公私共に気になることはもちろんいっぱいありますが、22日の朝日新聞朝刊の34面、裁判員候補者の投稿が、なんだか頭から離れず、困ったな~と思っています。
それほど大きくないスペースですし、そうか・・と思っていればいいのに。
決して投稿者の批判をしたいわけではないし、なるほど、とも思うのです。
でも、気になる。。
30年以上小学校に勤務する女性の方、54歳。
児童や保護者の相談にのってきた、常識に照らしてアドバイスを心がけてきた、とのこと。
「判決を決める評議での判断も、あまり変わらないと自然体で構えています。」
「もし極刑がかかわるような裁判だったとしても、世の中の考え方に照らして、おかしければおかしいと素直に考えるでしょう。今までの経験が生きると思っています。」
「世の中の動きはチェックしてきましたし、常識もゆがんでいないつもりです。」
裁判員制度の候補者になったら、こんな風に考えるしかないとも言えるのかな。
私にとっては、なってみたことがないから、わからない、ということなのかもしれない。
年を重ねれば重ねるほど、自分の「常識」が一面的であることを知って愕然としたり、それにしては、自分のことながら柔軟性がない、気持や感情が思い通りにならないような感覚に、内心やれやれと思ったりしている私。
誰かの役には立てるようにはならないと、とは思いながらも、人の人生の岐路にかかわることに怖れを抱く。知らないうちにかかわっていることはあるのだろうと思うけれど。
まだ、投稿者の意見は続きます。
「ただ、学校の行事など仕事と重なった場合は、仕事を優先したいと思っています。」
「周りに迷惑をかけたくありません。」
もしかしたら引っかかっているのは、このあたりなのでしょうか。
ちゃんと判断できると思っている人が、出られたら出ますが、という程度のスタンスで臨むことになる裁判員制度。
本当に、こんなのでいいのでしょうか。
これから始まる裁判員制度を、映画などでも出てくるアメリカの陪審員制度(わりとあたりまえという感覚で評議に参加する市民の様子)と同じように捉えている人も多いと思いますが、内容はけっこう違うようなのです。
自分のために調べたことの一部を紹介すると・・・
アメリカの陪審員制度は、断ることができる、量刑の判断はしない、一定の期間がすぎればその内容を他者に明らかにできる、「被告人が」陪審員制度を断る権利がある、長い時間をかけられる、検察が12人の陪審員を説得できなければ有罪にはできない、評議は全員一致、職業裁判官は入らない、など。
一方、日本が想定している裁判員制度は・・・
正当な理由がなければ断ることはできない、死刑や無期といった重大な刑事裁判に限定されている、有罪・無罪だけでなく量刑も、一生の守秘義務がある(評議の内容を家族にも話さない)、「被告人が」裁判員制度を断ることはできない、一審だけ参加、検察は控訴できる、最後は多数決(つまり自分は無罪と判断しても、総意として有罪、死刑もありうる)、裁判員6人に対し職業裁判官が3人入る(=プロの意見に引っ張られるのでは?)。
とまあ、こんなに違う。
裁判への市民参加は悪いことではないかもしれません、もちろん。
そもそもは、裁判に一般の人の良識や常識を反映させる、治安に対する当事者意識を高めるなどの目的があってのスタートとのこと。
わからなくもないのですが、課題は相当ありますね。
このところ、自分の常識を超える理解不能な事件が多くて、こういう事件の裁判にも市民が、万が一にも自分が、参加するんだなと想像するとぞっとするのです。
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