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名古屋にまつわりお話

名古屋に関係する記事を公開している日記。

漢達のメンズエステ体験記

メンズエステ通団

第二次大戦後にはこのような出来事が

2011-05-02 18:47:12 | 日記
1948年(昭和28年)12月2日 - 中川区山王に中日スタジアム(現:ナゴヤ球場)が開場。
1954年(昭和29年)11月7日 - 中日ドラゴンズが初めてプロ野球の日本シリーズで優勝。
1955年(昭和30年)10月10日 - 第1回名古屋まつりを開催。
1956年(昭和31年)9月1日 - 政令指定都市に指定される。
1957年(昭和32年)11月15日 - 名古屋市営地下鉄1号線の(名古屋駅 - 栄町駅間)と地下街が開業。
1959年(昭和34年) - 名古屋城の金鯱が復元される。
9月26日 - 伊勢湾台風襲来。南部を中心に戦後最大級の重篤な被害を出す。
1962年(昭和37年)11月3日 - 名古屋市科学館が開館。
1964年(昭和39年)10月1日 - 東海道新幹線が開通。新幹線の名古屋駅も開業。
1965年(昭和40年)10月15日 - 名古屋地下鉄2号線、栄町駅 - 市役所駅が開通。
1966年(昭和41年) - 県道115号の黄金跨線橋が開通。
1968年(昭和43年)4月25日 - 東名高速道路が開通。
1969年(昭和44年) - 人口200万人を突破。
- 国道22号、名岐バイパスが開通。第1回ミス名古屋コンテスト開催。
1971年(昭和46年)12月20日 - 名古屋地下鉄2号線、市役所駅 - 大曽根駅が開通し、地下鉄2号線が全線開通。
1972年(昭和47年)10月5日 - 国道23号、名四国道が全線開通。
1974年(昭和49年)3月30日 - 名古屋市営地下鉄4号線、新瑞橋駅 - 金山駅が開通。
1975年(昭和50年) - 国道41号、名濃バイパスが開通。
1977年(昭和52年)3月18日 - 名古屋地下鉄3号線、伏見駅 - 八事駅が開通。
1979年(昭和54年)7月25日 - 名古屋高速道路が開通する。
1981年(昭和56年) - 1988年開催を目指したオリンピックの招致に失敗。
1982年(昭和57年)9月21日 - 名古屋地下鉄1号線、高畑 - 中村公園が開通し、地下鉄1号線が全線開通。
1984年(昭和59年) - 東山動物園にコアラがお目見え。
1989年(平成元年)7月15日 - 名古屋市制100周年を迎え世界デザイン博覧会を同年11月26日まで開催。
9月10日 - 名古屋地下鉄6号線、中村区役所駅 - 今池駅が開通。
1992年(平成4年)10月29日 - 名古屋港水族館が開館。
1993年(平成5年)8月12日 - 名古屋地下鉄3号線、上小田井駅 - 庄内緑地公園駅が開通し、地下鉄3号線が全線開通。
2000年(平成12年)5月17日 - JRセントラルタワーズが全面開業。
9月11日-12日 - 名古屋市およびその周辺で集中豪雨(名古屋市で2日間に一年の降水量の1/3を越える567mmの降水量)。気象庁により東海豪雨と命名。
2003年(平成15年)3月27日 - 名古屋地下鉄上飯田線、平安通駅 - 上飯田駅が開通。
2004年(平成16年)10月6日 - 名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)が開通。
10月6日 - 名古屋地下鉄4号線、名古屋大学駅 - 新瑞橋駅が開通し、地下鉄4号線が全線開通。
2005年(平成17年)3月17日 - 安心・安全・快適条例施行により名古屋駅・栄駅・金山駅・藤が丘駅周辺が路上禁煙地区になる。
3月18日 - 愛・地球博ささしまサテライト会場デ・ラ・ファンタジア開催。
3月23日 - 名古屋城の金鯱が市内16区で展示。愛・地球博開会式に展示されるため、2体が同時に2日間名古屋市を離れる。
5月29日 - 名古屋市交通局主催の花バスが最後終了、39年の歴史に幕を下ろす。
2007年(平成19年)3月6日 - ミッドランドスクエアが全面開業。
11月1日 - 中日ドラゴンズが53年ぶりに日本シリーズで優勝。
11月10日 - 名古屋港開港100周年記念開港祭をガーデン埠頭で開催。
11月15日 - 名古屋市営地下鉄開業50周年記念日、藤が丘工場で記念イベントを開催。
2008年(平成20年)10月22日 - ユネスコのデザイン都市に認定(神戸とともにアジア初)
2010年(平成22年)10月11日 - 第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)を開催。
市域と区の変遷1898年(明治31年)8月22日 - 愛知郡那古野村、古沢村を編入。
1907年(明治40年)6月1日 - 愛知郡熱田町を編入。これにより、隣町であった宿場町「宮」を吸収。市域が倍増。
7月16日 - 愛知郡小碓村の一部を編入。
1908年(明治41年)4月1日 - 区政を実施し、中区、東区、西区、南区を設置する。
1916年(大正5年)6月 - 庄内町の一部を編入。
1921年(大正10年)8月 - 呼続町、愛知町、千種町、八幡村、小碓村、笠寺村、荒子村、枇杷島町、中村、常盤村、東山村、御器所村、清水町、杉村、金城村を編入。隣接町村のすべてを編入したことになり、市域が倍増。
1928年(昭和3年)3月 - 天白村の一部を編入。
1937年(昭和12年)3月 - 庄内町全域、下之一色町、萩野村を編入。
10月1日 - 東区から千種区、中区・西区から中村区、中区・南区から昭和区・熱田区・中川区、南区から港区を新設。
1944年(昭和19年)2月11日 - 東区・西区から北区、中区から栄区、昭和区・熱田区から瑞穂区を新設。
1945年(昭和20年)11月3日 - 栄区を廃止し、中区に合区。
1955年(昭和30年)4月5日 - 愛知郡猪高村・天白村を編入し、それぞれ千種区・昭和区の一部となる。
10月1日 - 海部郡南陽町・富田町、西春日井郡山田村・楠村を編入し、それぞれ港区・中川区・西区・北区の一部となる。
1963年(昭和38年)2月15日 - 守山市を編入し、守山区を新設。
4月1日 - 愛知郡鳴海町を編入し、緑区を新設。
1964年(昭和39年)12月1日 - 知多郡大高町・有松町を編入し、緑区の一部となる。
1975年(昭和50年)2月1日 - 千種区から名東区、昭和区から天白区を新設。

名古屋市はこのようなところ

2011-05-01 18:45:53 | 日記
名古屋市は、愛知県西部(尾張地方)の政令指定都市で、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。概要横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有し、東京と京都の間に位置することから、中京とも呼ばれ、三大都市圏の一つである中京圏(名古屋圏)の中枢都市となっている。また、政令指定都市に指定されている。中部地方の政治・経済・文化の中枢である。名駅と栄が、広域集客可能な繁華街となっており、市の中心部となる栄と名駅一帯は地下街が発達している。それに伴い、地下鉄網も充実している。なお、地元住民は名古屋駅の事を名駅(めいえき)と呼び、これは名古屋駅周辺の行政地名(中村区・西区名駅一〜五丁目、中村区名駅南一〜五丁目)にもなっている。市章は、現在の名古屋市を拠点に尾張を統治した親藩、徳川御三家筆頭格の尾張徳川家の合印に由来する「八」である。愛知県の南西部、濃尾平野に広がる。県内では、豊田市・新城市・岡崎市に次いで4番目に広い面積を有する市である。市全体を概観すると、市西南部の港区は海抜0mの臨海工業地帯で日本屈指の国際貿易港である名古屋港を有し、港区の西部は市最大の穀倉地帯が広がる。市の南部の南区は港区同様に工業地帯が広がるが、北部の駆上は隣接する瑞穂区の新瑞橋駅の恩恵を受け商業が発達している。市の北部の北区、北西部の西区・南西部の中川区は住宅地が広がる。

市の北東部の守山区・千種区、東部の名東区・天白区、南東部の緑区は海抜50m-100mの丘陵住宅街で、千種区の東山公園・平和公園、守山区の小幡緑地、名東区の猪高緑地オアシスの森・牧野ヶ池緑地、緑区の大高緑地などの森林を残した大規模な緑地公園も点在する。市の中核を担う中区・東区・中村区・熱田区・昭和区・瑞穂区は海抜10mから15mの平野で、市役所・愛知県庁を有する中区の丸の内・錦・栄・大須・金山、東区の東桜・泉・白壁、中村区の名駅、熱田区の神宮、昭和区・天白区の八事、千種区の今池、星ヶ丘は名古屋市内でも特に商業が発達している地区で、集客力のある商業施設やオフィスビルが連なる。自然環境では市内に1571の昆虫が生息し、これは県下の26%にあたる。市内東部ではリス、タヌキ、イエコウモリ、コウベモグラ、ノウサギ、キツネの生息が確認されている。野鳥類では現在約240種が生息している。気候夏は高温多湿で非常に蒸し暑く、全国でも有数の酷暑地帯である。冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日も珍しくない。また、日本海側と太平洋側を分ける伊吹山地と鈴鹿山脈が濃尾平野北西の関ケ原町付近で途切れているため、強い冬型の気圧配置になると雪雲がそこから濃尾平野に流入し岐阜県南西部や愛知県北西部などでしばしば局地的な大雪に見舞われることがある。2005年12月19日には平成18年豪雪により、名古屋で58年ぶりとなる23cmの積雪を記録した。

歴史
古代から室町時代まで
熱田神宮古代・中世-熱田神宮が開かれ、門前町が海運の要衝として栄える。
戦国時代から江戸時代まで16世紀-織田信長が現在の中区に、豊臣秀吉は中村区に生まれる。
1601年-宮(現在の熱田区)が東海道の宿場となり、西隣の桑名までは「七里の渡し」として海上で連絡する。
1610年-徳川家康が名古屋城を築城。御三家の尾張藩を立てる。その後、清洲越しにより、清洲から町を移転。
1730年-第7代尾張藩主に徳川宗春が就き、名古屋の商業都市化を推進。
明治維新から第二次大戦まで1869年(明治2年)6月20日-尾張藩が名古屋藩に改称。
1871年(明治4年)8月29日-廃藩置県により、名古屋藩が名古屋県(翌年愛知県に改称)になる。県庁は名古屋城内に置かれ、県庁所在地になる。
1872年(明治5年)11月27日-愛知県は額田県(旧三河国及び旧尾張国知多郡)を合併し、県が現在の管轄区域となる。
1874年(明治7年)-名古屋の最初の博覧会、名古屋博覧会が東本願寺名古屋別院で開催。
1878年(明治11年)12月20日-郡区町村編制法施行により、名古屋区が発足。
1886年(明治19年)5月1日-官設鉄道(現在の東海旅客鉄道)名護屋駅(翌年に名古屋駅へ改称)が開業。
1889年(明治22年)10月1日-市制施行により名古屋市となる。市域は現在の中区と東区を中心とする地域で、面積は13.44km²、人口は約15.7万人。
1891年(明治24年)10月28日-濃尾地震により大きな被害を出す。
1898年(明治31年)5月6日-路面電車が運行開始(1974年に全廃)。
1908年(明治41年)-行政区画としての区を設置。中区、東区、西区、南区が発足。
1911年(明治44年)5月1日-名古屋港線竣工。名古屋港駅設置。
8月4日-精進川を新堀川に名称変更。
1914年(大正3年)4月1日-名古屋市内で上水道の供給開始。
9月6日-鶴舞公園で名古屋電気鉄道運賃値下げ要求の市民大会に5万人集まり、一部が暴徒化し電車焼き討ち事件が発生。
1923年(大正12年)4月1日-大須の旭廓が移転し、中村遊廓が開業。
1925年(大正14年)10月1日-国勢調査で初めて人口第3位となる。1921年の合併と1923年9月1日発生の関東大震災から逃れてきた移住者が加わったことも関係。
1930年(昭和5年)-名古屋市営バスが運行開始。中川運河竣工。
1933年(昭和8年)10月1日-現在の名古屋市役所本庁舎が完成。

空襲後の名古屋市街1935年(昭和10年)10月1日-国勢調査で初めて人口100万人を突破。
4月3日-東山公園が開園。
1937年(昭和12年)3月3日-東山植物園が開園。
3月15日-南区(現在の港区港明)で名古屋汎太平洋平和博覧会を開催。
3月24日-東山動物園が開園。
1941年(昭和16年)8月12日-名古屋鉄道の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)が開業。
10月-松葉公園が開園。
1944年(昭和19年)12月7日-東南海地震が発生。
1945年(昭和20年)3月12日-アメリカ軍による初の市街地大規模空襲を受ける(63回に及ぶ名古屋大空襲初日)。
5月14日-空襲により名古屋城の天守閣や金鯱が焼失。人口が60万人をわずかに下回る。

1995年から2001年の出来事

2011-04-30 15:21:54 | 日記
1995年
チーム改革を目指しフランス人のアーセン・ベンゲルを監督に迎えた。ジョルジーニョとエリベウトンが退団し、阪倉裕二、ジェラール・パシ、トーレスを獲得したほか、ベンゲルはフランク・デュリックスをチームに招いた。
ベンゲルはそれまでのキーマンの個人能力頼りの戦術を改め、中盤の4人がフラットに近い形で並ぶ4-4-2を採用して高い位置からプレスをかけてボールを奪い、攻守の切り替えを素早く行うという組織的な戦術を植えつけた[9]。これは当時のヨーロッパではスタンダードな戦術の1つであったが、Jリーグ開幕から間もない日本においては斬新なものであった。この戦術の攻撃のキーマンにストイコビッチを据え、少し引き気味のポジションから自由自在に攻撃を組み立てた(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)。中盤ではデュリックスが攻守に献身的に動き、トーレスがラインを統率して守備面でも安定感を示した。
選手の長所を伸ばすことを目指して自信を植え付けていき、元々代表クラスの選手を抱えていたこともあり、年間総合3位(32勝20敗)と大躍進。第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。
1996年
福田健二、望月重良、西ヶ谷隆之が入団。2月に小倉が全治6か月の大怪我を負い、それを補うようにオリビエとトーマスを獲得した。
この年は1シーズン制であり、成績は2位(21勝9敗)であった。リーグ戦2位としてサントリーカップ・96チャンピオンズファイナルに進出し、同年のナビスコカップで優勝した清水エスパルスと対戦し、PK戦の末に勝利を収めた(3-1)。決勝ではリーグ戦で優勝した鹿島アントラーズと対戦し、スコアレスで突入した延長戦でストイコビッチのVゴールによって勝利、これにより鹿島のJリーグ完全優勝を阻止し、形式としては1996年の事実上のJリーグチャンピオンとなった。
なお、9月にベンゲルが監督を退任(後にイングランドのアーセナルFC監督に就任)、後任にはポルトガル人のカルロス・ケイロスが就任した。
1997年
中西哲生が移籍したほか、小倉が怪我の再手術を受け長期リハビリを要した。滝澤邦彦、古賀正紘、中谷勇介、伊藤卓が入団、リカルジーニョとバウドを獲得した。
前年度のサントリーカップ優勝によりサンワバンクカップへ出場し、MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドと対戦し、3-1で勝利を収めた。
リーグ戦では年間総合9位(16勝16敗)とまずまずの成績を収めたが、天皇杯は、当時JFLの東京ガス(後のFC東京)に敗戦を喫した。なお、ケイロスが監督を退任して、11月より田中孝司が監督に就いた。
1998年
前年の11月に就任した田中の下、石川康、大森征之、野口幸司、ベルナール・アルーを獲得してシーズンに臨んだ。
シーズン中、6月にバウドが退団するも、7月にウリダを獲得し戦力低下は防がれた。福田健二がリーグ戦16得点の飛躍を見せ、年間総合5位(23勝11敗)の成績を収めた。
1999年
横浜マリノスと合併・消滅した横浜フリューゲルスから楢崎正剛と山口素弘を獲得したほか、呂比須ワグナーといった代表級選手を補強した。その他、宮原裕司が入団した。
大幅な戦力補強ゆえに優勝候補の筆頭に上げられたが、シーズン中に田中と平野孝、望月重良、大岩剛との確執が表面化し、4月に田中が監督を辞任した。ダニエル・サンチェスが後任に据えられるも、1stステージ8位(7勝1分7敗)と低迷する。
2ndステージも苦しいスタートであったが、シーズン途中にジョアン・カルロスが監督に就任すると直後に10連勝し、最終成績2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)と好成績を残した。また、天皇杯では2度目の優勝を果たした。
2000年
浅野哲也に戦力外を通告するとトーレスも退団し、伊藤裕二、小倉隆史、野口幸司といった主力選手が相次いで移籍するなど、戦力面に大きな不安を残しシーズンを迎えた。ユースから氏原良二が昇格し、原竜太が入団したほか、トーレスの後任としてホミルドを獲得した。
1stステージでは12位(7勝1分7敗)と低迷。2ndステージ開始直後の7月5日、突如チームの顔であった平野、望月、大岩の3人を解雇することを発表した。これに関して小宮好雄副社長は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した。これはカルロスの強い意向が働いたもので、戦力低下を危惧するストイコビッチ等の主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日には社長から3人の放出が発表された。大幅な戦力ダウンとなったが、7月にはウェズレイを獲得し、2ndステージでは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)の成績を残した。
2001年
飯島寿久、小川誠一に戦力外を通告、呂比須ワグナーも退団した。復帰した森山泰行を含めて酒井友之や海本慶治など複数の即戦力選手を獲得、中村直志、吉本岳史、山内友喜が入団した。
1stステージは3位(10勝2分3敗)で終了。なお、1stステージを以てストイコビッチが現役引退。また、ほぼ同時期に福田健二がFC東京へ移籍した。一方でマルセロを獲得。年間総合は5位(17勝3分10敗)の成績を残す。

2002年から2007年の出来事

2011-04-29 15:23:22 | 日記
2002年 2ndステージヴァスティッチウェズレイ中村滝澤岡山山口酒井古賀パナディッチ大森楢崎
2002年
元市原監督のズデンコ・ベルデニックを監督に迎えた。ユースから山口慶が昇格、吉村圭司と片桐淳至が入団し、鄭容臺を獲得した。宮原裕司が退団した。
5月にはウリダとマルセロに戦力外通告を行い、7月にパナディッチとヴァスティッチを獲得した。チームとしては開幕から(特にベンゲル以降は一貫して)基本システムとして4-4-2を採用していたが、このシーズン途中からトルシエジャパンでも用いられた3-5-2へとシステムを変更した。
1stステージは3位(10勝5敗)と好成績を残したが、2ndステージは13位(5勝1分9敗)と低迷する。年間総合は6位(15勝1分14敗)であった。
2003年
チームスローガン:ハード・魂(ハート)。
山口素弘に戦力外を通告。ユースから平林輝良寛が昇格、渡邊圭二と深津康太が入団、藤本主税と海本幸治郎を獲得した。2月に上田滋夢がテクニカルディレクターに就任。
パナディッチ、大森征之、古賀正紘による3バックとボランチの中村直志と吉村圭司が機能し、高い守備力を誇るが反面得点力は乏しかった。5月にヴァスティッチが退団すると、6月にマルケスを獲得。1stステージでは7位(5勝8分2敗)と順位こそまずまずだが、大事な場面で点が取れない試合が多かった。
シーズン中にはウェズレイと監督の間に起用を巡って確執があることが表面化した。勝ちきれない体質を改善するためベルデニックを解任し、2ndシーズン開始前にネルシーニョを監督に招聘。9月には川崎フロンターレから石塚啓次を獲得した。順位こそ8位(6勝4分5敗)であったが、ウェズレイがJ1得点王を獲得した。年間総合は7位(11勝12分7敗)。
2004年
チームスローガン:ハード・魂(ハート)。 - 2004年、超える。-
藤本主税が移籍。豊田陽平が入団。森山泰行が三度復帰したほか、川島永嗣、秋田豊、角田誠、岩本輝雄、大野敏隆(レンタル移籍)と大型補強を行った。
6月にパナディッチ、7月に森山、8月に滝澤邦彦が相次いで移籍。それを補うため7月にクライトンがネルシーニョ監督によって招かれ、井川祐輔をレンタル移籍で獲得した。その後も本田征治、滝澤邦彦(レンタル移籍)が移籍した。年間総合成績は7位(12勝8分10敗)。
2005年
チームスローガン:赤鯱魂 - Grampus-Spirits -
大型補強をやめピンポイント補強に転換し、若手の育成に力を入れる事を宣言する。そのため、ミスターグランパスとも呼ばれた岡山哲也をはじめ、レンタル移籍から戻った滝澤邦彦、海本慶治、海本幸治郎、藤田泰成、原竜太と多くの主力選手を放出したものの、他クラブからの補強は安英学と増川隆洋の2人に留まっている。新人では、前年から特別指定選手としてチームに帯同していた本田圭佑のほか、杉本恵太と鴨川奨が入団、ユースから津田知宏が昇格した。この年はアルビレックス新潟との間で、岡山・海本兄弟・安英学と4件の移籍が発生するという異例な事態となった。
4月にウェズレイが退団するものの、序盤戦では2位になるなど幸先良いスタートを切ったが、5月にマルケスが退団すると、次第にチームは失速し、また得点力不足に陥った。そのため6月に藤田俊哉と中山悟志を獲得し、7月にはルイゾンを獲得したが、成績不振を理由にネルシーニョが監督を解任された。
ネルシーニョが解任されるとルイゾンも退団し、クライトンを苦し紛れにFW起用するなど得点力不足に拍車がかかるようになる。その結果、クライトンは本来のパフォーマンスを発揮できず、シーズン終了後に戦力外通告を受けている。
J2への降格すら現実味を帯びるほどの不振をきわめたが、11月20日に首位ガンバ大阪相手に2-1で勝利すると、続く23日の東京ヴェルディ1969戦を0-0で引き分け辛うじてJ1残留を決めた。最終成績は14位(10勝9分15敗)であった。
2006年
チームスローガン:前線へ。その先へ。- Grampus Challenge 2006 -
オランダ人監督のセフ・フェルホーセンが就任したが、フェルホーセンを招聘した上田TDが1月に解任される。新陣営が決まった段階でのこの人事は、サポーターの間に動揺を広げた。
玉田圭司、マレク・スピラール、金正友を獲得。ユースから青山隼が昇格し、阿部翔平、竹内彬、片山奨典、井上渉が入団した。
フェルホーセンはチームの建て直しを図ったが、前線にポスト役となる選手がおらず、また本来のスタイルと異なるポストの役割を玉田に求めたことで玉田自身も調子を崩してしまう。長身の古賀正紘をFWで起用するなど打破を狙ったものの、シーズン序盤にはナビスコカップを含めると公式戦16試合勝ち星が無いと言う苦しい状況が続いた。しかし、7月にフローデ・ヨンセンを獲得すると得点力不足が改善し、最終成績は7位(13勝9分12敗)。
ホームでFC東京に敗戦してからフェルホーセンと選手との間で練習方法を巡ってのトラブルが発生した事もあったが、後に和解している。
2007年
チームスローガン:前線へ。その先へ。
秋田豊に戦力外を通告。黄金世代と呼ばれた年代のユースから吉田麻也を始め、長谷川徹、福島新太、新川織部の4人が昇格したほか、小川佳純、巻佑樹、筑城和人が入団した。しかし古賀正紘、川島永嗣ら複数の選手が移籍し、特に守備面に大きな不安を残した。
開幕4連勝など幸先良いスタートを切ったが、主力選手の怪我や出場停止などによって好不調の波が激しく、近年の課題でもあった決定力不足を露呈し、勝ち切れない試合が多く、前半戦終了時点で14位と低迷。特に8月半ばの横浜F・マリノス戦の3-0での惨敗後に、一部のサポーターが問題を起こす(次の大宮アルディージャ戦の試合前に両者とも謝罪)など、チーム内でも亀裂が起こっていた。結局11月18日の大分トリニータ戦で3-1で勝利してJ1残留を決めたものの、すでにJ2降格が決まっていた11月24日の横浜FC戦でのスコアレスドローや、天皇杯第5回戦でHonda FC(リーグカテゴリが2つ下の日本フットボールリーグに所属)に2-0で敗れるという波乱もあり、最後まで課題が残るシーズンであった。最終成績は11位(13勝6分15敗)。
このホーム最終戦(11月24日の横浜FC戦)の後に行われたセレモニーでは、フロントに対して今季のチーム成績不振に対する不満が書かれた横断幕が提げられ、その後挨拶をしにきたフェルホーセンに対して一部のサポーターから非難の声があがるなど、サポーターの不満が表面化する一幕もあった。

2008年以降では

2011-04-28 15:25:22 | 日記
2008年
チームスローガン:前線へ。その先へ。 - Never give up for the win. -
かつてチームを支えたドラガン・ストイコビッチが監督として復帰。ハーフナー・ディドもコーチとして復帰した。ヘッドコーチには、ストイコビッチとともにイビチャ・オシムの下でユーゴスラビア代表としてプレーしたボスコ・ジュロヴスキーを招聘、1月には新たにチームに設けたGMに久米一正が就任した。
鴨川奨に戦力外を通告、本田圭佑が移籍、スピラールと金正友が退団した。一方補強では、ストイコビッチが自ら引き抜いたバヤリツァのほか、マギヌン、三木隆司、西村弘司を獲得した。また、ユースから花井聖が昇格、佐藤将也が入団した。
今シーズンよりFC岐阜がJリーグへ加盟し、岐阜のホームである岐阜メモリアルセンター長良川競技場でプレシーズンマッチが開催された。リーグ開幕戦の京都とは引き分けたものの、第2節からの6連勝で一時は首位にもなった。最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)となり、AFCチャンピオンズリーグ2009の出場権を獲得した。また、この年の8月には1993年のJリーグ開幕以来1度も勝ち星を挙げることができなかった茨城県立カシマサッカースタジアムの鹿島戦で初勝利を収めた(後述#鬼門のカシマスタジアムを参照)。
2009年
チームスローガン:Never give up for the win. - その先の感動へ-
チームの活性化を目指してヨンセン、藤田俊哉、大森征之、米山篤志、三木隆司などの主力のベテラン選手を放出し、チームの若返りを図った。そしてユースから昇格した磯村亮太をはじめ6人の新人選手が入団し、コンサドーレ札幌からダヴィ、横浜FMから田中隼磨を獲得した。さらに、前年に新人王を獲得した小川佳純にはストイコビッチ監督の代名詞でもある背番号10が与えられた。また、かつてストイコビッチとともにチームを支えた伊藤裕二と飯島寿久がトップチームのコーチに昇格した。前年の世界金融危機の影響で親会社のトヨタ自動車が経営不振による赤字に転落したがチームへの影響は薄く、前述のベテラン組の放出を除いてほとんどの選手が残留した。
3月22日の第3節清水エスパルス戦で3-1と勝利、ホームゲーム通算150勝を達成した。中断期間前の5月24日まででダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランキングトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点に留まった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレイヤーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、ストイコビッチ監督の目指すサイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた。外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な外国人選手を調査し、6月21日にオーストラリア代表のFWジョシュア・ケネディの獲得を発表した。玉田やダヴィとの共存でチームの得点力不足改善が期待されたが、7月22日にダヴィのウム・サラルSC移籍が決定した。その後、7月29日には空いた外国人枠でモンテネグロ代表のブルザノヴィッチを獲得、次いで8月3日には層の薄い左サイドの補強として元日本代表の三都主アレサンドロを獲得するなど精力的な補強を行った。
守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田と増川の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のリーグ戦ガンバ大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内と佐藤が起用されるに事態に至った。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、増川とバヤリツァをインフルエンザと怪我で欠いた後半戦の10月25日の磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した。
リーグ戦では万全なコンディションで挑めない状況から中位に甘んじる一方、現在の方式となってから初の出場となったAFCチャンピオンズリーグはグループリーグを1位通過し、準々決勝で川崎フロンターレに勝利して日本勢としては唯一のベスト4進出となった。しかし、準決勝でアル・イテハド(サウジアラビア)に敗れ、3年連続の日本勢決勝進出はならなかった。天皇杯では10年ぶりに決勝まで駒を進めたが、G大阪に破れ準優勝に終わった。


2010年基本システムケネディ玉田金崎マギヌン中村ダニルソン阿部増川闘莉王田中楢崎
2010年
チームスローガン:Never give up for the win. - さらなる高みへ -
ストイコビッチがクラブ史上最長となる「監督として3シーズン目」として迎えた。
この年の戦力はバヤリツァ、広野耕一、山口慶、新川織部の4選手と契約を更新せず、吉田麻也が完全移籍、平木良樹、佐藤将也、津田知宏が期限付きで移籍した。補強面では金崎夢生、田中マルクス闘莉王‎、千代反田充を完全移籍で、ダニルソンを期限付き移籍で獲得、新井辰也が入団し、大型補強に成功した。
開幕戦は天皇杯で大敗したG大阪に勝利したが、序盤は勝ちきれない試合があり首位になることはなかった。ワールドカップ中断後の夏季は猛暑の中、他クラブの勝ち点が伸び悩む中で順当に勝ち星を積み上げ、8月14日の第18節浦和に勝利して単独の首位に浮上。シーズン通じて1度も連敗がなく、また敗戦後の次ゲームは全て勝利するなど確実に勝ち点を重ね、11月20日(第31節)に湘南を1-0で破り、Jリーグ18年目にして初のリーグ戦優勝を飾った。一度も首位を明け渡すことなく、最終的には「シーズン23勝」、「勝ち点72」(タイ記録)、2位ガンバ大阪との「勝ち点差10」など1シーズン制移行後の最高の記録を残し、圧勝でリーグ戦を終えた。なお、1シーズン制移行後最終節を待たずして優勝が決定したのはこれが初めて。
ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。個人タイトルとしては最優秀監督賞にストイコビッチが選出され、ケネディが2003年のウェズレイ以来の得点王、楢崎が1995年のストイコビッチ以来のMVPを獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初。また、楢崎はGKとして初めてMVPに選出された。
2011年
チームスローガン:Strong Believin' - 誇りを胸に -
マギヌンが退団、佐藤将也、杉本恵太、福島新太が完全移籍、竹内彬、平木良樹、巻佑樹が期限付き移籍で移籍、津田知宏は期限付き移籍期間延長となった。補強面では、藤本淳吾、永井謙佑、吉田眞紀人、田中輝希が加入、ダニルソンの期限付き移籍期間も延長された。
2月26日、スーパーカップで鹿島と対戦してPK戦勝利を収めた。その後、東日本大震災の影響によるリーグ戦中断期間中に長谷川徹が期限付き移籍、ユースから佐藤和樹が2種登録された。

このようなエピソードがありました。

2011-04-27 15:27:40 | 日記
カップ戦の苦手さ
ナビスコ杯では2004年のベスト4から3年連続グループリーグ敗退を喫しており、2007年に至ってはナビスコ杯参加チームで唯一未勝利のままで敗退している。また、オリジナル10の中で3大タイトルが皆無の広島を除くと名古屋のみがナビスコ杯の獲得経験がない。天皇杯に関しては、2度の優勝経験がありながら、1999年シーズン優勝以降からの成績がほとんどベスト16以下であり、ベスト8が1回しかない。2003~2007年は5年連続でベスト16で敗退し、準々決勝進出を逃している。ただし、ストイコビッチが監督に就任した2008年は、浦和など強豪と同じグループでありながら最高の成績で予選を通過し、2004年以来のベスト4に入った。翌2009年は初出場のACLで日本勢最高成績となる4強、天皇杯でも10年振りの決勝進出を果たしており、ストイコビッチ政権下ではカップ戦での弱さは払拭されつつある。しかし、出場機会の乏しい若手中心で挑んだ2010年のナビスコ杯は1勝もできずに敗退している。

鬼門のカシマスタジアム
1993年のJリーグ開幕戦、カシマスタジアムで鹿島アントラーズと対戦し、ジーコにハットトリックを決められるなど0-5で大敗して以来、2008年までカシマスタジアムでは天皇杯、ナビスコ杯含めて22連敗(0勝0分22敗)という勝利どころか引き分けすら1つもないというジンクスがあった。2008年8月23日に念願のカシマスタジアムでの初勝利を挙げ、2009年も4-1で勝利しているが、未だに苦手意識は高い。

ユニフォーム
カラー
チームカラーは赤
ホーム用は2006年まではパンツも赤だったが、2007年以降は黒としている。
2001‐2002年には3rdユニフォームを採用していた。(シャツ、パンツ、ストッキングに黒を採用。)
1992‐1994年のカップ戦用のユニフォームの配色は1stがシャツ・赤、パンツ・白、ストッキング・赤で、2ndがシャツ・白、パンツ・赤、ストッキング・白だった。

1992年~2000年の袖「TOYOTA」はロゴは使用せず、シンボルマークのみを採用。
2001年に「TOYOTA」のロゴを入れるまで、胸部分にはグランパスのチームロゴを入れていた。
「TOYOTA L&F」は「豊田織機」(豊田自動織機)の社内カンパニーである。
2009年のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示。
2011年のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示。またユニホームデザインや背番号のフォントなど、Jリーグ用と異なるデザインを使用。

エンブレム
1992年-1993年 グランパスくんをそのままエンブレムとして採用(リーグ戦用ユニホーム。カップ戦ユニホームは1994年も使用)。
1994年-1997年 リーグ戦用ユニホームはチームフラッグをモチーフにした円形のエンブレムを採用。カップ戦様ユニホーム(1995年-)にはエンブレムはなく、胸の「Grampus」ロゴがエンブレム代わり。
1998年 この年からリーグ戦・カップ戦でユニホームが統一。エンブレムはなし。
1999年-現在 楯と王冠をモチーフに「NGE(Nagoya Grampus Eight)」とグランパスくんを盛り込んだものを採用。2011年より、リーグ戦および天皇杯の優勝数を表すチャンピオン・スターを上部に表記。

名古屋グランパス後援会について

2011-04-26 18:29:38 | 日記
東海3県の知事、サッカー協会、名古屋市長、サッカー協会、出資会社を核とし、後援会事務局、法人会員631社(2009年11月時点)からなるチームの支援組織。法人会員にはトヨタ自動車の下請け企業・全国各地の販売店・主要在名民放局(愛知国際放送を除く。愛知県外では三重テレビ放送も法人会員)といった企業・団体等も入会している。毎年シーズン前に名古屋市内のホテルで、スポンサー、後援会法人会員・監督・選手が出席するパーティー形式のイベントが行われている。

マスコットキャラクター
マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス(Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。

関連メディア
試合中継
テレビ放送
試合中継を民放で放送する際、スポンサーとなるトヨタグループ9社を紹介する共通CMを放送する(一部応援番組などでも放送されている)。
Jリーグ黎明期に沖縄県で開催されていた地元放送局・沖縄テレビ主催によるおきぎんカップ(名古屋と沖縄県のサッカークラブとのプレシーズンマッチ)の試合放映は、東海テレビと中京テレビの両局が隔年交代で放送していた(試合中継は沖縄テレビ制作のを放送)。
テレビ・ラジオともに、並びは試合中継数が多い順。
NHK
テレビ(ローカル放送・BS含む)・ラジオ。近年は地上波テレビ放送(ローカル)にてJリーグホーム開幕戦の試合を生中継している。
J SPORTS、スカチャンなどのCSチャンネル
2008年から中京テレビ放送が試合中継に協力している。
名古屋テレビ(メ~テレ)
民放テレビ局では唯一、2007年まで年1試合程度のリーグ戦の生中継を行っていたが、2008年以降は後述にも記載するとおりFC岐阜のスポンサーになった事から、録画中継に切り替わったが、依然として在名テレビ局の中では試合中継数が一番多い。この事も関連してか、2008年以降、両チームのJリーグ開幕前のプレシーズンマッチを主催し、録画中継を行っている。キー局のテレビ朝日がAFCアジアチャンピオンズリーグ・放送権を保持している事から、グランパス出場時にはホーム戦を中心に試合中継(基本的には録画中継が主となるが、生中継を行う場合もある)を行う。
東海テレビ
通常のリーグ戦に加え、ヤマザキナビスコカップのホーム戦も不定期で中継する(キー局のフジテレビが放映権を持っているため)。
中京テレビ
2008年度よりホームゲームに限り、スカパー!向けの試合中継制作を担当(その一方で、地上波での試合中継は減っている)。スカパー!の解説はグランパスOBの藤川久孝などが担当。東海テレビの解説者でもあった沢入重雄も担当していた。
CBC
ラジオはネットワークの関係で放送権を持っていないが、テレビのみ年に1回程度の録画中継がある。
テレビ愛知
Jリーグの人気が全盛期の頃は、ホーム戦のナイトゲームを生中継したり、ファン感謝デーの模様をまとめた特別番組を放送するなど、一時は中日ドラゴンズ戦中継数を上回っていたが、中継数を徐々に減らし、2005年の1試合の録画放送を最後に、在名テレビ局では唯一試合中継が無い。
ラジオ放送
2009年4月12日の豊田スタジアムで行われた浦和戦から、ホーム戦で不定期ながら、インターネットのストリーミング放送をラジオと同時中継を行うことになった(東海ラジオ制作分に関しては地上波が生中継を行っている場合以外はインターネットのみ放送)。
2010年は瑞穂での試合を東海ラジオの制作、豊田での試合をエフエムとよたの制作でホーム戦全試合をインターネットストリーミング放送で生中継した。
エフエムとよた
2007年10月21日のFC東京戦より実況中継を開始。2008年以降は「GRAMPUS BEAT」としてホーム戦を全試合中継の予定。2008年は優勝争いをしていたこともあり、同年のシーズン最終戦は、名古屋から遠く離れた大分で行われたが、現地にスタッフを派遣し生中継を行った。2010年の優勝を決めた試合でも、平塚競技場に現地スタッフを派遣し生放送を行っている。解説にグランパスS.A.の関谷憲生、実況はフリーアナウンサーが担当。
東海ラジオ
東海ラジオ ワイルドサッカーとして生中継。Jリーグや国際試合の放送権を持つニッポン放送系列のため過去に多数の放送実績があるが、近年はホーム開幕戦を毎年放送する程度。2010年の優勝を決めた試合では、急遽生中継を平塚から行った。

名古屋金鯱軍って何?

2011-04-25 21:32:03 | 日記
名古屋金鯱軍は、1936年から1940年まで存在したプロ野球球団。歴史名古屋新聞社を親会社として1936年2月28日に設立。愛知県鳴海町(後に名古屋市に編入)の鳴海球場を本拠地とした。実際は2月28日以前の段階でチームは出来上がっており、同年2月9日からの3日間「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として東京巨人軍対金鯱軍の試合を行い、第1戦に勝利した。これは、現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。1941年、相次ぐ召集で選手が不足する中、新聞統廃合令によって名古屋軍の親会社新愛知新聞社と名古屋新聞社が合併する可能性が出てきたため(実際に翌年合併し、中部日本新聞社になった)、球団経営から手を引くことになった。そのため、同様に選手数が不足していた翼軍と合併して、大洋軍を結成した。名古屋に本拠地を置いていたが、後の中日ドラゴンズのルーツは名古屋軍の方である。また大洋軍は後の「西鉄軍」であるが、「西鉄クリッパース→西鉄ライオンズ」(現在の埼玉西武ライオンズ)との直接の繋がりはない(共に経営母体は西日本鉄道)。

チームの特徴結成に際し岡田源三郎を総監督、巨人軍の助監督だった二出川延明を監督として迎えた。しかし二出川がシーズン始めに退団し審判に転向、主将だった島秀之助が監督になった。島秀之助、黒沢俊夫、濃人渉、内藤幸三と戦後まで名前の聞こえた顔ぶれが伺えるが、投打ともに小粒でチームは下位を低迷した。しかしその小粒さゆえに機動力を重視した野球を進め、1937年秋から1939年にかけて島、江口行男、佐々木常助、五味芳夫と4季連続で盗塁王を輩出した。

チーム成績
記録Aクラス・1回(1937年秋)
Bクラス・5回(1937年春、1938年春~1940年)
最多勝 36勝(1939年)
最多敗 63敗(1940年)
最多引分 7分(1940年)
最高勝率 .479(1937年秋)
最低勝率 .275(1938年秋)

その他の記録
最小ゲーム差 16ゲーム(1937年秋、1938年春)
最大ゲーム差 38.5ゲーム(1940年)
最多本塁打 14本(1937年秋、1940年)
最小本塁打 3本(1936年秋)
最高打率 .231(1937年春)
最低打率 .200(1940年)
最高防御率 2.86(1939年)
最低防御率 4.28(1938年春)

歴代本拠地
鳴海球場(1936-1940)

歴代監督
岡田源三郎(1936春-1939)
石本秀一(1940)

名古屋NSCカレッジとは

2011-04-24 09:35:33 | 日記
名古屋NSCカレッジは、愛知県名古屋市中区新栄にある私立専門学校の総称。学校法人中西学園が運営する。名古屋ファッション専門学校、名古屋総合デザイン専門学校、名古屋栄養専門学校、名古屋製菓専門学校がある。

沿革
1945年12月-すみれ洋裁学院創立。〈現・名古屋ファッション専門学校〉
1946年4月-昭和区若柳町、駒方町にすみれ洋裁学院仮校舎増設。
1982年4月-すみれ洋裁学院を「名古屋ファッション専門学校」と改称、同時に名古屋総合デザイン専門学校、名古屋総合ビジネス専門学校、名古屋栄養専門学校の3校を開校。
1983年4月-名古屋建築設備専門学校を開校。
1998年4月-名古屋製菓専門学校開校。名古屋建築設備専門学校を「名古屋建築土木専門学校」に校名変更。
2003年4月-名古屋建築土木専門学校を「名古屋環境建設専門学校」に校名変更。
2007年4月-名古屋環境建設専門学校を専門学校NSCデザイン工科カレッジに校名変更。

設置学校学科
名古屋ファッション専門学校
校長 井後治子
ファッションマスター科
ファッション造形科
ファッション流通科
ファッションスペシャリスト科
名古屋総合デザイン専門学校
校長 大西甫
インテリアデザイン科
グラフィックデザイン科
名古屋栄養専門学校
校長 樫尾一
食物栄養科
名古屋製菓専門学校
校長 中西義裕
洋菓子科
製菓衛生師科
製パン科

所在地
愛知県名古屋市中区新栄1丁目9番6号

交通手段
地下鉄「栄駅」下車、12番出口を東へ徒歩8分
地下鉄「新栄町駅」下車、1番出を西へ徒歩5分
地下鉄「高岳駅」下車、3・4番出口を南へ徒歩8分

名古屋お金物語
名古屋お金物語(なごやおかねものがたり)は1995年にNHKのドラマ新銀河枠で放送されたテレビドラマ。全20回。放送期間は1995年6月12日~7月13日。1997年に続編の「名古屋お金物語2※」が放送される。現在はNHKアーカイブス(外部リンクの項:参照)の公開作品に登録され、NHK各放送局他の番組公開ライブラリー施設にてオンライン視聴できる作品となっている。「名古屋お金物語2」は本作品から原作者、制作陣、およびメイン・キャストの多くを引き継いでいる…という意味で本作品の“続編”である、とも言えるが、両作が扱っているストーリーの間には前後の連続性が無く(「~お金物語」はラーメン店経営、「~お金物語2」は塾経営)、より厳密には『第2弾』もしくは『続作』と捉えるべき内容となっている。

キャスト
森谷智子(ともこ)……荻野目洋子
佐伯みどり……水野真紀
小田切史郎……時任三郎
矢島政哉:みどりの恋人、上司……美木良介
森谷考輔(こうすけ):智子の父……宍戸錠
楠田涼子:後に、みどりの上司……東てる美
小田切孝史(たかし):史郎の息子……西谷卓統
森谷雪子:智子の妹……大嶺美香
今野三治:ラーメン屋台の主人……枉木卓
今野の息子……西根智彦
屋台の客……林家木久蔵(現:木久扇)
春江:居酒屋のおかみ、考輔の恋人……伊藤友乃
【 ナレーション……荻野目洋子 】

スタッフ
脚本:清水有生
演出:一井久司、高橋練、銭谷雅義
制作:NHK(名古屋放送局制作)
音楽:小野文栄
タイトル画:茶畑和也

岐阜・郡上八幡から名古屋に出てきた

2011-04-23 22:37:02 | 日記
OL、森谷智子(荻野目洋子)は気楽な一人暮らし。あげくにフィアンセだと信じていた恋人に結婚準備金を丸ごと騙し盗られ、さらには自分のクレジットカードまでも無断で盗用されて、三百万円余の借金を一夜にして背負い込まされてしまう。詐欺に遭ったと気づいたときには、すでに勤務先を“円満に”寿退社。住んでいたマンションも解約してしまっていた。大家から“予定通り”立ち退くよう迫られ、かろうじて古い木造アパート《ひまわり荘》に転がり込んだものの、明日からの生活手段が無い……。彼女と同じラーメン屋台に通う常連客のホステス、佐伯みどり(水野真紀)はそんな智子の窮状を偶然に知ることとなり、一緒に水商売の仕事を手伝わないかと誘う。クラブ“出勤”初日からセクハラ客に激怒して大失態をしでかした顛末を帰りがけ、みどりと智子が互いに(その馴染みの屋台に立ち寄り)言い争っていると、いきなり屋台の老主人・今野三治(枉木卓)が脳卒中で倒れてしまう。今野が病院に担ぎ込まれたあと、ふたりは公園に残された屋台で“にわかラーメン屋”に扮し、仕込んであった食材を首尾よく全部売り切ってしまうのだが、その今野も翌朝未明には様態が悪化して急死。前の晩に智子たちが得た売上金を遺族から譲り受けるものの、みどりと半分に割り、さらにはクレジット会社《享栄クレジット》の集金レディ、楠田涼子(東てる美)に借金返済と称して大半を巻き上げられ、結局智子の手元には50円玉一個しか残らなかった。

そればかりか楠田は、(少しでも多くの債権を前倒しで回収すべく)智子に屋台の営業を継ぎなさいよ…とさえ持ちかける。智子自身、屋台で過ごした悲喜こもごもの想い出に流されるまま「自分にも生きる夢ができた。たくさんの人を喜ばせるラーメンをつくりたい」と奮起するものの、知識も技術も仕入れルートもない素人には無理だ、と冷ややかに諭すみどり。だが、智子の決意が固いのを見て、自分の店の飲み客でラーメンチェーン店《大黒屋》を統率する腕利き経営者、矢島政哉(美木良介)を紹介してやるのだった。《大黒屋》チェーンの新規開業研修で、わずか10日間という短期集中の猛特訓を受講し、まがりなりにもラーメン職人となった智子。いろいろと紆余曲折はあったが、みどりの蔭ながらの集客支援などもあって、新装屋台《春駒亭》の売上げは堅調にアップし続ける──。そんな順調な業績に少し天狗になっていた智子。ある日、アパートの隣室の住人でトラック運転手の父、小田切史郎(時任三郎)とふたりきりで暮らす少年、貴史(西谷卓統)に向かって「美味しいラーメンをつくってあげるよ」と申し出た。ところが彼女の思惑に反し、試食した貴志の口から出た言葉は「このラーメン、美味しくないよ」。

実は彼の父・小田切こそ、《大黒屋》の秘伝の味を編み出した調理人その人だった。かつて《大黒屋》発祥の店に雇われて先代の娘と結婚しながら、二代目・政哉の全国チェーン展開戦略に猛反発して店を飛び出し、ほどなく最愛の妻(=政哉の妹)を狭心症で亡くす…という哀しい過去を背負っていた。小田切が名古屋に戻っていることを知った矢島は、智子に“妹を殺された”積年の憎しみを告白すると「これ以上、奴とは関わらない方がいい」と警告する。その一方、屋台の客の入りはひところの活況を失い、次第に経営は苦しくなっていた。そればかりか、思い出のたくさん詰まった屋台そのものすら、営業中のアクシデントで焼失させてしまう。残酷すぎる現実。それでも智子は、昼間ガソリンスタンドでアルバイトしながら、夜はラーメン作り研究に没頭し続けた。小田切の機転の利いたアドバイスもあり、着実に麺職人の腕は磨かれていった。そんな智子の真面目さと情熱を見守ってきた楠田は、彼女に開業資金を個人的に融資。勤務するクレジット会社が副業で運営する屋台村への《春駒亭》出店を、遠巻きながらも“支援”するのだった。一方、ホステスを辞め《大黒屋》の幹部候補社員として働きはじめたみどりは、恋人でもあった上司・矢島の勧誘を再三断って自己流にこだわる智子に苛立ちを深めていた。自分が“女性スタッフだけの店”として企画し、初めて店長を任された《大黒屋18号店》への厨房入りさえ突っぱね、「《大黒屋》のラーメンは美味しくないの」とまで言い切った智子の態度に、堪りかねて激昂。窮地を救ってくれた恩を忘れたのか。あまりに身勝手すぎる、と絶交を言い渡す。

屋台村で再開した新《春駒亭》の業績はまずまず。たまたま、小田切が店先に居合わせた際に不注意で手に火傷を負った智子は、翌日からの調理を(史郎の好意に甘えて)彼に任せることにした。小田切のつくる《春駒亭ラーメン》の評判はたちまち広まり、ほどなく同業者である《大黒屋》、つまりは矢島の耳にも届く。矢島は、智子が小田切を雇っているのだと勘ぐり憤怒。みどりを店長とする《大黒屋18号店》を強引に屋台村とは至近距離の立地に据えると、採算を度外視して無期限の『100円ラーメン』セールを命じた。そればかりか腹心の部下である営業部長・杉浦(五代高之)を関東から名古屋に呼び寄せ、デマの流布、(屋台村の他のテナント全員を金で釣っての)陰湿ないじめ…等々、あらゆる手を使って智子の妨害にかからせた。こうした卑劣な手口にはみどりですら反発するのだが、憎悪に憑かれた矢島はまったく聞く耳を持とうとしない。智子は、“《春駒亭》一軒さえ追い出せば、これ以上、屋台村の客足を奪わない”…という密約がテナントたちと《大黒屋》の間に取り交わされていたことを知らされる。そんな中、小田切親子は(矢島からの執拗な嫌がらせを封じるために)彼女には何の挨拶もなく《ひまわり荘》から忽然と姿を消してしまった。精神的に打ちのめされ、疲れ果てた智子は《春駒亭》のこれ以上の存続を断念。みどりに「あたしの負けだよ。でもね、それでもみどりはわたしの唯一の友だちだった」と告げ、傷心のうちに名古屋の街を離れるのだった──。

智子が故郷の郡上八幡で癒されない空しさに浸されていると、不意にみどりが彼女を訪ねてくる。矢島が財界の令嬢との電撃婚約を発表したのを機に、彼とは破局。《大黒屋》を辞めてきたのだ、と明かす。久々に心を開いて語り合ううち、二人の友情も修復され、三たび名古屋でラーメン屋を開業しようと意気投合。智子はみどりとともに名古屋に戻り、《ひまわり荘》で一緒に暮らし始める。今度の開業資金は、みどりが全財産を出した。みどりは《春駒亭》のオーナーであるだけでなく、(経営コンサルタントとして)独立開業した楠田“社長”の補佐という、あたらしい定職を得ていた。夜には以前のようにホステス業もこなし、智子の再チャレンジをバックアップした。その3度目の《春駒亭》もまた、《大黒屋18号店》の近くにあった。矢島との再対決は避けられなかったが、智子はあえて音信不通の小田切を探し出し、熱心に説得して料理長の座に据える。開店準備中には突然、智子の父・考輔(宍戸錠)の恋人・春江(伊藤友乃)が郡上八幡から…さらにそのあとを追って父自身が、相次ぎ《ひまわり荘》へ押しかけてくる…といった予期せぬ家庭内アクシデントも重なるが、集まってきた誰もが、新装《春駒亭》への開店準備には率先して協力者となった。

小田切は《春駒亭》の開店にあたり、「ただ美味しいだけじゃない、どこか引っかかる棘のある美味しさ」を持つ醤油ラーメンの新作づくりに着手し、苦労の末に完成まで漕ぎ着ける。ところが、そのレシピが杉浦の謀略にかかって店外に盗み出され、開店を待たずして《大黒屋18号店》にコピーされてしまう。悲嘆にくれる智子だったが、そんな弱気の彼女を小田切とみどりが叱咤激励。メニューを《大黒屋》と競合する醤油味から味噌味に変え、味の調合も小田切でなく智子自身が取り組むことで、起死回生に向け動き出した……。《春駒亭》対《大黒屋》の因縁の対決は、しかし、あっけない形で終焉を迎える。矢島が突如、大手ファミレス・チェーンからの乗っ取り工作に謀られ、代表取締役を解任されてしまったのだ。彼の地位を奪い去る謀略の“仕掛け人”は、最も信頼していたはずの杉浦だった。矢島は落胆しつつも小田切を呼び出し、臆することなく言う。「今度の勝負、《大黒屋》の看板を失った俺の負けだ。約束通り、これで過去のことは水に流す。だけどおまえと俺との本当の勝負は、まだ終わっちゃいない」。

もう一度ゼロから出直し、真っ向勝負でいつの日か《大黒屋》の看板を取り戻してみせる、と豪語する矢島。手痛い挫折を味わってもなお、彼の夢は失われてはいなかった。そんな矢島の不屈の心意気を目にして「日本一のラーメンをつくる」という生来の夢にふたたび火が点いた小田切は、智子からの淡い恋慕を感じつつも(支援者の住む札幌へと)さらなる“ラーメン修行”に旅立つ。他方、みどりも(上司・楠田の真剣な誘いで)ニューヨークの料亭出店プロジェクトに参画すべくアメリカに渡ることを決意。空港での別れ際、智子から“はじめてラーメンで稼いだ記念の50円玉”をお守りに、といって手渡されるのだった。みどり、小田切、そして矢島──それぞれが人生の岐路に新しい夢を見つけ、別々の道を歩みはじめてゆく。気がつけば智子はまた“ひとりきり”になっていた──しかし、もうメソメソ悔やんでいるような昔の智子ではない。なぜなら彼女の夢も、まだ始まったばかり。自分のつくったラーメンを美味しいといって食べてくれる人がいる限り、一度心に描いた夢を捨てるワケにはいかないのだ。彼女の揺るがぬ想いを祝福するかのように、きょうも大勢のお客さんが《春駒亭》に押しかけていた……。

名古屋が最高!とは

2011-04-22 10:38:54 | 日記
中部日本放送で1997年4月5日~1998年6月27日まで中京広域圏を対象に放送されていたローカルバラエティ番組である。

概要
放送は、毎週土曜日の13:00~13:30。『進め!クリフハンガー冒険隊』の後番組として放送開始。前番組はJR東海がスポンサーだったが、当番組はノンスポンサーである。『正解るんです』から続く「Wコウジ」(今田・東野)のCBCテレビ出演番組の一つである。第3期のゲームコーナーの一部は後番組『太郎と花子』(フジテレビの同名番組とは別の番組)にも登場している。

内容
第1期(1997年4月~夏頃)
東海3県の町を毎回1つ取り上げ、その町の人が出演し、その街の写真を使った神経衰弱ゲームに挑戦する。
この番組に出演した視聴者が、2006年に今田・東野が出演している同局の『ノブナガ』内のコーナー「ごはんリレー」に出演している。放送の際にはその時の映像が流され、東野については容姿がほとんど変わっていなかった。

第2期(1997年夏頃~12月)
東海3県の町を毎回1つ取り上げる点と、その町の人が出演する点は同じ。その町に関するクイズが出題される。解答者は3組の芸能人。トップ賞はその町の特産品等。

第3期(1998年1月~6月)
出演者および観客が今田チームと東野チームに分かれて対決する。毎回3つのゲームが行われ、最初と2つ目のゲームは1ポイント、最後のゲームは2ポイント。同点の場合は同点決勝が行われる。最後のゲームは必ずアンケート対決である。出演者は自チームの観客25人にトータライザを使ったアンケートを行う。これを両チーム交互に行い、ボタンを押した人数を段々減らしていくというゲーム。前の回答の人数をオーバーしたほうが負け(同数はセーフ)となる。したがって1人に該当するようなアンケートを両チーム繰り返す接戦が幾度か登場した。放射線状に並べられた蛍光灯型のランプの外側に数字(人数)が書かれていて、回答人数より高い人数に当たる部分は消えていく。元々は50人のアンケートで少数意見になるようなアンケートA⇔多数意見になるようなアンケートBを繰り返し、A~B人の幅が制限されていく中で何回質問が続くかというものだった。少数側と多数側の部分を1チームずつの領域に改めることによって機械自体は使い回しができた。
勝ったチームは60秒25人しりとりに挑戦しクリアすれば1人1万円ずつ獲得となる。
ルールは一つ目の文字を直前に言われたあと、制限時間内にしりとりをしていくというもの。同じものは言えない(いい直し)し、最後に「ん」のつくものを言ってしまった場合即終了。失敗した場合、マイクの台(教壇のような台)から炭酸ガスが噴き出す。これも、元々は100秒しりとりだった(50人で行う)。持ち時間が一人当たり2秒と短いため難易度が高かった。

名古屋飛ばしって何?

2011-04-21 19:41:18 | 日記
名古屋飛ばしとは、日本国内の他の大都市圏で行われているイベントの開催や鉄道の停車が愛知県名古屋市で行われないことを示す俗語である。

鉄道「のぞみ301号」をめぐる騒動「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年3月14日に東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅を通過するダイヤが組まれたことである。この列車は京都駅も通過するとされたが、東海道新幹線の建設計画時点で同駅自体を経由しない案に対する一悶着(「鉄道と政治」の項を参照)に比べれば大した問題ではなく、観光客には使いにくい時間帯でもあったためか、京都市と京都府の側からは抗議の動きはほとんど見られなかった。「のぞみ301号」は東京・横浜周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事の後、地盤を固めるために早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていた。そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が不可能となるため、苦肉の策として名古屋駅と京都駅を通過させることで対応しようとしたのである。

JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する客には前後の列車を使用してもらうことで極力不便を与えないような配慮を講じることにしていた。翌1993年3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。1991年11月2日にこの方針が(前記のような事情を公表せず、通過するという話だけが知らされる形で)明らかになると、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界は猛烈な反発を示し、中日新聞など名古屋のメディアも「名古屋飛ばし」として批判し、同紙の「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでもヒステリックな反応が目立った(その当時の新横浜地区は、再開発がほとんど進んでいない「街はずれの田舎」という印象もあり、「三大都市の中枢である名古屋を新横浜ごときの田舎より冷遇するとは何事だ」という感情論も大きく影響した)。これが契機となり、それまではイベント業界などで使われていたと思われる「名古屋飛ばし」という語が一般化したものと考えられている。この時期には名古屋市出身の海部俊樹首相が退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向を報告しており、鈴木礼治愛知県知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過に至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」へのネガティブキャンペーン、政治家インタビューでも話題となった。

1992年3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は地元メディアによって大きく報じられた。なお名古屋・京都両駅はいずれも全列車停車を前提とした駅構造や配線となっているため70km/hの速度制限が行われ、新幹線列車としては非常に低速での通過となっていた。その後1997年に保線作業を行いながら地盤を固める機械が開発され、作業直後の速度制限が廃止されたため、新横浜・名古屋・京都の各駅に停車しながら東京-新大阪間を2時間半で結ぶことが可能となり、同年11月29日に「のぞみ301号」は後続の「のぞみ1号」に統合される形で廃止された。以後、名古屋駅と京都駅を通過する新幹線列車は存在していない。

「のぞみ301号」の経緯1991年
11月2日 - JR東海が新幹線における新設の速達列車(仮称:スーパーひかり)の東京発一番列車を名古屋駅と京都駅を通過する方針とすることが明らかになり、中日新聞夕刊が「名古屋飛ばし」と1面トップで採り上げた。
11月3日:中日新聞朝刊が「ナゴヤは怒ってます」の見出しで中部経済連合会会長・名古屋商工会議所会頭・名古屋市長、その他各界の反応を伝えた。
11月4日:愛知県知事と名古屋市長が定例会見でこの件について触れ、愛知県知事は「地域間競争の教訓としなければならない」と述べた。
11月5日:名古屋市近隣市町村長懇談会で「名古屋飛ばし」と地域振興について話し合われた。
11月9日:JR東海労働組合が会社側へ「名古屋飛ばし」反対を申し入れた。
11月12日:東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)選出の超党派国会議員で結成された「スーパーひかりと東海地域を考える会」が会合を持った。出席者は国会議員24人と代理出席9人。当時のJR東海社長須田寛も参加した。
11月14日:須田JR東海社長が名古屋市役所を訪問して名古屋市議会議長に経過を説明した。議会運営委員会理事会にも出席して理解を求めた。
11月20日:愛知県知事・県議会議長、名古屋市長・同市議会議長の4人がJR東海へ要望書を送った。8日後の28日にJR東海は「名古屋飛ばしは1本のみ」と回答した。
12月6日:「スーパーひかり」と仮称された名称が「のぞみ」に決定した。
12月25日:CBCテレビのバラエティー番組『ミックスパイください』で、今年の流行語として「名古屋飛ばし」を現代用語の基礎知識編集長が解説。
1992年

3月14日:「のぞみ」301号運転開始。NHKテレビの『モーニングワイド』が朝7時40分の名古屋駅通過を生中継した。同時間帯の『ズームイン!!朝!』(日本テレビ系)でも、系列の中京テレビアナウンサーの佐藤啓が「まさか私の目の前で乗客がいる列車の名古屋駅通過の瞬間を見るのは初めてであり、これは長年名古屋に住んでいる私達への冒涜(ぼうとく)でありましょうか?」とレポートした。また同日朝8時30分から放送の『海江田万里のパワフルサタデー』(テレビ朝日系。ABCテレビ制作)も放送開始直後に新大阪駅に到着した「のぞみ301号」を生中継した。
1997年

11月29日:「のぞみ301号」を続行の「のぞみ1号」に統合する形で廃止。新幹線の「名古屋飛ばし」はこの日で消滅した。

娯楽
一般的にはコンサート(特に海外アーティスト)などの各種イベントツアーなどで、首都圏と京阪神の途中にある名古屋で行われない例を指すことが多い。追っかけが相当数いる日本人アーティストの場合、アーティストのツアーと一緒にファンも全国を「ツアー」するため、国内の小都市のみならず、場合によってはハワイやニューヨークで開催しても日本人ファンで会場を埋めることが可能であり、プロモーターは低いリスクで利益を獲得できる。新劇以降の芝居は明治維新から高度経済成長期までのいわゆる「六大都市」に根強いファンがいるため、名古屋公演はリスクが低い。これらの場合は名古屋を外す理由はあまりない。しかし、能や歌舞伎といった伝統芸能に関しては、江戸時代にそれらの芸能が盛んだった大都市の上方(京都・大阪)と江戸(東京)には根強いファンがいるのに対し、江戸時代の名古屋は現在の金沢に次ぐ5番目の都市だったこともあってファン層が薄く、頻繁な公演開催にはリスクが高いため「名古屋飛ばし」が起きる。国外のアーティストが世界ツアーの途中で日本に来る場合、日本での開催が日程上3回(3日)に限定されると、

東京2回・大阪1回
距離的な均衡から、約550km間隔で東京1回・大阪1回・福岡1回
とする場合があるため、名古屋が飛ばされる例がある。また、巨費を投じた大きな舞台装置を用い数万~十万人単位の集客を見込む大規模コンサートの場合も、距離的な観点から首都圏・京阪神・福岡都市圏(+札幌+仙台+新潟+広島)での開催が低リスクと見られて「名古屋飛ばし」が(場合により「横浜飛ばし」も併せて)起きる例がある。一般的には東京での公演が最も質が高く盛り上がる例が多い。このため「名古屋飛ばし」が起きる場合、

高品質を求めて東京へ向かう傾向
交通費の理由で距離的に近い京阪神へ向かう傾向の2通りがある。すなわち名古屋は地理的に大阪の方が近い(直線距離で約140km)が、人の移動の面からは「名古屋は東京と大阪の中間に位置する」と考えられている。このように、プロモーターやアーティストは損益分岐点を上回る集客が来るように公演場所や開催方法を考えるため、「三大都市圏の一つだから」といって名古屋で必ずしも公演が開かれるとは限らない。なお、首都圏や関西圏で放送されるテレビ番組のネットから、名古屋の放送局(在名テレビジョン放送局。以下在名局)が外れるケースも「名古屋飛ばし」といわれることがあるが、これは在名局もしくは該当する番組の制作会社(特に番組販売もしくは放映枠買取形式での番組の場合)の意向によるものが多く、中京圏以外の地域でも多々見られる現象(特に関西圏や福岡県etc)であり、この項でいう一般的な意味合いとは根本的に異なる。近年では、主に深夜・UHFアニメに関して、5大キー局系列のある岡山・香川両県の民放での放送が外れて近隣の中四国地方の放送局でネットされるケースにおいて地元では「名古屋飛ばし」を模倣し「岡高飛ばし」と一部の地元アニメファンから揶揄されている。

名古屋はええよ!やっとかめは

2011-04-20 20:46:06 | 日記
つボイノリオが歌唱する楽曲である。プロデュースおよび作詞・作曲・編曲は山本正之。

概要
1985年6月21日、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)からシングルでリリース。B面はエビふりゃーでゃースキ。レコード番号はTP-17729。つボイ自身のシングル曲としては1978年11月に発売された『一宮の夜』以来、6年半ぶりとなった。1996年にリリースされたアルバム『あっ超~!×つボイノリオ』(TOCT9490)の11曲目にも収録されている。この曲は、つボイが山本に依頼してコンポーズされたものである。当初、タイトルは大名古屋行進曲とする予定だったが、つボイが「タイトルに名古屋弁を入れたい」と要望したことから、名古屋弁で“久し振り”を意味するやっとかめ(八十日目)を加え、このタイトルとなった。1番・2番の歌い出しでそれぞれ東京と大阪を「まああかん(もうだめだ)」と挑発し、これからのパフォーマー、イニシアチブ、そして未来の首都は名古屋だと宣言し、名古屋にまつわる様々な事物・現象を織り込んだ歌詞が特徴。ただし何故か岡崎市の郷土菓子である淡雪や、名古屋の市花ではなく愛知県の県花のカキツバタも入れられている。発表後15年ほどは歌詞の内容とつボイ・山本の知名度とは裏腹に愛知県民の間でも認知度が低く、ご当地ソングとしては定着しなかったのだが、近年のインターネットの普及と発展と共に、かつて有志により製作されたFLASHアニメが動画投稿サイトなどで気軽に見られるようになったことで、ネット上での知名度が高まり注目されるようになった。山本本人のセルフカバーバージョンもある。タイトルは名古屋はええよやっとかめ。タイトルに!が付かないほか、キー、一部歌詞が異なる。この曲のイントロは、山本が作詞・作曲したことで有名な中日ドラゴンズの応援歌燃えよドラゴンズ!のサビに酷似する。ただし、意図的かどうかは不明である。2010年にキングレコードより発売された『名古屋の歌だがね‐名古屋開府400年記念CD‐』(B002TK1VOS)の11曲目に収録された。

備考
名古屋出身の作家清水義範は、この曲を著書やっとかめ大名古屋語辞典のなかで「名古屋国の国歌である」と評している。
この曲は中日ドラゴンズに所属していた山崎武司選手(現-楽天)の1996年までの応援歌の原曲であった。
高尾のパチンコ機CRくるくるポン萌2では、特定回数連荘すると大当たり中にこの曲が流れた。

メディアへの登場
山下達郎が本人司会のラジオ番組サンデーソングブック(TFM・JFN系)の珍盤・奇盤特集で流したことがある。
2003年にはブラックワイドショーで、2005年には中井正広のブラックバラエティでも紹介された。

海の日名古屋みなと祭
海の日名古屋みなと祭は、愛知県名古屋市港区の名古屋港・名古屋港ガーデンふ頭一帯で行われる夏祭りである。毎年7月第3月曜日の海の日に開催される。ただし、2007年に限っては海の日ではなく第3土曜日に、「名古屋港開港100周年記念」として開催された。

概要
1946年(昭和21年)に、戦後の復興祭・名古屋港の発展を祈念して始まったもので、フィナーレを飾る花火大会も1948年(昭和23年)からの歴史を誇っている。2009年で、開催63回目を迎えた。 最近では、毎年30万人を超える人々が来場し、付近では携帯電話の回線がパンクするほどである。

花火大会
メインイベントは花火大会(メモリアル花火など)である。その他にも地元町内会や子供会(西築地学区)による屋形舟の形をした大きな山車や神輿など、太鼓や総踊りも夏の祭りを彩っている。大阪・岸和田祭りをイメージしたと言われる、山車の屋根の部分に若頭が上り太鼓を叩く高六町内会や、太鼓と鐘を鳴らしながら派手に盛り上げる二号地西部町内会など、みなと祭のもうひとつの目玉として毎年活動している。 見物客は花火を目的として来場するが、もっぱら地元住民はこちらの山車や神輿、総踊りを楽しみにしている。

名古屋インターチェンジ
名古屋インターチェンジは、愛知県名古屋市名東区の東名高速道路及び名古屋第二環状自動車道支線にあるインターチェンジである。

概要
東名高速道路(東名)の出入口であり、東名と名古屋第二環状自動車道(名二環)支線を接続するジャンクションの役割も担う。名二環名古屋ICは乗継専用であり、一般道路には接続しない。一般道路と名二環との接続は、本郷IC、上社IC(名古屋西JCT方面のみ利用可)又は上社南IC(名古屋南JCT方面のみ利用可)のいずれかを利用する。名二環の0キロポスト(KP)がある。なお、東名と名二環では料金制及び支払い方式が異なるため(東名 : 対距離制・入口発券方式、名二環 : 区間制・単純支払方式)、乗り継ぎの場合も料金所を通らねばならない。東名から名二環への乗継では、乗継用の料金所で名古屋ICまでの料金と名二環の料金を合わせて支払い、名二環から東名への乗継では通行券を受け取る(名古屋IC入口料金所と共用)。

道路
東名高速道路(21番)
名古屋第二環状自動車道支線(21番)

接続する道路
愛知県道60号名古屋長久手線

歴史
1968年4月25日 : 東名高速道路 岡崎IC-小牧IC間開通に伴い、供用開始。
1993年12月3日 : 東名阪自動車道(現・名古屋第二環状自動車道) 名古屋IC-勝川IC間開通に伴い、東名高速道路と東名阪自動車道が接続。

名古屋ウェルネススポーツカレッジは

2011-04-19 08:56:28 | 日記
愛知県名古屋市中区にある私立専門学校。運営母体は、学校法人タイケン学園。学生は医療・福祉・スポーツを学ぶ。学科は、硬式野球部、サッカー部、女子ハンドボール部、女子バレーボール部、陸上部などの競技スポーツ科、トレーナーなどを養成するスポーツトレーナー科、医療事務員を養成する医療秘書科、介護フリートレーナーなどを養成する介護福祉科の他、看護学校の予備校や高等学校のサテライト教室がある。元々同校(名古屋ウェルネススポーツカレッジ)は「名古屋お茶の水医療秘書福祉専門学院」として医療事務、社会福祉士の養成スクール事業を行っていたが、2005年にスポーツアスリート系の人材養成を目的とする「名古屋ウェルネススポーツカレッジ」に改称し当時と学科も今とは違っている。

名古屋オリンピック構想
名古屋オリンピック構想は、1988年夏季オリンピックの開催を愛知県名古屋市で目指していた構想。1981年の国際オリンピック委員会 (IOC) 総会での決選投票により、52-27で韓国のソウルに決定し(ソウルオリンピック)、開催は実現しなかった。名古屋市千種区の平和公園にメインスタジアムを建設し、愛知県、岐阜県、三重県の東海3県の広域開催が計画されていた。

招致運動の経緯
1977年8月 - 仲谷義明愛知県知事が名古屋へのオリンピック招致を提案
1979年2月 - 仲谷県知事が再選
1979年10月 - 日本オリンピック委員会 (JOC) 総会で名古屋へのオリンピック招致を決定
1979年11月 - IOC総会を名古屋で開催
1980年11月21日 - 鈴木善幸内閣により閣議了承
1980年11月26日 - IOC本部に正式の誘致申請書を提出
1981年5月12日 - 衆議院において招致決議案を全会一致で採択
この間、財政負担の増加や環境破壊への反対を唱える、市民レベルでのオリンピック招致反対運動が断続的に続く
1981年9月30日 - IOC総会(西ドイツのバーデンバーデン)で開催地の決選投票、27対52でソウルに決定
1983年2月 - 愛知県知事選に仲谷知事が不出馬
1988年9月17日 - ソウルオリンピックが開幕
1988年11月18日 - 仲谷前知事が自殺

招致失敗の原因
日本で3度目、夏季大会限定でも2度目の開催であり、過去の東京オリンピックや札幌オリンピックと比較すると政府の動きが鈍かった事が指摘され、当地の行政だけが盛り上がっていたことが大きな敗因とされてきた。しかし、何より国民の間であまり関心が持たれなかったことが最大のマイナスポイントであったと位置づけられる。また、アジアでのオリンピック開催を日本が独占することへの懸念があったことも指摘される。招致活動が行われた1977年から1981年の冷戦下で日本オリンピック委員会の分析では北朝鮮と親交が深いソ連や東欧諸国はソウル開催となった場合不参加となるであろうと予想し、楽観ムードが漂っていた。それに対して韓国はIOC委員への接待を激しく行い逆転に結びつけた。この名古屋オリンピック招致活動の失敗が、1998年長野オリンピック招致において長野県庁などが行った買収工作の要因になったと言う向きもあるがその確証や、そもそも買収工作の有無の確証もない。

その後の影響
テレビ各局は開催地決定に合わせて特別番組を放送していた。招致運動では事前の優勢が伝えられていただけに、決選投票における予想外の敗北で日本の衝撃は大きかった。各所で招致成功を祈るイベントの準備が進められ、「名古屋オリンピック音頭」(歌:川崎英世・小林真由美)、「名古屋オリンピックの歌」(歌:チェリッシュ)も作られていた。名古屋市交通局は優勢である事を理由に投票前にオリンピック記念乗車券を製作していたが、販売は中止され、その後この記念乗車券は希望者に資料として配布された(種村直樹著書「新・地下鉄ものがたり」より)。愛知県はソウル五輪閉幕後の1988年10月に21世紀初頭の大規模な国際博覧会(万博)開催構想を提起し、日本は1997年6月のBIE総会で万博開催権を獲得し、愛・地球博(愛知万博)開催へ進んだ。1988年11月18日、仲谷義明愛知県前知事が名古屋市中区にある自身の事務所内で、首吊り自殺しているのが発見された、一部からは「ソウルオリンピックを見届け、名古屋オリンピック誘致失敗の責任をとっての自殺」との推測もあったが、自殺の原因は未だに謎である。なお、日本と朝鮮の架空の歴史を舞台に日本が体制悪として描かれた韓国映画「ロスト・メモリーズ」では、名古屋オリンピックが実現している。

名古屋カラオケフェスティバルとは

2011-04-18 23:50:17 | 日記
MID-FMが主催するカラオケ大会である。

概要
主催者であるMID-FMは、名古屋市に存在するコミュニティ放送局であり、後援企業は流行発信・名古屋リビング新聞社といったMID-FMの関連会社である。協力企業は東海第一興商である。優勝すると賞金があり、5万円が贈呈される。

名古屋カラオケフェスティバルと名古屋カラオケフェスタの違い
名古屋カラオケフェスティバルは、会場が名古屋市内のホールで、名古屋カラオケフェスタの場合は、名古屋市の周辺市町村のホールが会場となる。いずれも、MID-FMの公開収録も兼ね、後日特別番組として放送される。2009年以降、名古屋カラオケフェスティバルは1年に1回、名古屋カラオケフェスタは開催されていない。

参加資格
基本的には、参加資格はない(要参加費用)が、プロ・カラオケ講師は参加できない。

開催
名古屋カラオケフェスティバル
2009年「名古屋カラオケフェスティバル 2009」(会場 名古屋市立中村文化小劇場)
「第2回名古屋カラオケフェスティバル」(会場 東建ホール 丸の内)
2010年「名古屋カラオケフェスティバル 2010」(会場 名古屋市立中村文化小劇場)
2011年「名古屋カラオケフェスティバル 2011」(会場 名古屋市立中村文化小劇場)4月9日(土)開催予定
名古屋カラオケフェスタ
2009年
「第1回名古屋カラオケフェスタ」(会場 春日井市民会館)
「第2回名古屋カラオケフェスタ」(会場 北名古屋市民会館)

その他
予選では最長3分、10人が勝ちぬけられる決勝では最長4分間歌うことができる。
2010年から、WEBでの申し込みも可能になった(それまでは、ハガキのみ)
会場での観覧も出来る。入場料は無料
大会があってから、約1か月後に日曜日に放送されることが多い。(MIDサンデードライビングPOP'S内で放送)
協力企業でもある、第一興商の通信カラオケ「DAM」を使用する。
2011年からUSTREAMでのリアルタイム動画配信も行われる予定。