道やりませんか!?

豊空会師範・田部井淳発信「道やりませんか!?」

おわりに

2020-09-01 22:36:09 | 日記
私は武道家としても、一人の人間としても本当に未熟ですし、“格闘”で強いということであれば、私などより強い方々はそれこそ数えきれないほどおられます。
華々しいキャリアもありません。

“修行”ということであれば、修行僧の方々をはじめとして日々厳しい修行を積まれている方々には顔向けできない程度です・・・。

そんな私に唯一誇れることがあるとしたら、ただひたすら武道・空手を愛し、40余年一途に取り組んできたということのみです。

その中で、武道・空手は肉体的にも精神的にも弱く自信のない、そして秀いでたものも何もなかった私に、言葉では表わせられないほどのたくさんの宝を与え続けてくれました。
感動、充実、経験、弟子、友人、仲間、家族、役割、仕事・・・。
今の私の大切なものは全て武道・空手から頂いたものです。

私は自分のことを元来“好戦的”な人間ではないと思っています。
年齢を重ね、その想いは増々強くなっています。とくに残酷なことへの嫌悪感は年々大きくなってきています。
“強く”なりたいとは強烈に思いましたが、その強さも今思えば、人を倒したり、人と争ったりする中での強さではなかったような気がします。

ならばいっそ他の“修行”を選べばよかったとも思いましたが、“運命”というのはあるのか、何故か私は武道・空手に出会い、そしてその奥深さの全てに魅入られてしまいました。
具体としては“戦う”という身心と技を究めていく“道”に身を置きながら、戦うということに意義を見い出すことが困難になり、武道家としてかかえた矛盾に苦しんだ日々もありました。

しかし、武道とは“矛”を“止”める“道”という文字の原点と“空手に先手なし”という先人の言葉に救いを頂き、現在、この本で綴らせて頂いたような武道・空手観に至りました。

武道・空手が内包している人間開発に対する有益性は、はかりしれないものがあります。
そんな武道・空手に少しでも役に立ちたい、私でも何か役に立てることがあるはずだ・・・という想いから1995年に空手道豊空会という団体を発足しました。

以来、20余年、自らの身心を実験のフィールドとして様々なものを吸収しつつ、武道・空手をさらなる進化・深化・新化、真化したシステム“道”にし、提案、普及していくことを目標に活動しています。

そんな中、今般「本を書いてみないか・・・」というお話しを頂き、恐縮至極な思いでいっぱいではありましたが、これまで40余年の私の武道・空手に対する“愛”を皆様にお伝えさせて頂ける機会を与えて頂いたと思い、万が一にも武道・空手普及のほんの一助になるようなことがあれば・・・。という淡い期待を込めて一所懸命に綴らせて頂きました。
私は、武道、ひいては“道”という日本が生み出した素晴らしい文化を、その目的や方法を損うことなく、より多くの方々に取り組んで頂きたいと日々切に願っています。
神道・書道・茶道・華道、そして武道・・・。
“道”は、日本という国と日本人に希望と誇りを与える力があるということを確信しております。
もっともっと皆さんにいそしんで頂き、その素晴しい効果を実感して頂きたいと心より願っています。
是非お近くの“道”場へ!
武道・空手がいつの日か真に“矛”を“止”める“道”になることを祈って・・・。
“道”やりませんか!?

追記
武道・空手を愛し、一途に“この道”を歩んで参りました。その過程で様々な御先達の方々の御指導、御影響を頂きました。
そのお蔭で現在の私があります。この本の内容に関しましても、それらを集大成させたものと言えます。この場をお借り致しまして深く御礼申し上げます。

心より深謝申し上げます。

 空手道豊空会始祖師範
田部井淳

豊空会コンセプト“武の風”

2020-08-26 01:12:49 | 日記
古(いにしえ)の日本人の価値基準は“美”という意識に支えられていました。
The values of Japanese people in days of old were sustained by an appreciation of “beauty.”

その“美”を支えているものは“理”でした。“理”とは極大から極小まで自然に働いている法則=ルールのことです。“理”に適ったものは“美”しく、真に“美”しいものは“理”に適っている。これらの価値基準は、広く生活全般から文化、思考に至るまで、深く浸透し、機能していました。
Supporting that “beauty” were “principles.” “Principles” are the laws, or rules, that work in nature from the grandiose to the miniscule. All things that conform to “principles” are “beautiful,” and all things truly “beautiful” conform to “principles.” These value expanded broadly from daily life to influence the culture and modes of thought.

すなわち、日本古伝の作法・様式等は、すべて理=美の体得のために生み出され、育まれてきた、優れたWORK SYSTEMだったのです。
That is to say, the Japanese systems of etiquette and style passed down from days of yore were all excellent Work Systems created and cultivated for the realization of the formula of principle equals beauty.

そして、物理・心理・道理・真理など、目に見える理から見えない理まで、その法則性を身心でキャッチするための最上級のWORK SYSTEMとして編み出された方法が修行法としての“道”です。
Ascetic practices in the form of “ways,” known as “Do” in Japanese, are the methods which were designed as superlative Work Systems to facilitate the mental and physical absorption of the essence of the natural laws ranging from visible principles to principles unseen by the human eye, including concepts such as physics, psychology, logic, and truth.

武道・書道・茶道・華道・・・。いずれも“理”=“美”を体得するのに非常に優れた
WORK SYSTEMです。
The martial way of budo, the calligraphic way of shodo, the tea ceremony way of sado, the flower arrangement way of kado... These are all extremely outstanding Work Systems for the realization of the equation that “principle” equals “beauty.”

そこから生まれた思考性は礼節・謙虚・公義・潔・恥等の概念を生み出しました。
The Realization born from this took the form of concepts such as manners, humility, sense of public duty, purity, and shame.

現代、日本においても、“理”の追求そのものを目的とした“武道空手”の普及は、ほとんど成されておらず、又、“理”“美”“道”からくる古(いにしえ)の価値基準も失われてしまいました。
Today, “budo karate,” with the purpose of exploring itself this realm of “principles,” is not popularly practiced even in Japan. Old values born from “principles,” “beauty,” and “ways” have been lost.

“理”の体得は、国家・人種・民族・宗教・思想の違いを超えて、人類に有益で豊な身心をもたらすことと確信しております。
I firmly believe that the realization of “principles” transcends national, racial, ethnic, religious, and conceptual differences, and leads to a ample mind and body which will be beneficial to all of humankind.

私たち空手道豊空会は、“理”“美”を探求するSYSTEM=“道”としての武道空手を広く内外に普及させたいという夢を持って活動しています。
We at Karate Houkukai act in harmony with a dream of spreading Budo Karate both at home and abroad as a system that seeks out “principles” and “beauty,” a system which equals the “Do” or “way.”

そして・・・未来を担う子供たちへ・・・

2020-08-18 23:22:43 | 日記
最後に、私がこの本に込めた願いを述べさせて頂き、まとめとさせて頂きたいと思います。
古来、日本人の価値基準は“美”にありました。
それを支えていたのは“理”を感じる感覚でした。

見た目の美しさの奥に働いている真“理”を感じ取り、尊ぶ能力・・・。
桜の花を、ただ眺める対象として「キレイだ」と見るだけではなく、人々に美しさを伝え、感動を与え、たった3~4日で散っていくその姿の奥に自らの人生を投影し、その潔さに他の花とは別格の美しさを見出している日本人の感性・・・。

あらゆる空間、自然の摂理の中に神が宿っていることを感じる“八百万(ヤオヨロズ)の神”を伝える神道・・・。
あらゆるもの、ことに対して、ひいては空間に対してさえも尊厳・畏怖・敬意・謙虚等を感じる感覚を育み、それはやがて全てのものへの“愛”へと昇華される・・・。

現在の日本には、外国の文化が溢れかえっていて、日本の文化の素晴しさは影が薄くなりがちのように思われます。
特に若者や子供たちの興味の対象、需要度は圧倒的です。
野球、サッカー、バスケットボール等のスポーツや、ダンスを一所懸命やる・・・。

それはそれで大変素晴しいことです。
しかし、これから日本人が重きを置くべきことは、やはりまず日本人が日本の伝統と文化を形骸化された“ジェスチャー”としてではなく、その奥にある“理”を良く理解した上で身に付けること・・・。

生意気を覚悟で申し上げさせて頂くと、その国の“誇り”はその国の歴史と伝統を尊び、学び、身に付けることでしか育たないのではないかと強く思う次第です。
道場という現場で子供たちと接するにつけ、近年とみに(何かが失なわれてきている・・・)と強く感じます。

その大きな原因の一つが、自国の歴史や伝統への興味の薄さ、愛着のなさ、そしてそこからくる“美”と“誇り”そして受け継ぐ“伝承”という感覚の欠如に思えてなりません。
そして、自分も含めた“大人”といわれる層を成している人達も、近代日本において、そういう“教え”を受けずに育ち、それらの重要性に気付かず、全く必要性を感じずに過ごしてこられた方々が非常に多いのではないかと思うのです。

未熟者の生意気と承知の上で提案させて頂きたい思いは・・・。
これからの日本の重要な“力”となることは、まず日本人が“日本人”として世界の人々と真にフェアに振る舞うことが出来る“中身”を養うこと・・・。その中身は、日本が育んだ、日本にしかない世界に誇るべき“伝統と文化”によって養われると信じます。

理に適ったキチンとした姿勢、所作動作を身に付けること・・・。母国語である日本語をキチンと話すようにすること・・・等々。
“道”というジャンルは、それらのことに著しく有効です。
また、外国の方々にとっても“道”は“日本”を知り、身に付けるための最高のアイテムでもあると思います。

これからの時代、老若男女あらゆる層の方々に是非“道”というジャンルをもっともっと需要して頂きたいと切に願っています。

そして、“道”で育まれた“愛”と“誇”が未来を担う子供たちの胸に熱く灯るのを心から期待し、願っています。


自分を超えたい!武道に補欠なし・・・

2020-08-11 21:49:53 | 日記
“自分を超えたい!”

これは私が主宰する空手道豊空会のコンセプトでありテーマです。
このことは誰の心にも横たわっている想いではないでしょうか・・・。

少しでも自分を好きになりたい・・・。
信じられる自分になりたい・・・。
納得する自分になりたい・・・。

そんな想いを誰もが心の奥底に持っているはずです。
私もそんな中の一人です。

そして40余年の間、武道・空手はそんな私の期待に応え続けてくれました。
もちろん理想の自分にはまだまだ程遠いですが・・・。

しかし、闘う相手は常に過去の自分自身です。
武道・空手で何か一つ越える度、そこには以前の自分を超えた自分が必ず居ました。
(自分を超えた!)と感じられることは、人が人生を生きていく中で最も喜びを感じることの大きな一つであると思います。
人は皆、“自分と闘っている”のではないでしょうか・・・。

キライな自分・・・
信じられない自分・・・
納得がいかない自分・・・

そんな自分を超えたくて、日々を重ねているのではないでしょうか。

この本を読んで下さっている皆さんに私は確信を持って言えます。
武道・空手は“自分を超えたい”皆さんに必ず役に立ちます。
他の誰かと比べての話しではありません。

過去の自分と比べて、今の自分は全てにおいて勝っているか・・・。
すなわち“自分を超えて”いるか・・・が大切です。

武道に補欠はありません!

私見・・・往き着きたい技と境地

2020-08-05 00:37:55 | 日記
私のような未熟な若輩者が大変僭越なことと身の縮む思いではありますが、せっかく皆様に私の武道・空手に対する想いや考えを聴いて頂ける機会なので、私が武道・空手で往き着きたい技と境地についての私見をもう少し述べさせて頂きたいと思います。

先にも述べましたが、武道・空手の稽古の中核に当たる、いわば木でいう“根っこ”の部分は、ひたすら反応の良い身体と心を創っていくことにあります。その上で護身としての具体技は、まず受け技や消力技(体捌き等を使って相手の力の作用を消してしまう動き)等で相手の攻撃を防御し、対処します。

初歩の段階では、最も単純な反撃技である“打撃”つまり突いたり蹴ったりする技で相手を制することを学びます。
そして上達していくにつれて、より複雑な技法で相手を制することを修得していきます。

単純な反撃技、すなわち打撃技で反撃することは比較的容易ですが、(これは打撃技自体の奥深さが無いという意味ではなく、殴り返したり蹴り返したりする行為は、何も訓練していない人でも行なえるという意味での“行為自体”の単純性を指しています。)相手にダメージを与える度合いも、ある意味容易で大きいのです。

それに対して、相手の攻撃に対して複雑な技で対応するには、当然のことながら、より複雑で高度な身心の反応力と身体の操作が必要となります。
しかし、複雑な分だけ相手のダメージに対する緩和ということをも考慮に入れた状況を作り出すことが出来、やるかやられるかのような状況を回避出来易くなるのです。

一時、私は武道・空手の中に抱いてしまった自分の中の“矛盾”に悩まされた時期がありました。それは(自ら仕掛ける攻撃技は必要なのか・・・)という思いでした。
40数年武道・空手に携わってきましたが、年々、年を重ねる度に、人に酷いダメージを与えることへの嫌悪感が大きく募ってきたのです。
もちろん自らがダメージを負うことは嫌ですが、それは武道をやることに何の矛盾も来たしません・・・。

酷い目に会うのは嫌だけど、相手を酷い目に会わせるのも嫌・・・。

これはもう、“戦・闘(たたかい)”を具体として専門にしている人間としては、究極の悩みと言っていい程でした。

合気道のように自ら仕掛ける“攻撃技”の技法を廃止して、防御から入る技だけに徹しても良いのではないか・・・。
さらには、戦いの具体すら廃して、身体と心の開発法としてだけの“道”というシステムに変更したら・・・等々。

果ては、(俺は武道に向いていないのかもしれない・・・やる資格がないのかもしれない・・・。)
とまで思い悩みました。

その時、あらためて出会った、先項でも述べさせて頂いた“空手に先手なし”という言葉に救われたのです。