Drマサ非公認ブログ

寿司屋は生き方であった

 数年前になるが「たけしのTVタックル」で、芸人でIT企業役員の厚切りジェイソンが「寿司屋の修行に意味がない」と発言し、少しばかり話題になったことがあった。

 日刊スポーツの記事を貼り付けておこう。

 https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1605801.html

 

 テレビではたけしが多少の反論をしていたようだが、厚切りジェイソンは寿司屋で修行する意味を理解していない。そして、彼の理解の限界こそ、近代化のなかで培われた西欧人の合理主義にあるとまで言えば、飛躍しているだろうか。

 彼からすれば、寿司屋は美味しい寿司を客に提供する労働である。僕たち日本人もそう思っている者は多いだろう。寿司屋になるには、寿司に関わる知識や技術が必要なわけであるから、インターネットで調べて、自分なりに方法を工夫しながら、自分のやり方を分析しながらやっていけば、師匠はいらないという。

 まさに合理的な労働であり、試行錯誤を重ね、分析するのだから、科学の方法と似ているように思える。おそらく、思考の雛形に科学があるので、その意味で合理的なのである。

 たけしの反論はことの本質に触れている。寿司屋は寿司を握る以外にも学ぶことが多々あり、それらを学ぶには時間が必要であると。徒弟制度の肯定に見える。たけし自身も浅草で芸人修行をしてきた身であり、徒弟制度の中で生きてきたことは指摘するまでもない。

 両者の違いはなんであろうか。寿司屋は美味しい寿司を握り、客に提供するという目的があるのだから、その目的遂行のための手段として修行や徒弟制度を考えると、それらに無駄なものを発見してしまうのだ。目的合理的ではないと。

 しかし、そういう目的合理的な行為をはみ出す意味が修行や徒弟制度にあるのではないだろうか。必ずしもそれらでなければならないかというと、違う方法があれば、そうすればいいのである。

 では、そのはみ出す意味とはなんであろうか。これは明示することはなかなか難しいが、有り体にいえば、寿司屋としての生き方である。もう少し考えてみれば、仕事を有った人間がその仕事を通して、いかに生きるかという問題がそこにある。それは単に近代的な意味での労働ではなく、人生全体での生き方を仕事を通じて表現する、そういう行為なのだ。ただ金を稼ぐということではなく、その下流に美学があるわけだ。そして九鬼周造を持ち出すまでもなく、日本の文化はそういうもの美しいとしてきたのではないか。

 近代合理主義的観点からは、そのような生き方は生じない。だから、厚切りジェイソンには通じないというか、見えない。師匠の立ち居振る舞い、仕事の方法、生活態度全般に寿司屋としての生き方が表現されている。しかもいちいちそんなことを断ったり、意識などする必要はない。弟子は師匠を模倣する。しかし、模倣しきれない部分が残る。当たり前だ。違う人間だからだ。

 弟子は師匠の諸活動の具合から、仕事と生き方の様子や変化に触れていく。そこには知るという契機が生じる。この時、弟子は師匠の仕事や生き方に含まれてもいる。2人であるのに1人であるかのような矛盾した状況が生み出されていく。弟子は師匠に住まうのである。弟子と師匠、あるいはその環境が1つのフィードバック回路を形成する。この回路の作動そのものが、弟子が世界を理解する、あるいは創発を生み出す。

 そうすると、そこに弟子なりの新たな立ち居振る舞いや仕事が現れ、表現される。そして、そこに新たな生き方が描かれる。しかも、生活に根ざしているので、特別なこととも思わない。そんな倫理が生じていく。たかが食い物である。しかし、そこに生き方が組み込まれてみれば、たかが食い物とはならなくなる。ゆえに「魂がこもる」のだ。

 とっくに日本から、そんな生き方は失われたのだろうか?意外と息づいているのではないだろうかとも思う。別に寿司屋である必要もないとも思う。徒弟制度はハラスメントの温床にもなるが、生き方を学ぶ場でもあったはずだ。

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