詩の作品展では、土曜と日曜日の夜に、朗読会をします。
今回は共演者(音楽などの)はいなくて、本当に久しぶりの、一人での朗読になります。
今回は、誰の手も借りずに(準備はお世話になるのですが)、
一人で詩を、ことばを語ることに向かいたいと思ったのです。
書かれたものを読むのと、
ことばを声にしてきくのでは、まったく違うものになります。
同じ作品を、違う人が朗読するだけで、まったく色合いがかわります。
読むのと、聞くのと、どちらがいいのか
それは、どちらとはいいきれないし、
抒情詩のようなものなら、一人の、静かな時間に読みたいと思うかもしれません。
いま、言語造形という、語りの芸術を学んでいます。
毎月、月に一度、兵庫の姫路まで、勉強しにでかけています。
わざわざそんな遠くまで・・・と思われるかもしれませんが、
この距離が、心の準備をさせてくれます。
一回の出会いの大切さを感じます。
言語造形に取り組むようになって、
ことばが発せられることにおいて、それが、わたしが求める価値、精神的な力に
届くように感じられます。
ことばに、真剣にむかいあうこと、まっすぐに声を解き放つこと、
あたまで語るのではなく、からだを動かしながらことばに取り組むことによって、
作品の感情を沸き立たせること。
そうして
からだでことばと向かい合うことによって、より、感情が純化したかたちで、
立ち上がっているように思います。
言語造形を教えてくださっている諏訪先生がおっしゃるには、
「あたまでこうしよう、ああしようと考えてやると、伝わらない。
手足を動かして、感情が自然とわきあがってくれば、それは伝わる」
と。
シュタイナーの考えでは、思考は頭部、感情は胸部、意志は手足とつながっています。
意志とは、その人が意識できないほどの意識下の精神の働きです。
その精神は、手足を動かすこと、からだをめいいっぱいひらいて、使うこと、
によって、他者にも伝わる感情を生み出すのです。
なんだか不思議なんですよね。
行為のかたちが、こころを生んでいる、というか・・・
練習時はものすごく動きますが、実際語る場では、からだは動きません。
そのぶん、見えないからだがその場を駆け巡っている、と思います。
動いて練習しているとわかりますが、内的なものを感じたのち、
動かずにことばを発すると、自分の内部で
なにかが動いているのがよくわかるんです。
おそらくこれが、この場に生まれるバイブレーションであり、
おそらく他者に知らず知らずに伝わる、
静かで、確かな、ふるえ、なのではないかな、と今のところ思っています。
今回語る予定にしています作品の中に、「帰郷」という作品があります。
わたしが23歳のころに書いた、一人芝居の戯曲です。
それは、恋愛に挫折した若い女が、生まれ故郷の海の見える丘で、
夕日が沈む1時間、
目の前にいる、病気で赤ん坊のようになってしまった父親に
その思いを語る・・・というお話です。
その一番クライマックスにあたるラストの25分ほどを語ります。
なぜこの作品を選んだのか、
それは、わたしの作品の中で、一番高い感情が感じられる作品だからです。
内容自体は、すごく静かなのですが、そこにこめられている感情は
とても大きなものです。
これを書いたときに、わたしは、自分の奥深くで、なにかがものすごく高められ、
進んだことを感じました。
シュタイナーは、人間を、肉体、魂、霊と三つに分けて考えますが、
霊の成長は芸術を通して顕著に現れる、ということを言っています。
それは、今になって、実感として、本当に、よくわかります。
その人にとっての芸術に向かうことによって、自分の一番深い部分が
前に進んだように感じるのです。
この経験は、芸術にたずさわる人にはきっと、みな通じるのではないでしょうか。
そして、その価値は、何をもってしても代えられない。
霊の成長は、肉体の死後も持ち越されるのです。
そういうような深さでの価値を感じるのです。
それほどまでの価値を直感的に感じられるから、時には、いのちを懸けてでもやることがある。
それが芸術なのだと思います。
声に
今回は共演者(音楽などの)はいなくて、本当に久しぶりの、一人での朗読になります。
今回は、誰の手も借りずに(準備はお世話になるのですが)、
一人で詩を、ことばを語ることに向かいたいと思ったのです。
書かれたものを読むのと、
ことばを声にしてきくのでは、まったく違うものになります。
同じ作品を、違う人が朗読するだけで、まったく色合いがかわります。
読むのと、聞くのと、どちらがいいのか
それは、どちらとはいいきれないし、
抒情詩のようなものなら、一人の、静かな時間に読みたいと思うかもしれません。
いま、言語造形という、語りの芸術を学んでいます。
毎月、月に一度、兵庫の姫路まで、勉強しにでかけています。
わざわざそんな遠くまで・・・と思われるかもしれませんが、
この距離が、心の準備をさせてくれます。
一回の出会いの大切さを感じます。
言語造形に取り組むようになって、
ことばが発せられることにおいて、それが、わたしが求める価値、精神的な力に
届くように感じられます。
ことばに、真剣にむかいあうこと、まっすぐに声を解き放つこと、
あたまで語るのではなく、からだを動かしながらことばに取り組むことによって、
作品の感情を沸き立たせること。
そうして
からだでことばと向かい合うことによって、より、感情が純化したかたちで、
立ち上がっているように思います。
言語造形を教えてくださっている諏訪先生がおっしゃるには、
「あたまでこうしよう、ああしようと考えてやると、伝わらない。
手足を動かして、感情が自然とわきあがってくれば、それは伝わる」
と。
シュタイナーの考えでは、思考は頭部、感情は胸部、意志は手足とつながっています。
意志とは、その人が意識できないほどの意識下の精神の働きです。
その精神は、手足を動かすこと、からだをめいいっぱいひらいて、使うこと、
によって、他者にも伝わる感情を生み出すのです。
なんだか不思議なんですよね。
行為のかたちが、こころを生んでいる、というか・・・
練習時はものすごく動きますが、実際語る場では、からだは動きません。
そのぶん、見えないからだがその場を駆け巡っている、と思います。
動いて練習しているとわかりますが、内的なものを感じたのち、
動かずにことばを発すると、自分の内部で
なにかが動いているのがよくわかるんです。
おそらくこれが、この場に生まれるバイブレーションであり、
おそらく他者に知らず知らずに伝わる、
静かで、確かな、ふるえ、なのではないかな、と今のところ思っています。
今回語る予定にしています作品の中に、「帰郷」という作品があります。
わたしが23歳のころに書いた、一人芝居の戯曲です。
それは、恋愛に挫折した若い女が、生まれ故郷の海の見える丘で、
夕日が沈む1時間、
目の前にいる、病気で赤ん坊のようになってしまった父親に
その思いを語る・・・というお話です。
その一番クライマックスにあたるラストの25分ほどを語ります。
なぜこの作品を選んだのか、
それは、わたしの作品の中で、一番高い感情が感じられる作品だからです。
内容自体は、すごく静かなのですが、そこにこめられている感情は
とても大きなものです。
これを書いたときに、わたしは、自分の奥深くで、なにかがものすごく高められ、
進んだことを感じました。
シュタイナーは、人間を、肉体、魂、霊と三つに分けて考えますが、
霊の成長は芸術を通して顕著に現れる、ということを言っています。
それは、今になって、実感として、本当に、よくわかります。
その人にとっての芸術に向かうことによって、自分の一番深い部分が
前に進んだように感じるのです。
この経験は、芸術にたずさわる人にはきっと、みな通じるのではないでしょうか。
そして、その価値は、何をもってしても代えられない。
霊の成長は、肉体の死後も持ち越されるのです。
そういうような深さでの価値を感じるのです。
それほどまでの価値を直感的に感じられるから、時には、いのちを懸けてでもやることがある。
それが芸術なのだと思います。
声に