脳梗塞が点滴で治る!? iPS細胞とも違う「Muse細胞」夢の再生医療
点滴でからだに入れた特殊な細胞が、壊れた脳細胞や脳血管を修復する──。こんな夢のような脳梗塞(のうこうそく)の治療が、現実味を帯びてきた。
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その可能性を秘めた細胞は「Muse(ミューズ)細胞」と呼ばれるもので、東北大学大学院医学系研究科細胞組織学分野の出澤真理教授が発見した。京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥教授が開発したiPS細胞(人工多能性幹細胞)や、ES細胞(胚性(はいせい)幹細胞)といった万能細胞とも異なる、新しいタイプの幹細胞だ。
Muse細胞を使った再生医療は現在、安全性や有効性を確認する臨床試験の段階にある。脳梗塞や急性心筋梗塞、脊髄(せきずい)損傷など五つの病気を対象とし、今年4月には脳梗塞の臨床試験で中間結果が発表された。
それによると、安全性についてはとくに問題がなく、有効性でも目標を達成したという。Muse細胞の製剤を手がけるのが三菱ケミカルホールディングス子会社の生命科学インスティテュート(東京都千代田区)で、同社は「期待どおりの結果」と話す。
脳梗塞は脳卒中の一つで、脳の血管が血栓によって詰まり、そこから先の神経細胞が壊死(えし)する病気だ。厚生労働省の報告では、わが国の脳卒中患者111万5千人のうち、7割が脳梗塞だ。
発症して間もなければ、詰まった血栓を溶かす薬を投与したり、カテーテルと呼ばれる細い管で血栓を取り除いたりする「急性期治療」ができる。ただ、この治療は「最後に健康であることが確認されてから24時間以内」との制限があるため、治療を受けられる患者は全体の約1割にとどまる。
臨床試験の実施施設である東北大学病院(仙台市)病院長の冨永悌二教授は、「結局、多くの方は治療できず、手足にマヒが残ったり、言葉がうまく話せなくなったり、認知機能が落ちたりするといった後遺症が残ってしまいます」と話す。
事実、厚労省の調査では、65歳以上で介護が必要になった人の理由の第2位が脳卒中だ。
「いまは残念ながら、後遺症が残った患者さんへの治療法がありません。この臨床試験がうまくいけば、患者さんにも、その家族にも、メリットは大きい」(冨永教授)
臨床試験が順調に進んだ場合、最終結果が出るのは来年早々になるとみられる。生命科学インスティテュートの木曽誠一社長は「2020年度中の申請をめざしたい」と意気込む。
Muse細胞の存在が明らかになったのは07年。出澤教授は、当時を振り返る。
「実験中に共同研究者から電話がかかってきて、『飲みに行こう』と。それで、実験中の細胞をあわてて培養液に入れた後、出かけました」
翌日、実験室で培養皿を見て、頭が真っ白になった。ピンク色をしているはずの培養液が、酸性を示す黄色になっていたからだ。「そこで気づいたのです。培養液と間違えて消化酵素を入れてしまったんだ、と」
だが、それを“失敗作”として捨てずに顕微鏡で観察したところ、生き残っていた細胞を発見。培養すると、万能細胞と似たものが現れた。その後、骨髄や血液などいろいろな場所にあり、ダメージを受けた組織を修復するなど、いくつかの能力が確認されたという。
その一つが、「遊走・集積能力」だ。
「Muse細胞は常に血液中をめぐっていて、組織がダメージを受けたときに細胞膜から放出される『S1P(リン脂質の一種)』という“警告シグナル”をキャッチすると、その組織の周辺に自発的に集まってくるのです」(出澤教授)
やがて、ダメージを受けた組織の細胞になりかわり、その細胞として働き始める。これが二つ目の能力、専門的には「自発的分化能」と呼ぶ。
「Muse細胞には、からだのどの細胞にも変身できる能力が備わっています。脳梗塞でいえば、血管が詰まって血流が滞ることで壊死する脳神経細胞になりかわるだけでなく、その周囲の血管も再生することが確かめられています」(同)
実際、脳梗塞におけるMuse細胞の有効性をみる動物実験では、Muse細胞が脳内のダメージを受けた場所で脳神経細胞に変わり、その先端をジワジワと脊髄内にまで伸ばしていく様子が明らかになったという。先の臨床試験では、脳梗塞を発症して2~4週間経ち、後遺症が残った被験者に対し、Muse細胞の製剤を点滴で1回投与。本物の薬と偽薬(プラセボ)で結果を比べる。このように、点滴で治療できることも魅力だ。
「一般的な万能細胞は、特定の細胞へ人工的に誘導した後、基本的には手術で移植します。Muse細胞は点滴で済み、患者さんの負担が少ない。地方の中小病院でも治療を受けられます」(同)
iPS細胞やES細胞は、ヒトの細胞に特定の遺伝子や化合物を入れたり、受精卵に手を加えたりすることでつくられる。そのため、細胞が無限に増殖して腫瘍(しゅよう)化する懸念があり、実際に使う際の“壁”となっているが、Muse細胞はからだにある自然の細胞なので、腫瘍化の危険性が低い。
さらには、特殊な免疫調節システムも持っているので、他人の細胞をそのまま移植しても臓器移植でみられるような拒絶反応が起こらない。免疫抑制剤も必要ないのだ。
課題もある。まずはコストだ。総じて再生医療は治療費が高額で、健康保険で認められている治療にも、1千万円以上かかるものがある。東北大学病院脳神経外科の新妻邦泰教授は言う。
「脳梗塞は一般的な病気であり、患者さんの数が多い。ですので、国の医療費が圧迫される可能性もあり、あまり高額な治療費は現実的ではありません。できるだけ安く、妥当な金額で提供してほしいというのが、臨床医としての願いです」
次に供給の問題がある。わが国では現在、商用目的でドナー(提供者)からMuse細胞などの幹細胞を採取し、使うことは法律で規制されている。「ひとりでも多くの人に幹細胞を用いた治療が広く行き届くためには、献血のように国内で安定的に幹細胞を入手することができるシステムが必要です」(出澤教授)
Muse細胞による再生医療について、日本脳神経外科学会評議員で、兵庫医科大学脳神経外科の吉村紳一主任教授は、次のように話す。
「現時点で脳梗塞の後遺症に対する薬物治療はなく、リハビリによる機能の回復にも限界があります。臨床試験の結果には大きく期待しています。一方で、まったく新しい治療であり、長期的な安全性は今回の試験だけでなく、時間をかけて検証する必要があるでしょう」
いずれにしても、Muse細胞による治療は開発途上。それを考えると、やはり予防が大事だ。吉村主任教授は改めて、「血圧や血糖値が高めの人はしっかり生活改善や薬でコントロールを。たばこやお酒の飲みすぎもリスクになるので、禁煙と節酒を心がけて」と呼びかける。(本誌・山内リカ)
※週刊朝日 2020年8月14日‐21日合併号