「空手に先手なし・・・」
この言葉は、日本本土に最初に空手を根付かせたとも言える船越(富名腰)義珍師が残された言葉です。
武道・空手は格闘競技とは違い、自ら戦(たたかい)を挑まない、仕掛けない・・・。
そして、それは理念から技術論に至るまでキチンと整合性を持つ、“境地”と言える状態を指し示しているように思います。
理念的には、徹頭徹尾“護身(心)”に徹し、決して自ら“戦い”を仕掛けない。従って相手が仕掛けてこない限り“戦い”は起こり得ず消滅します。
護身の究極は、戦い自体を“消す”こと。
ならば“三十六計逃げるに如かず”という言葉も弱虫の机上論ではなく、戦いを消すため・・・。
そこには勝負論はなく、戦いを消すことによって自分も相手も傷付くことなく、“護る”ということが観えてきます。
然らば、武道の戦う“術(すべ)”は、戦いを消すための時間的、空間的、感情的制圧を目的とした最低限の行為を施せるためのものであるべきです。
“戦いを消すための闘い”を行う方法・・・。そのことを実現するためには、“戦い合う”よりもさらに高度な技と心を身に付け、相手よりもより高い“位”に立たなければ不可能な境地なのです。
その境地を目指して技と心を磨くところに武道家特有のロマンが生じるのだと思っています。
そして、それは技術論としても矛盾なく、究極の境地として厳然と存在していると考えています。
空手の型の動作は、表面的具体技はすべて“受け”の動作から始まります。
(これは原理を応用すれば攻撃技にも崩し技や投げ技にも、あらゆる具体技に変化応用できるため、あくまでも表面的と表現します。)
これは武道・空手の思想を現していると同時に、戦いを“制する”技術論、戦術論としても驚くべき整合性を持っていることなのです。
ここからは、あくまでも現在の私がたどり着いた私見だということをおことわり申し上げた上で述べさせて頂きますが、武道・空手の技の究極は“出合頭”、いわば“超カウンター”なのではないかと思うのです。
相手の攻撃に対して、武道で磨いた身心で究極の反応をし、“受け・避け”と同時に“攻・崩・制”を施す・・・。
このことはレベルによって具体的な動きの前の“気”のレベルで反応することも充分あり得り、それによって先・先の先・後の先等その状況に最も適した攻防のタイミングが決まります。
(少し専門的なお話になってしまいますが、このことも武道・空手の有効性を語る上で欠かすことのできないお話なので、しばしお付き合い頂きたいと思います・・・。)
人は、攻撃しているときが最も“隙(すき)”が出来やすく、技術論的は最も防御がしにくい瞬間なのです。
そして、攻撃をするには自らの身体の運動エネルギーを相手に向かって放出し伝えなければならない・・・。
従って運動エネルギー(ここでは“勢い”や“力”と考えてください)を生じさせて相手に向かっていかなくてはならない。
このことを走って来る自動車に対してのことに例えてお話しをさせて頂くと、自動車が一方的に脆い対象物に衝突すれば、当然その対象物は破壊されます。
しかし、地面に深々と埋め込んだ地面と平行に突き出したL字状のポールに衝突すれば、自動車が持っている運動エネルギーは、自らを破壊するエネルギーに変換されてしまいます。
武道・空手の理想の“技の境地”は、まずはここを目指すことと言っても良いと私は思っています。
もうお気づきだと思いますが、(技術論的に、突き出した鉄のポールは自在にその位置や形を変え、衝突を避けたり、必要とあらば相手に向かって運動エネルギーを増していきながら迎撃ミサイルのように確実にカウンターするということも変化応用として当然範囲にはありますが・・・。)
理念的に観た時、地面に固定された鉄のポールは自ら自動車に向かっては行きません・・・・。従って闘いを仕掛けることはありません。自動車が向かってこなければ衝突することもありませんから、自動車自体が傷つき壊れることもありません。
すなわち戦い自体が“消え”自らも相手も“護”られるのです。
向かってくる自動車の力自体が自動車自らを破壊してしまうことになる・・・。
しかも、武道・空手の技法は、例え話としてのこの鉄のポールの硬さを調整することが選択できるのです。
この鉄のポールを必要に合わせてゴムにしたり、ゲル状にしたり出来るなら・・・。
ポールを自動車の方向を変えるように使用出来るなら・・・。
ポール自体が自動車の走って来る方向をいち早く察知して、のらりくらりと自在にその位置や形を変えることが出来るなら・・・。
もちろん、簡単なことではありません。
そのためには、究極の反応が出来る“身心”とそれを実現できる“技”を磨きに磨き上げることが必須なのです。
“自ら”を護り“相手”をも護る・・・。
このような高い境地には、少なくとも私のような凡人では一生かかってもたどり着くことが出来ないでしょう。
しかし、この理念と技法を限りなく近づけ、一致させる理想の境地を目指して日々身心と技を磨いていくことが武道・空手家としての私の希望であり、喜びだと感じています。
そして、その過程で作られていく“反応”の良い身心は“健康”へも繋がり、あらゆることへの“感性”の高い自らへと導いてくれるものと確信しています。
この言葉は、日本本土に最初に空手を根付かせたとも言える船越(富名腰)義珍師が残された言葉です。
武道・空手は格闘競技とは違い、自ら戦(たたかい)を挑まない、仕掛けない・・・。
そして、それは理念から技術論に至るまでキチンと整合性を持つ、“境地”と言える状態を指し示しているように思います。
理念的には、徹頭徹尾“護身(心)”に徹し、決して自ら“戦い”を仕掛けない。従って相手が仕掛けてこない限り“戦い”は起こり得ず消滅します。
護身の究極は、戦い自体を“消す”こと。
ならば“三十六計逃げるに如かず”という言葉も弱虫の机上論ではなく、戦いを消すため・・・。
そこには勝負論はなく、戦いを消すことによって自分も相手も傷付くことなく、“護る”ということが観えてきます。
然らば、武道の戦う“術(すべ)”は、戦いを消すための時間的、空間的、感情的制圧を目的とした最低限の行為を施せるためのものであるべきです。
“戦いを消すための闘い”を行う方法・・・。そのことを実現するためには、“戦い合う”よりもさらに高度な技と心を身に付け、相手よりもより高い“位”に立たなければ不可能な境地なのです。
その境地を目指して技と心を磨くところに武道家特有のロマンが生じるのだと思っています。
そして、それは技術論としても矛盾なく、究極の境地として厳然と存在していると考えています。
空手の型の動作は、表面的具体技はすべて“受け”の動作から始まります。
(これは原理を応用すれば攻撃技にも崩し技や投げ技にも、あらゆる具体技に変化応用できるため、あくまでも表面的と表現します。)
これは武道・空手の思想を現していると同時に、戦いを“制する”技術論、戦術論としても驚くべき整合性を持っていることなのです。
ここからは、あくまでも現在の私がたどり着いた私見だということをおことわり申し上げた上で述べさせて頂きますが、武道・空手の技の究極は“出合頭”、いわば“超カウンター”なのではないかと思うのです。
相手の攻撃に対して、武道で磨いた身心で究極の反応をし、“受け・避け”と同時に“攻・崩・制”を施す・・・。
このことはレベルによって具体的な動きの前の“気”のレベルで反応することも充分あり得り、それによって先・先の先・後の先等その状況に最も適した攻防のタイミングが決まります。
(少し専門的なお話になってしまいますが、このことも武道・空手の有効性を語る上で欠かすことのできないお話なので、しばしお付き合い頂きたいと思います・・・。)
人は、攻撃しているときが最も“隙(すき)”が出来やすく、技術論的は最も防御がしにくい瞬間なのです。
そして、攻撃をするには自らの身体の運動エネルギーを相手に向かって放出し伝えなければならない・・・。
従って運動エネルギー(ここでは“勢い”や“力”と考えてください)を生じさせて相手に向かっていかなくてはならない。
このことを走って来る自動車に対してのことに例えてお話しをさせて頂くと、自動車が一方的に脆い対象物に衝突すれば、当然その対象物は破壊されます。
しかし、地面に深々と埋め込んだ地面と平行に突き出したL字状のポールに衝突すれば、自動車が持っている運動エネルギーは、自らを破壊するエネルギーに変換されてしまいます。
武道・空手の理想の“技の境地”は、まずはここを目指すことと言っても良いと私は思っています。
もうお気づきだと思いますが、(技術論的に、突き出した鉄のポールは自在にその位置や形を変え、衝突を避けたり、必要とあらば相手に向かって運動エネルギーを増していきながら迎撃ミサイルのように確実にカウンターするということも変化応用として当然範囲にはありますが・・・。)
理念的に観た時、地面に固定された鉄のポールは自ら自動車に向かっては行きません・・・・。従って闘いを仕掛けることはありません。自動車が向かってこなければ衝突することもありませんから、自動車自体が傷つき壊れることもありません。
すなわち戦い自体が“消え”自らも相手も“護”られるのです。
向かってくる自動車の力自体が自動車自らを破壊してしまうことになる・・・。
しかも、武道・空手の技法は、例え話としてのこの鉄のポールの硬さを調整することが選択できるのです。
この鉄のポールを必要に合わせてゴムにしたり、ゲル状にしたり出来るなら・・・。
ポールを自動車の方向を変えるように使用出来るなら・・・。
ポール自体が自動車の走って来る方向をいち早く察知して、のらりくらりと自在にその位置や形を変えることが出来るなら・・・。
もちろん、簡単なことではありません。
そのためには、究極の反応が出来る“身心”とそれを実現できる“技”を磨きに磨き上げることが必須なのです。
“自ら”を護り“相手”をも護る・・・。
このような高い境地には、少なくとも私のような凡人では一生かかってもたどり着くことが出来ないでしょう。
しかし、この理念と技法を限りなく近づけ、一致させる理想の境地を目指して日々身心と技を磨いていくことが武道・空手家としての私の希望であり、喜びだと感じています。
そして、その過程で作られていく“反応”の良い身心は“健康”へも繋がり、あらゆることへの“感性”の高い自らへと導いてくれるものと確信しています。