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道やりませんか!?

豊空会師範・田部井淳発信「道やりませんか!?」

借力と謙虚

2020-06-17 23:15:16 | 日記

ここまで、ずっとお読み頂いてきたとおり、武道の真髄(神髄でしょうか・・・)は、自然界の“理=法則”を身心で感じとる稽古を重ね、その力を最大限に活かすこと・・・。

究極は、“理=法則”に身心を委ね、任せきる境地に至ること。

自然界の法則=理の力を借りた“借力”の状態・・・。


極限まで自然の法則を利用した身心の動きを体得し、“我”を捨てて“理”に身心を委ねる・・・。

そこから“力”を“借”りて発現させているという感覚・・・。それが真の“技”といえるものなのかもしれません。

そして、“そこ”に達した人達を古来“達人”と呼んだのではないでしょうか・・・。


“達”したと思われる方々の残された言葉はジャンルを問わず、皆一様に同方向に向かって指し示されています。

「大自然の前には、人の力は小さいもの・・・」

「理から入るは上達早し、技から入るは上達遅し・・・」

「我を捨てねば理に到れず・・・」

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ・・・」

「漕ぎゆく先は波のまにまに・・・」

等々・・・。


合気道の創始者である植芝盛平師に至っては「神人合一」という境地にまで到達されたとのこと・・・。


日本人独特の感性である“謙虚”さ。

諸外国の人々から見ると、“優柔不断”“難解”“引っ込み思案”“はっきりしない”“自信のなさ”“卑屈”“偽善”等々と映り、理解し難い行為のようですが、これも、目に見えないものを重んじてきた、日本伝統文化が生み出した優れた精神性なのです。

謙虚さとは、“謙虚ぶる”ことではなく、真に“大きな力”を感じた者が、人間や自分自身を省みた結果、得ることができるものなのかもしれません。


固態・液態・気態

2020-06-10 03:47:40 | 日記

人間の身体は、大別すると筋肉、骨格、内臓等の“個体”、血液やリンパ液等、体液の“液体”、そして、循環する空気やガス等の“気体”の三形態によって構成されています。

私の主宰する豊空会では、それぞれの特徴を最大限に活かし、効率的かつ最大なエネルギーに変換出来るようになるための稽古体系を構築するべく研究・研鑽に励んでいます。


●個体としては筋肉の出力制御を通して、より合理的な骨格操作や内臓コントロール能力を・・・。

●液体としては、人体の70パーセントが水分であることを活かした身体使いを・・・。

●気体としては、呼吸操作と意識操作を用いての身心のコントロール能力を・・・。


各々主に上記の能力を開発していき、固“態”として、液“態”として、気“態”としての在り方や、活かし方を修得し、やがて、それが修練者の中で融合し機能していくようになることを目指します。

そうすることで、天から授かったとも言える自らの・・・ひいては人間の身体を真の意味で使い切っていく方向性が見出されると同時に、人間の身体に真の価値を感じられるようになるのでは、と思うのです。

生きている確からしさ・・・身体

2020-06-03 00:06:51 | 日記
“生きている”ということの唯一の確からしさは、“身体”があるということ・・・。
仮に“あの世”というものがあったとしても、それは身体から脱け出て“死んだ”後の話・・・。

私たちは身体無しには“この世”には居られないのです。身体は、いわばこの世に居るための器、乗り物です。
だとするならば、そのことに重要な意味がないわけがありません。

心と身体は意識でつながっています。
どういう心で生きるか・・・ということで身体は変わってきます。
逆に、どういう身体を手に入れるか・・・ということで心も変わってきます。それらをつなげているものが“意識”なのです。

意識は身体と心の間(はざま)にあって、その両方を開発することに貢献するのです。
身体という“器”“乗り物”をもらったから“この世”を生きていくことが出来る・・・。
そして、その器・乗り物の性能は確実にその“中身”に影響するように出来ているのだと確信しています。

“修業”というと堅苦しくて、ただ単に厳しくて辛いだけのもの・・・というイメージになりがちですが、
“その層”の取組みを多くの人々が共有できる掛け橋になれる可能性を追求していくことも、
これから武道が果たすことのできる大きな役割の一つだと考えています。



意識

2020-05-20 02:52:37 | 日記
例えば、自分の足の親指を“意識”してみてください・・・。

意識は心ですか?身体ですか?・・・

この場合、意識は身体にフォーカスしています。


逆に、遠い昔の楽しかった出来事を意識してみてください・・・。

意識は時間と空間を越えて心に記憶された“その時”“その場所”にフォーカスされています。


それでは、好きなタレントさんが載っている5メートル先にある看板をじっと見て下さい・・・。

その時あなたの意識は身体を離れて5メートル先に飛んでいっていることでしょう・・・。


このようなことからもわかるように、意識というのは外界から身体、心に至るまで多岐に渡ってフォーカスさせることが出来ます。


その“意識”を様々にコントロールし、自らの“身”“心”にアクセスし開発していくことを古来“修業”といい、その方法の一つが“道”という体系なのだと思っています。

身言葉

2020-05-12 22:58:45 | 日記
元来、日本人は身体性が豊かで、ものごとを身体で感じるという感覚がより発達していたと思われます。
そのことを窺わせる特徴として、日本語には非常に多くの“身言葉”が存在します。
まさしく“身をもってわかる”という表現です。

そして、その言葉にはそれを裏付ける驚くべき根拠が存在しているようです。

例えば、昔は怒ったとき“腹が立った”と表現することが多かったのですが、医学の発達に伴ってその根拠が示された例を目にしたことがありました。“腹が立った”と感じている人のお腹をレントゲンで撮影すると、横になっている胃が実際に少し立っていることがあるのだそうです。

現代では、怒った時“アタマに来た”と表現することが増えてきたように思いますが、これは、怒ったときに頭に血が上って冷静な判断に欠ける状態、いわゆる“キレた”状態になりやすくなったということを示しているのでは、と推測されます。

一方、何かに感動したときは“胸が熱くなる”と表現したり、あまりにも悲しいことがあったときには“胸がつぶれる”などと表現したりします。
胸には“心”の“臓”器と書かれる心臓があります。

江戸時代後期に西洋から解剖学が渡ってくる以前は、日本人は知識としてどこにどんな臓器があるかということなどは知らなくても、感情と身体各箇所との関係を感覚として捉えていたのだと思います。

日本人の古(いにしえ)からもっていた“身をもってわかる”という優れた能力は、“道具”や“機械”が全盛となった現代では、急速に失われつつあるのではないかと思うのです。

実際、道場に通ってくる子供たちに接してみても年々その傾向が強くなってきていることをひしひしと感じます。
道具や機械を操ることは上手くても、身体に対する意識が鈍い感じ・・。意識が身体からはみ出てしまってどこかに浮遊してしまっているような・・・そんな状態になっている子供たちも非常に多く見受けられます。

道具や機械はもちろん便利ですし、それらの発達は物質的には人々を確実に豊かにしてきました。それはかけがえのないメリットです。

しかし、何事もメリットのみということはあり得ず、その裏側には必ずリスクが伴っていると考えます。

現代ひいては未来、あまりにも身体の外へ膨大な情報の海が拡がり続けていくのに伴って、私たちの意識は本来“身体”ひいては“心”に向けられるべきベクトルを失い、“人”として“この世”を生きているという確からしさをも失っていくような気がしてなりません。