メンザシン menzashin0213 報恩謝徳 

日本で生まれ、日本で育てられた事に感謝し、日本の伝統と伝承を学び、後世の世代へと繋がる事、それが私の希望です。

飯豊八幡神社の社守お役目のお手伝い

2014年03月26日 | 日記










 

 


飯豊八幡神社の氏子総代の方の依頼により、仕事で 財産条項をお守りする契約を3月31

日より承りました。

こちらの社務所の御神体は、誉田別命様であり、応神天皇様、八幡神様です。

中世、源氏の流れを持つ武将の和賀氏の宇南権現を拝し、宇南神社として建立しました。

明治時代以後は八幡神を御神体とする飯豊八幡神社と改名され、現在に継承されています

特に、出羽三山への信仰も深く、氏子や社守の方々が協力して、現在迄伝承されてきた社で

もあります。

地区の一ノ宮である、八幡宮に参拝すると、我家では子供達が、学業成就にご利益を得てき

ましたので、私も氏子の方々と社守をする事を任された事は光栄な事でもあります。

例大祭以外にも、折に触れてお手伝いを致して行きたいと思います。

自宅から8km位の距離にありますので、最近、北方からとても早いエネルギーを感じていま

したし、波に乗れれば登り龍ですが、立ち止まったり、ボヤボヤしていていると、あっと言う間

に置いてかれそうになる気はここに関係していた事もわかりました。

新しく強い風を確かめる為、来月か再来月には、北海道に行ってこようと思っています。

そこに答えがある様な気がしますので。


仏の人の誕生日

2014年03月11日 | 日記



  

3月10日は私の祖母の告別式が行われ、満年齢100歳の誕生日の日でもありました。

私の祖母は、逝くその瞬間までとても元気で、当日も酸素マスク越しに民謡を歌ったりしてい

た、元気な姿のまま旅たっていきました。

私の祖母だからと言う訳ではなく、本当の仏心と仏縁の人で、本物の「生きながらに成仏して

いる」菩薩行者の人でした。

十代で実家から嫁ぎ、30歳で夫を戦争で亡くし、以来、未亡人として女で一つで子供ら三人

を育てあげました。

祖母の嫁いだ家は、旧家で地元でも盟主の家柄でしたが、祖母はその家の長男に嫁ぎ、

家を守る為に必死に日々働き、農家にも励みました。

本人は、仏教に帰依し、信仰心が厚く、会話をしていると、最後には

ナンマンダー。ナンマンダー。と唱えるのが常の口癖の人でした。

七年前、母の兄が病で倒れ、病院で危篤状態になっている時に、

この状況では祖母は心配するので、知らせないでおこうと、近親者で話していたのに

いつの間にか病院でさえ知らせていないのに、既に祖母が息子である私の伯父の枕元

に着いていて 「お前はこのようになるように、生まれてきたんだからな。」と 言いながら、

やさしく、やさしく、髪を撫でていました。

年老いて、今、息子が逝こうとしている時でさえ、祖母は「無常の悟り」を伯父に教えようとし

ているのでした。

その姿を見せられた時、「この祖母に仏心とはどこから来ているのであろう。悲しいはずなの

、気丈に微笑んでいる、この強い魂とはどれだけの苦労と信仰心がある人なんだろう。」

と言葉が出てきませんでした。

その伯父も祖母と同じように、家から分かれた子孫、親類だけでなく、「皆に平らに、平らに」

の信念を強く持ち、地域社会に貢献していた人でしたが、それは祖母の強い信仰心と

「無常の悟り」の手本の実践をそばで見てきたからだと思います。

祖母の満年齢99歳の誕生日には、白寿のお祝いを盛大に開催し、その一年後の満100歳

の百寿の誕生日のお祝いをする事にしていた、平成26年3月10日の告別式で、縁をした皆

さんとお別れする事は、祖母が望んでいた事、陰徳を積んできた生涯が仏縁となり、始めか

ら既に決まっていた事だったのではなかったかと思っています。

葬儀の帰り道、私と母が車で自宅に帰る途中、自宅の方向に今まで見たことのないとても

明るく輝いている緑色の流れ星を見せられました。

祖母は迷うことなく、祖父と伯父と一緒に逝った姿が見えました。

祖母が生前、「皆に平らに、平らに」として、第一に他人を思いやってきた縁を、私も一生忘れ

ずに、人生の師としての感謝を、自分も実行して行きたいと思っています。

 

 

 

 上記の写真は、昨年祖母が満99歳白寿のお祝いに総理大臣からいただいた賞状です。