母の膵臓ガン闘病記

2009年9月に膵臓癌を宣告された最愛の母の記録
2010年3月永眠…それからの私

もう…4週間

2010-03-31 22:34:57 | 日記
7日毎に実家の母の霊前へ行き、お花と御供え物をして…もう4週間である。

実感が湧かないまま…それでいて悲しみと寂しさは日ごとに増してくる。

母の遺影の前に座り、お骨を撫でながら、母と話しながらも、母の死を認めたくない心中と葛藤している。

何も変わらない実家。
ただ、母だけがいない。

何も変わらない母の部屋。
しかし、母のベッドは空っぽだ。

そして、私の心も、大きな穴がぽっかりと空いたままである。

ある人が言うには、「母が亡くなって、10年間泣いていた」と。

私が立ち直るには、どれだけの歳月が必要なのだろうか。

買い物に行けば、母のために買っていた物を目にして心が痛む。

何か新しいことがあれば、母に聞いてもらえない寂しさに苦しくなる。

目を瞑れば、必ず母の顔が目に浮かぶ。

母はもういないのに。
私の心は母が亡くなってから静止してしまったようだ。

息子の誕生日

2010-03-24 01:11:39 | 日記
23日は息子の誕生日だった。
前日に家族で誕生パーティーをした。

母に生きる希望を持たせようと、小刻みに母に楽しみを与えていた。
1月は『お正月』
2月は『母の誕生日』
3月は『息子の誕生日』であった。
4月は『お花見』
5月は『母の日』

しかし、母は息子の誕生日を待たずに逝ってしまった。

母の入院中、息子は母にも私にも本当によくしてくれた。
そんな息子への感謝の思いで、お誕生パーティーをした。

息子の好きなブランドのシャツを買ってきて、「私とおばあちゃんからのプレゼントやで!」と言って渡した。

母も見ていてくれただろうか。

息子は27歳になった。

母恋

2010-03-20 12:17:53 | 日記
私の仕事が休みの土曜日。
先週も今週も母の近所の方々がお参りに来てくださった。
母を偲び、涙してくださる母の友人の姿に、人望厚い母が見えて、新たな悲しみが込み上げてくる。

私の自宅へも亡き父の弟妹よりお供え物が続々と届く。

実家の留守電に母の闘病を知っていた父方の伯母からのメッセージが残されていた。
母の病状を心配された内容だったため、折り返し電話をかけ、母の訃報を知らせた。
その伯母が親戚中に連絡されたようである。 

父も亡くなっており、父方の親戚は遠方でもあるので、母の死は一切知らせなかった。

私は母を苦しめた父を許していなかったのかもしれない。

しかし、父方の親戚には何の恨みもなく、ましてや母の冥福を祈ってくださる気持ちは悲しいほどに有り難い。
ご厚情を心から感謝している。

そのことを母の霊前に話しかけるも、母と会話ができないことに、改めて悲しみで一杯になる。 
母の笑顔の遺影が私の悲しみに追い打ちをかける。

やはり…もう少し生きていてほしかった。

今更ながら、母が恋しくてたまらない。

励ます会

2010-03-15 00:33:41 | 日記
今日仕事が終わってから職場の人と、私の『励ます会』と称して焼肉を食べに行った。

明日からは今まで以上に仕事が忙しくなる。
でも仕事をしている時が一番楽しい。
今の私にとって、仕事はメンタル面でのリハビリのようだ。

よく考えてみたら、父が亡くなってから、僅か2年3ヶ月で母は逝ってしまった。
後を追うほど仲の良い夫婦では決してなかった。
身勝手な父が寂しくて母を呼んだのか…それなら許せない。
母の苦労の人生が鮮やかに甦る。
母があまりにも可哀想で、その思いは父への憎悪となる。
同じお墓に入れたくないとさえ思う。

母を殊更、不憫に感じる今日この頃である。

完成!

2010-03-13 04:03:14 | 日記
ブログを一日分ずつプリントアウトし、ファイリング。

『母の闘病記』が本になった。

最後のページには母の写真を載せた。

我ながら満足のいくものが出来上がった。

波乱の6ヶ月。
試練の6ヶ月。
母と共に歩いた6ヶ月。

この辛く悲しい…それでいて、充実していた6ヶ月の日々を永遠に忘れない。

母は偉大である。
母は勇敢である。
母は聡明である。
母は正義である。
その母たちが幸福に輝いていってこそ、
平和と希望の園が広がるのだ。


明日は母が待つ実家へ行く。