Drマサ非公認ブログ

経済で死ぬって?

 昨日(1月19日)テレビを付けていたら、芸人の千原jrさんが発した言葉からのコメンテーターの発言の流れに?を感じたので、それについて。

 千原さんの発言はこんな感じ。「コロナで死ぬと言いますけど、経済で死ぬことと・・・・」

 「コロナで死ぬ」と「経済で死ぬ」を比較すれば、いまのオミクロン は死者も少ないので、経済を回したほうがいいのではないかとの含みのある発言である。慎重に発言していたことと、問題提起という点で良い質問だとは思う。

 ただ、素人の質問であるので良い質問という意味である。だから問題提起。その後専門家やコメンテーターから曖昧な応えがあっただけであった。

 もちろん「経済で死ぬ」とは、コロナで経済活動が止められて、不況や失業のために死ぬ人が出るということを指している。ちなみにカナダの娘に聞いたところ、カナダではコロナで経済活動が止められて、死者が出るなどとの心配は全くない。

 少し考えてみよう。論理学や集合論の基礎だと思うが、「コロナで死ぬ」というとき、命題X「コロナという病気で死ぬ」ことと命題Y「コロナで経済活動が止まるために人が死ぬ」という2つの命題は明らかに違う。XとYは異なるカテゴリーである。あるいは異なる集合である。

 Xについて、コロナとインフルエンザでの死者数を比較するなら、病気の属性としてコロナもインフルエンザも位置付けられる。だから比較することもできる。

 Yはもう少し複雑なプロセスである。【コロナ→経済活動への影響→死者数】となるから、XとYは異なる論理階梯を持っている。実はより複雑なのである。【コロナ→経済活動への影響】は社会的文化的要因が当然関係してくるが、その部分を考慮したとしても、経済活動への影響があるのは常識的理解である。

 ところが【経済活動への影響→死者数】という影響関係は、より社会的文化的要因の関係性が強いので、社会文化によって、異なる結果が生じる。そこが端的に現れているのが、カナダでは【経済活動への影響→死者数】という流れを気にしていないという点と比較することで明らかになる。カナダでも経済活動は縮小したが、政府からの潤沢な給付金があるので、生活ができなくなることはないから、「経済で死ぬ」ことはないのである。それ以外の共同体の性格などを考慮することもできる。欧米でも「経済で死ぬ」という短絡的な見解を聞いたことはないが、調べてはいない。

 実は次のような社会の傾向が見えてくる。日本は「経済で死ぬ」社会になっている。経済活動、つまりは仕事がそのまま生きることの大半を占める社会であり、その他の社会関係資本が脆弱であることである。そのため「経済で死ぬ」にリアリティを感じる社会になってしまっている。

 経済活動が減少しても、政治が共同体がそれを補える底力を失っている、そう考えることができる。そして、そのような社会で生活し、そのようなリアリティを埋め込まれ、その埋め込まれたものの見方をまた社会に送り返す。そのような自己言及性が「経済で死ぬ」とのリアリティをより強化する。そんな社会が日本である。

 「コロナで死ぬ」と「経済で死ぬ」をトレードオフできると考えるのに「待った」をかけるコメンテーターがいないのが、テレビの現状であり、大衆的な理解を再生産させる文化産業としてのメディアの限界である。

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