校時代よりの無二の親友が一人いる。

高校生の時から、我が家にもよく泊まりに来て、私と夫を『ママ・パパ』と呼び、我が家を『第二の実家』と称している。

母の通夜にも告別式にも来てくれた。
その後も傷心の私を心配してくれ、よく遊びに来てくれている。

昨夜は娘と共に、夕飯を作ってくれていた。
仕事から帰ると、大量の餃子が待っていた。
正に『餃子パーティー』であった。

母の言う『宝』が娘にもある。
私も母の気持ちになった。


友好活動

2010-05-22 22:44:23 | 日記
母の闘病生活が始まった時から、私は友人と会う時間を殆ど削っていた。
そんな時間は作れなかったし、そんな気分にもなれなかった。

母が亡くなり、私には沢山の時間がある。
少しずつ友人との時間を作ろうと思う。

今日は娘の友人を交えて、バーベキューに行った。
途中、母を連れて行きたかった温泉を通り、帰り道には、母が好きだったマンゴーのアイスクリームを食べた。

いろんなことを見ては母を思い出し、全てが母に結び付く。

母を忘れない人生をこれからも私は生きていく。

親友の母 その3

2010-05-17 15:08:55 | 日記
親友のお母様の告別式。

私の母より7歳もお若い、享年77歳であった。
私の母と病名は違うが、やはり病魔に勝てなかった。
肝臓の病であった。

9月には曾孫の顔を見れるはずであったのに。

5ヶ月の闘病生活は、お辛く苦しかったに違いないが、そのお顔は安らかで美しかった。

私の母と同じように、家族に真心の看病をされ、感謝の思いで、旅立たれたことだろう。

残されたお父様は昨夜より憔悴されたようで心配だった。

親友は、勤続30年。大企業の第一線で働いており、平日にもかかわらず、大勢の職場の方々が参列されていた。
彼女の職場における人望の厚さを垣間見た思いで、胸が一杯になった。
これからは仕事が彼女を支えるであろう。
そして、私も友人の一人として、彼女を支える一翼を担いたいと思う。

母を亡くして、本当に悲しいのは、心から寂しいと感じるのは、今日ではない。
日を追って、悲しみと寂しさが募ってくる。

それを乗り越えるには多くの時間が必要で、それを乗り越えるのは自分自身なのだ。

母を亡くして2ヶ月余りの私も、まだその途上である。

私の母と彼女のお母様の、私と彼女を見守る優しい笑顔が目に浮かんだ。

合掌。