絵日記

「世の中の役に立つ」ものではなくただ「絵でしかない」ものを描いてみたいな、と。

だから絵は面白い

2024-06-07 08:49:24 | 絵画

いま、ある構想を思いついて、一枚の絵を描こうと準備を始めた。

まずは全体の構想図というかラフスケッチを描いてみる。

わりとイケそうだ。

20以上の要素が重なり合った絵なので、こんどは個々の要素の形を追求してみる。

すると、ラフスケッチのときよりその形は、

つまらない、硬い、なんだか味気ないものになってしまう。

ラフのときに、短い時間で気楽にちょこちょこっと描いて、

ちゃんと狙った感じに描けたものが、

どういうわけか、「もう少し線らしく、形らしく」と、整理しようとすると、

だんだんと「自分がどんなふうに描きたかったのか」が見えなくなってくる。

単純な構図の絵なら、ぶっつけ本番で「えいゃっ」と描いてしまえば、

こういうことは起こらない。

でも、複雑な構図の絵を描くとなると、

どうしても個々の要素のバランスだとか、配置、関係性なんかを

コントロールする必要が出てくる。

そうじゃないと、画面上で試行錯誤することになり、

時間ばかり費やして、色は濁り、線は重なるしで、

まとまりがつかなくなってしまう。

途中で投げ出すか、「こんな絵になっちゃった」と、適当にまとめる他ない。

しかし、最初に「こんな絵を描きたい」とイメージしたその衝動こそが、

その絵を描かせる動機だったはずだ。

その、そもそもの動機から外れて「こんな絵になっちゃいました」というのは、

やはり「ちょっと困る」状態だ。いや、ちょっとじゃない。かなり困る。

 

最初に「こういう絵を描きたい」と構想したとき、

絵は頭の中にイメージとしてある。

イメージは身体的なものではない。

イメージはふつう「画像」と同一視されているけれど、

頭の中に浮かぶイメージは、画像よりも空間的な気がする。

そのイメージをラフスケッチにしてみる。それはすでに身体的な行動になる。

そこまではスムーズに行く。

じゃあ、なぜ、それをよりよく整えて「形にしよう」とすると、

難しくなってしまうのだろう。

頭の中のイメージからラフスケッチまではほとんどタイムラグがない。

イメージがまだ鮮明である。

ほとんど「なにも考えず」に描ける。

でもそれぞれの要素をうまく組み合わせ組み立てるには、

どうしても「考える」「試行錯誤する」「調整する」ことが必要になって来る。

しかし「考えている」「試行錯誤している」と、

最初のイメージはもやもやとどこかへ逃げ出して行ってしまうのだ。

頭の中の掴みどころないイメージは、

紙に試し描きされる鮮明な線や形に埋もれて見失われて行く。

枝道迷路道草ばかり増えてしまう。

「この絵を描こう」という出発点が「頭の中のイメージの顕在化」

であったはずなのに、とんでもない矛盾が起きてしまっていることになる。

絵を絵たらしめている根本の土台が、描き手である自分自身にさえ、

ともすれば見えなくなってしまうのだ。

こうしたことを何度か経験すると、

さすがに、これを回避する方法を考えるようになる。

それぞれの要素や全体の構図を、

デタラメであれ何であれ「とにかく何枚も何枚も繰り返し描いてみる」。

そうしているうちに「なにも考えなく」なり、

何枚か描いているうちに最初のイメージに近い形が必ず見つかる。

もともと「私」という同じ人間がイメージしたものなのだから、

探しているうちにいつかは見つかるものだ。

イメージがよみがえり、構図や個々のフォルムも決まって

「いざ清書(笑)」となっても、また次の壁が待っている。

「生きた線・生きた形」が描けない。

ラフスケッチと違って「こういうふうに描く」「こんな形に描く」と

決まっているのだから、そのとおり描けば良いようなものだが、

ただなぞるだけなら塗り絵と同じだ。

絵画はおおもとは、身体性の運動から出発したもので、

一回性のパフォーマンス、偶然の出会いのような要素は、

どんな絵にも少なからず求められるだろう。

道路などに描かれたこどものデタラメないたずら描きが面白いのも、

身体的運動の痕跡が見てとれるからだ。それは精神の解放、自由さとも繋がる。

身体が自由に動くのは精神が解放されている時(何も考えないとき)だけだ。

その点では、「書」とも似ている。

「書」は絵と違って、決まった文字、決まった書き順など

細かな決まりがあるけれど、筆に墨を含ませ、呼吸と姿勢を整えて

紙に一息で書いていく「一回性の身体的なパフォーマンスの痕跡」

であることに変わりはない。

どんなに習熟した名人であっても、墨の垂れやかすれ具合、

末尾の撥ねの調子などを100%コントロールすることは不可能だ。

偶然が入り込む。

でも、それこそが「書」の魅力なのだろう。

ただきれいなだけなら、PC用の書体がいくらでも用意されている。

しかし、それは「書」とは言わない。

同じように、どんなに緻密に描かれたものであっても、

絵には偶然とか身体的運動の痕跡とかが、必ず残る。

逆に言えば、そうした要素があるから、絵は生き生きと感じられるのじゃないだろうか。

 

構成を考え、それぞれの要素の大きさや形を追求するとき、

100%作りこんでしまうと、私の場合はそれ以上絵が描けなくなってしまう。

やる気が無くなってくるし、無理に仕上げても

「ああ、出来たな」と思うくらいのものだ。

100%出来上がってしまったものを紙に写していくのは、

退屈な作業でしかない。

ミュシャやアングルの絵でさえ、

作者がこだわって苦労して追求した力の入った部分が、

そこだけ妙に浮かび上がって見えることがある。

そこだけ、どこか他から借りてきたように見えてしまうのだ。

あるいは、

いかにも「入念に準備したものを貼り付けました」というように見える。

100%完成させた部品をただ組み組み上げても、絵は完成しないようなのだ。

きれいすぎる絵はつまらない。

長年修行を積んだ専門の絵描きが精魂込めて描く絵より、

幼児の描くいたずら描きの方が魅力的な場合だってある。

だから、絵は面白い。