ついさっき、維新を取り上げましたが。CLP問題ついて書こうと思ったので。
インターネットのメディアChoose Life Project(CLP)が立憲民主党から資金提供を受けていたとして、問題になっている。
僕はそんなに観ていなかったのだけれど、ちゃんとブックマークしている。新聞も地上波も偏向が酷いメディアもある中で、まともなメディアであるとの印象であった。なぜなら意見を述べる場面もあるが、嘘や捏造をしないメディアであるからだ。
ところが1政党から資金提供がなされていることが知れ渡ったことで、このまともなメディアが成長する機会を失うのではないかと危惧している。まともというのは、嘘や捏造がないという意味だ。
僕は問題があると萎縮する必要はないと思う。あえて問題があるとすれば、出演者に1政党から資金提供受けていることを知らせなかったこと、独立採算の市民メディアであるとしていたことである。
問題として指摘されるのは、Dappiのようにみられていることだが、彼らが自民党から資金を提供され、自民に都合のいいように嘘や捏造をしていたこととは訳が違う。
ステルスマーケティングだという指摘もあるが、政党のPRをメディアでは当然しているし、立憲民主党の批判も辞さなければいいだけだ。一応番組内容に口を出しているわけではないことはわかっている。どこかの政党は口は出すし、文句は言うし、圧力かけるし、全然違う。そもそも官房機密費配っていることと、比較することがナンセンスだ。
中立公正なメディアを目指すと言うことなのだろうが、テレビやネットでも中立メディアがあるかといえば、存在しない。そもそも中立なメディアが虚構であろうし、保守vs革新、右翼vs左翼という対立軸に沿った報道姿勢になるのは世界の趨勢だ。
公正なメディアとはなんだろう。公正とは政治的な事実に関してならば、政府の側あるいは国家の側に立つことではなく、国民や市民の側に立つことであろう。だからCLPは市民のためのメディアである。
これは近代において、国家(政府)が権力で、それに対峙するのが国民という図式を前提とするからである。だからこそ、近代国家では、公正とは、国民の立場に立つことである。どうも公正というのが、単に偏っていなこと程度になっているが、それでは国家(政府)が偏っていたら、どうするのだろう。そもそも日本の政治やメディアは偏っているという意識からのProjectではないのか。
さて、僕は当事者であるCLPが潔癖すぎるのではないかと疑っている。そして、そのような意識は汚い政治に対峙しようとしたところから過剰な反応なのではないかと疑っている。清廉潔白であること、言い換えれば、子供のような対応で、大人になって資金の必要性を自覚するだけではなく(自覚していると思う)、広く理解してもらえるように訴えるべきである。立憲からの資金提供もその程度であると割り切ればいい。
清廉潔白であることに固執すれば、その清廉潔白さを正義として、内部対立が取り返しのつかないものにさえなるだろう。
清廉潔白なメディアではなく、大人のメディアを目指したほうがいいと思う。最後に田沼政治の川柳を。清濁併せ持つ、しかしながら、法の精神は守るべき。