名古屋グランパスエイトは、日本の愛知県名古屋市にホームを置く、日本プロサッカーリーグに加盟するプロサッカークラブ。2008年から「名古屋グランパス」を呼称とする。
クラブ概要
トップチームの母体となったのは、日本サッカーリーグに参加していたトヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)のコーチ・選手だった。1991年にJリーグ加盟したのに伴い、プロとして活動する選手を名古屋市を拠点として新設したグランパスエイトに、またグランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士FC(当時、東海社会人リーグ所属。1993年にジャパンフットボールリーグ2部に参加したが翌年に廃部)にそれぞれ移籍させた。チーム名は「グランパス(Grampus)」が英語の鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は数字の八(名古屋市の記章)の英語訳を合わせたもの。公式にはこのチーム名は当時名古屋市長だった西尾武喜の命名としているが、「エイト」の部分はオーナーであった豊田章一郎が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという。なお2008年シーズンより呼称に関してはチーム名から「エイト」が外され「名古屋グランパス」に変更された(日本協会登録チーム名と法人名、エンブレム、ロゴは「名古屋グランパスエイト」のまま)。これは、ファン、サポーターおよびマスコミに親しまれている呼称を採用することで、更に愛されるクラブづくりを目指してゆきたいとの理由からである。しかし、後にこの改称は親会社でメインスポンサーのトヨタ自動車からの指示でもあったことが明かされ、「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと1度だけ指示した」という。サポーターの間ではロッソジャロ(イタリア語でロッソ=赤、ジャロ=黄)とも呼ばれることがある。ホームタウンは愛知県名古屋市。ホームスタジアムは名古屋市瑞穂公園陸上競技場であり、豊田スタジアムを準ホームスタジアムとしている。当初は豊田スタジアムは年4-5試合程度の開催だったが、ここ数年はリーグ戦のほぼ半数が開催されている。練習場は豊田市のトヨタスポーツセンター。スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までに投じられた資金は200億を超えるとのこと。なお、トヨタ自動車(およびグループ)はクラブ経営に関して「支援(資金)は出すが口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)。運営は株式会社名古屋グランパスエイト(名古屋市中区)。
ホームスタジアム
1992年-1994年前期 瑞穂球技場。Jリーグ創設当初から瑞穂陸上競技場をホームスタジアムにする予定であったが、1994年のわかしゃち国体秋季大会開催に伴う改修工事のため隣接する瑞穂球技場を使用
1994年後期以後、瑞穂陸上競技場
2001年以前は岐阜メモリアルセンター長良川競技場も準ホームとして主催試合を開催。
2002年以降は長良川に代わって、この年に完成した豊田スタジアムで開催。
歴史
Jリーグ加盟までリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した。それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった。地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。Jリーグ開幕前年の1992年には、チームの目玉として1986年メキシコワールドカップ得点王のゲーリー・リネカーと契約した。なお、当初はディエゴ・マラドーナの獲得を目指して交渉しており契約目前だったそうだが、マラドーナの麻薬所持疑惑により白紙撤回され、スキャンダルのないクリーンなイメージのリネカーに白羽の矢が立ったという経緯がある。Jリーグのプレマッチとして行われたナビスコカップでは、司令塔ジョルジーニョのもとルーキーの小倉隆史、森山泰行、中西哲生らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、チームも3位の成績をおさめた。
1993年 - 1994年
Jリーグ開幕戦のスタメンリネカー沢入ピッタジョルジーニョ浅野米倉小川藤川高本江川伊藤
1993年
開幕前から監督を務めていた平木隆三の下で開幕に臨んだ。戦力としては即戦力として期待された平野孝らが入団し、小倉はオランダ留学のため1年間チームを離れた。開幕直前の5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では浅野哲也とリネカーのゴールによって2-1と、日本のクラブチームとしては初めてセリエAのチームに勝利した。しかし、リネカーは怪我のため試合出場は少なく、戦術もジョルジーニョ頼みのチームであった。2ndステージ開幕前にブラジル人のエリベウトンを獲得するも、リーグ戦では年間総合9位(12勝24敗)と下位に低迷した。
1994年
英国人(イングランド)のゴードン・ミルンを監督に迎えてシーズンに臨んだが、個人頼みの戦術は変わらず、サントリーシリーズは8位(9勝13敗)。ニコスシリーズへ向けての戦力補強として、7月にユーゴスラビア代表主将ドラガン・ストイコビッチとビニッチを獲得。Jリーグ有数の攻撃陣を擁してニコスシリーズに臨んだが、リネカーの怪我やストイコビッチの不調などにより最下位(6勝16敗)に低迷。11月には選手の信頼を失ったミルンが監督を更迭された。なお、この年を最後にリネカーは現役を引退した。年間総合でも11位(15勝29敗)と低迷。Jリーグ新加入のジュビロ磐田とベルマーレ平塚の両チームより下位で、昨年と同じ顔ぶれとなった名古屋を含む下位の4チーム(他の3チームは浦和レッドダイヤモンズとジェフユナイテッド市原、ガンバ大阪)には「Jリーグのお荷物」と呼ばれた。
クラブ概要
トップチームの母体となったのは、日本サッカーリーグに参加していたトヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)のコーチ・選手だった。1991年にJリーグ加盟したのに伴い、プロとして活動する選手を名古屋市を拠点として新設したグランパスエイトに、またグランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士FC(当時、東海社会人リーグ所属。1993年にジャパンフットボールリーグ2部に参加したが翌年に廃部)にそれぞれ移籍させた。チーム名は「グランパス(Grampus)」が英語の鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は数字の八(名古屋市の記章)の英語訳を合わせたもの。公式にはこのチーム名は当時名古屋市長だった西尾武喜の命名としているが、「エイト」の部分はオーナーであった豊田章一郎が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという。なお2008年シーズンより呼称に関してはチーム名から「エイト」が外され「名古屋グランパス」に変更された(日本協会登録チーム名と法人名、エンブレム、ロゴは「名古屋グランパスエイト」のまま)。これは、ファン、サポーターおよびマスコミに親しまれている呼称を採用することで、更に愛されるクラブづくりを目指してゆきたいとの理由からである。しかし、後にこの改称は親会社でメインスポンサーのトヨタ自動車からの指示でもあったことが明かされ、「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと1度だけ指示した」という。サポーターの間ではロッソジャロ(イタリア語でロッソ=赤、ジャロ=黄)とも呼ばれることがある。ホームタウンは愛知県名古屋市。ホームスタジアムは名古屋市瑞穂公園陸上競技場であり、豊田スタジアムを準ホームスタジアムとしている。当初は豊田スタジアムは年4-5試合程度の開催だったが、ここ数年はリーグ戦のほぼ半数が開催されている。練習場は豊田市のトヨタスポーツセンター。スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までに投じられた資金は200億を超えるとのこと。なお、トヨタ自動車(およびグループ)はクラブ経営に関して「支援(資金)は出すが口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)。運営は株式会社名古屋グランパスエイト(名古屋市中区)。
ホームスタジアム
1992年-1994年前期 瑞穂球技場。Jリーグ創設当初から瑞穂陸上競技場をホームスタジアムにする予定であったが、1994年のわかしゃち国体秋季大会開催に伴う改修工事のため隣接する瑞穂球技場を使用
1994年後期以後、瑞穂陸上競技場
2001年以前は岐阜メモリアルセンター長良川競技場も準ホームとして主催試合を開催。
2002年以降は長良川に代わって、この年に完成した豊田スタジアムで開催。
歴史
Jリーグ加盟までリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した。それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった。地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。Jリーグ開幕前年の1992年には、チームの目玉として1986年メキシコワールドカップ得点王のゲーリー・リネカーと契約した。なお、当初はディエゴ・マラドーナの獲得を目指して交渉しており契約目前だったそうだが、マラドーナの麻薬所持疑惑により白紙撤回され、スキャンダルのないクリーンなイメージのリネカーに白羽の矢が立ったという経緯がある。Jリーグのプレマッチとして行われたナビスコカップでは、司令塔ジョルジーニョのもとルーキーの小倉隆史、森山泰行、中西哲生らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、チームも3位の成績をおさめた。
1993年 - 1994年
Jリーグ開幕戦のスタメンリネカー沢入ピッタジョルジーニョ浅野米倉小川藤川高本江川伊藤
1993年
開幕前から監督を務めていた平木隆三の下で開幕に臨んだ。戦力としては即戦力として期待された平野孝らが入団し、小倉はオランダ留学のため1年間チームを離れた。開幕直前の5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では浅野哲也とリネカーのゴールによって2-1と、日本のクラブチームとしては初めてセリエAのチームに勝利した。しかし、リネカーは怪我のため試合出場は少なく、戦術もジョルジーニョ頼みのチームであった。2ndステージ開幕前にブラジル人のエリベウトンを獲得するも、リーグ戦では年間総合9位(12勝24敗)と下位に低迷した。
1994年
英国人(イングランド)のゴードン・ミルンを監督に迎えてシーズンに臨んだが、個人頼みの戦術は変わらず、サントリーシリーズは8位(9勝13敗)。ニコスシリーズへ向けての戦力補強として、7月にユーゴスラビア代表主将ドラガン・ストイコビッチとビニッチを獲得。Jリーグ有数の攻撃陣を擁してニコスシリーズに臨んだが、リネカーの怪我やストイコビッチの不調などにより最下位(6勝16敗)に低迷。11月には選手の信頼を失ったミルンが監督を更迭された。なお、この年を最後にリネカーは現役を引退した。年間総合でも11位(15勝29敗)と低迷。Jリーグ新加入のジュビロ磐田とベルマーレ平塚の両チームより下位で、昨年と同じ顔ぶれとなった名古屋を含む下位の4チーム(他の3チームは浦和レッドダイヤモンズとジェフユナイテッド市原、ガンバ大阪)には「Jリーグのお荷物」と呼ばれた。