おとなりカフェ

道徳の時間から考えたこと


今日は小学校の授業参観。全校すべてのクラスで道徳の授業でした。
ちょうど、学習指導要領の改訂案が発表されたばかりでしたので、道徳の参観は絶好のタイミングだったかもしれません。

教育再生会議が相当こだわっていたように思えた道徳の教科化は、今回の改訂案では見送られました。
授業参観を終え、つくづく、心底、よかったと思いました。
普通のレベルの「よかった」ではなくて、胸をなでおろすという感覚でしょうか。

前首相の意向と教育再生会議や、その他の○○会議が元になって、日本の優先課題や方向性が明らかに混乱をきたしていました。このまま道徳教育さえも教科として評価の対象になるのではないかと、親として、相当大きな恐怖を感じていました。

今回は授業参観という形態だったこともあるのでしょう。
あまりいい授業展開ではなかったのかもしれません。
が、ではそもそも道徳の「いい授業」とはどんなものか??

この学年の今回の道徳授業のねらいは、
「友だちと互いに理解し合い、仲良くしようとする心情を育てる」

観ていて、「この内容を、評価するほうもされるほうも、とんでもなく困るだろうなぁ」ということをつくづく思いました。

子どもだって、ときに先生からの誘導質問のような問いかけには半ば付き合ってあげているようなものだろうと思いました。

でも、だからといって、道徳はなくてもいい時間ではないということは確かです。
日常の時間を共有している友達や先生がいるからこそ学べることがたくさんありますし、それこそが道徳に通ずる重要な基礎部分になるからです。
家庭にも、その基礎部分を形作る学校以上に重要な役割が当然ありますが、限界があることも事実です。

心のありようにかかわる学びは、そんなに簡単に評価できるほど短時間・短期間に見えるわけではないし、見えたらいい学びだったとか見えなければ失敗というわけでもない。

というわけで、もし、道徳が評価をすべき教科になったとしたら、結局のところ教員はどの子にも最高のポイントを付けるだけです、おそらく。

私達だって、大人になってみて初めて、若い頃にもらった言葉やアドバイスの意味がある日突然、ストンと腑に落ちることがたくさんあります。
それも人それぞれですが、意味を体得することには、時間がかかるものです。

皆、辿ってきた道筋や体験の違いがあり、先達からのある言葉やアドバイスの熟成時間も違うのです。それでいいのだろうと、よく思います。

大人にとっても、道徳的実践はそんなに簡単ではないです。
「わかっちゃいるけど・・・」ということを子どもにもさらけ出しお互いに気づき、話し合う時間を持つことが大事なのだと思うばかりです。

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