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道やりませんか!?

豊空会師範・田部井淳発信「道やりませんか!?」

現代における武道の価値と存在意義

2020-05-06 00:07:41 | 日記
私は、ある時期から、現代における武道の価値と、その存在意義に対して自分なりに突っ込みを入れるようになりました・・・。

元々“武”は武士が“兵(つわもの)”、すなわち兵士として戦場で役立てた技術で、戦国時代などはそのままズバリの存在でした。

江戸時代には“武家社会”の権威と秩序の象徴として“武”が機能しており、武士の“有様”や精神というものに重きが置かれ、やがて“武士道”が形成されていきました。

ひるがえって現代、武道の技は現代の戦争の技術、すなわち“兵士”の技術そのままには成り得ませんし、いくら“実戦空手”と謳っても現実の犯罪や事件に特化されているわけでもありません。

それでは現代における武道の価値と存在意義はどこにあるのだろう・・・と愚考するわけです。
武道を、空手を愛しているがゆえの悩みと言えるかもしれません。
役に立つ事柄が明確でないものは、その価値と存在意義が危うくなると思うのです・・・。

そして、自信を持って需要してもらうこと、広めることがはばかられる・・・。

武道・空手を稽古してきて、個人的に得られたことは膨大なものが確実にありました。しかしながら、私には“武道”でなくてはならない、“武道”でなくては得られないと明確に理由付けできる答えが必要だったのです。

様々なジャンルの“師”に付き、自らの身心を実験台として研究・研鑽を繰り返す日々の中で往き付いた答えが(“道”としての機能)でした。

人間自体の身心の開発法として、これほど効果的で多岐に渡るものが他にあるだろうか・・・解ってくればくるほど、その想いは強くなる一方でした。

武道の稽古体系には、全身心に渡る様々なコントロール方法のメソッド・ワークが存在します。

人類最先端の科学テクノロジーのほとんどが“軍事”から生まれるのは、(悲しむべき矛盾でもありますが・・・。)やはり“生命”が懸かっているところに、人は“叡智”を結集するということなのでしょう。

翻って、身体運動の分野で“軍事”に当たるのが“武”であった時代、人はそこに無上の“叡智”を集めたはずです。

身体の創り方から合理的な動き方、心のコントロール能力、具体技、自然現象、思考性、果ては死生観・境地に至るまで、全てが上達対象です。

そこから得られる能力は、昔日から現代に至るまで一貫して人の“進化”に関係する事象として、人が生きる目的の根幹にも関わる問題を含むと言えます。

武“道”は、精神文化と運動文化を網羅する稀有な文化として、その価値と存在意義を輝かせる時期だと切に思うのです。

笑う・・・

2020-04-28 21:36:02 | 日記
世間一般でもよく言われることですが・・・笑うことは大事なことです。

豊空会の道場は、武道の道場の中では、圧倒的に笑いの多い道場だと思います。

もちろん、稽古への取り組みが、大マジメなのは大前提のうえでのことです。


“笑う”といっても、決して不真面目なわけではありません。

私自身が武道を始めた頃、武道の道場では「歯を見せるな!」などと言われ、笑うことなど“言語道断”という感じでした。

それは、それで得ることがたくさんあります。

厳しさや覚悟、ケジメ等々・・・。

それは、いつの時代にも必要で重要な要素です。


しかし、現在(いま)・・・

現代だからこそ真剣に取り組まなくてはならない“こと”があります。

その1つが“笑う”こと・・・。

しかも、下卑た、シニカルな、斜に構えた“笑う”ではなくて、心底から、“底抜けに明るく笑う”こと・・・。


現代、“あの時代”には少なかった精神的病(やまい)が蔓延しつつある時代・・・。

そのことの予防にも非常に効果があると思えてなりません。


人間以外の動物にも、喜怒哀楽はありますし、犬や猫も、怒るし、泣きます・・・。(余談ですが、私が飼っていた猫も、涙を流して泣くことがありました・・・。)

でも“笑う”ことは人間にしかできません。

神様は、どうして進化した我々人間だけに“笑う”ことを許されたのか・・・。


それは、きっと・・・“必要”だったから・・・。

進化すればするほど、ストレスも複雑で多大になる・・・。

そのカウンターバランス・・・と、考えられるのです。 

武道は、人間がさらに進化を遂げる為の“道”と言えます。

修業は大変ですし、行うこと、考えること、すべてが複雑で、身心ともに多大なある種の“ストレス”がかかります。


道場の現場での例をとれば、難しい理論や技法、考え方等を伝える際には、あえて冗談を交えて話しをすることによって“笑い”が起こり、

皆の思考が軟らぐのを実感します。

“難”に対する“軟”でカウンターバランスを取ることで、脳は“難しい”けど“楽しい”というようにインプットし、

難しいことを楽しく習得する感覚を養えるのです。


絶妙なタイミングで“笑う”ことは、修業の妨げになるどころか、フォローになると確信しています。

その証拠に、昔日の武道の(人生の)達人の方々は皆一様に、底抜けに明るく大笑いされていた印象が強いのです。

今・・・武道を・・・

2020-04-21 22:11:34 | 日記
近年、学校教育の中に、少しだけ、武道が取り入れられました。
それ自体は、とても喜ばしいことです。

しかし、武道という“型”(礼儀・作法・技、全てにおいて)から“何を学ぶのか”を、真の意味ではっきりさせないと、その“効果”もあいまいで、混沌としたものになってしまうのではないかと思っています。

日本の、特に“道”と呼ばれる文化は“型”の文化です。
“型”とは鋳型と同じです。

もっと言えば、転写装置といえます。
人を、その“型”にはめることによって、“ある能力”をその人に転写できるのです。

その“ある能力”とは、単立的な表面上の浅いものや、儀礼的なもの、まして 形骸化されて使えないようなものでは、決してありません。
これから、人類学・脳科学・進化学・哲学・幸福論・・・様々な科学や学問的分野の方々が、研究対象として、その“効果”に注目して頂ければ、武道はもっともっと日本の役に立つことができるのではないかと思います。

それほど、武道の・・・武道という“型”のもたらす“ある能力”とは、複雑高度にして、膨大緻密で、多岐に渡る“有益”なものだと確信しています。

武道を取り入れても、ただ単にスポーツ競技としての内容をそのまま取り入れて、単純に挨拶や動作の仕方を“STYLE”として、その場だけ“武道的” にしただけでは、“効果”は他のスポーツと何ら変わりはありません。

各スポーツには 各スポーツそれぞれの効果や素晴らしさがありますが、この事柄は、“武道だからこそ”という特性という意味で、全々別次元での問題です。

現在、日本や日本人の置かれた状況の中で、“武道が出来ること”を考えたときに・・・かつて世界に冠たる“尊敬”を受けてきたこともある“日本の独自性”“日本人の思考性”“日本人の強さ”を根底で作り、支えてきた“ある能力”を武道、もしくは“道”というジャンルによって修得・復活、進化発展させることが、今、急務なのです。

きっと“それ”は日本と日本人に“自信”と“誇り”と“元気”と“自由”を再びもたらすことと信じています。

信仰

2020-04-14 23:16:53 | 日記
現在、日本以外の国々の神仏への信仰心の高さに想いを馳せるにつけ、
どんな神仏を信仰しているかに関わらず、その国、その民族の根底的な考え方、
価値観を基底、規定しているパーセンテージが非常に高いという事実を前に、
日本人として、ずっと頭では理解していたことが、さらなる実感を持って迫ってくる感じがします。

様々な国々での教会や神殿、寺院の占めるポジションや機能、影響力は、
現代日本で生まれ育った私たちには、計り知れないほどです。

科学万能と見えるこの時代に、未だ厳然と、神仏は人々の根底に影響し、横たわっている・・・。

翻って、我が国、日本を鑑みると、仏教をはじめ、神道、キリスト教も含め様々な“神仏”が“存在”はしていますが、
一部の人々を除いては、ほとんどの人が“それ”を根底的なものの考え方や価値観に還元しているとは言い難いのではないでしょうか・・・。

生きる指標や支え、行動規範のバックグラウンドにしてることは、ごく稀なのではないかと思います。

私個人は、信仰の対象が特定の“神仏”もしくは“教え”でなくても良いと思っています。

しかし、人間を生み出し、森羅万象を生み出し、この宇宙全体を生み出したのは、
人間以上の“なにものか”であることは間違いのない真実です。

様々なことが混沌としている現代、日本人である私たちも、その“なにものか”を
自分たちの中に再構築する時期が来ているのではないかと思います。

ムーブ・アーティスト

2020-04-08 00:54:35 | 日記
武道・武術家は、実は、アーティストの部分も発達させられると思っています。
言い換えれば、元々内包されているものだと言えるかもしれません。

武道・武術は、もちろん戦闘の為の術技に端を発したことは今さら語るべくもないことですが、近代の戦闘のように兵器が発達していない時代は、人の動きそのものの質・レベルにそのまま、勝敗、ひいては命が懸かっていました。
人は命が懸かっているところに、最大の知恵の粋を集めます。

そして東洋人、ひいては日本人は、西洋人に比べて体の大きさ、骨格の太さ、筋肉の量において劣っていました。しかるがゆえに、それをカバーして余りある身心・技を練りに練り上げる必要があったのです。

そうして生まれてきたものが、東洋、日本の武道・武術だとするならば、そこには、“命”を懸けるのに値するだけの、ありとあらゆる創意工夫、叡智が積み重ねられ、人間の能力の限界を伸ばしていく“動き”を身に付け、そこに展開していかなくてはならなかったはずです。

そんな状況が生みだした、極限の動きの一つが武道・武術の動きです。

“極意”なる言葉も、今では、様々なジャンルの方々に使われますが、出自は あきらかに武道・武術であり、まさしく、“極限の意識”“意識の極”“意識を極める”等々を指す言葉に相違ありません。
高度で複雑精妙な“動き”を実現するのは、“極意”に至った“身体”ということになります。

武道・武術家の“動き”は、“極まった意識”から成る“極まった身体”が、時空(時間と空間)に描く、最高の芸術、すなわちアートなんじゃないかと思います。

故に、武道家は、ムーブ・アーティストなのです。

武道が描き出せるアートは、万人に、普遍的かつ有益なものであり得ると確信しております。